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デカルトの不思議な命題 (自分のためのメモ) [思想]

デカルトの有名な命題、「われ思う、ゆえにわれ有り」という言葉。
懐疑をくりかえして到達した根本原理とされる。
これ自体は疑いようのない真理なのだと。

われというものは、一つの実体であり、その本質は考えるということである、
と主張している。またいかなる物質的なものに依存しない。

デカルトは、この根本原理をつかって、神の存在証明を行っていく。
この原理は完全なるある本性から学んだにちがいない。
その本性とは神である。
自分は完全ではない。だとすれば、ほかに完全なる存在がなくてはいけない。
それが神だ、という論理である。

しかし、つねづねこの命題は、不思議な内容だとボクは思ってきた。
根本原理というほど、全ての根本足りうるのか疑問に思うのである。

疑うわれ、思うわれということから、自分の存在を証明しているとされるが、
もし疑うことや思うことが無ければ、自分は存在しないということになるのではないだろうか。
疑ったりすることを意識していない場合は、自分は無いとしなければならない。

意識が途絶えてしまったとき、あるいは意識できないとき、そのような条件下では
われは存在しないとなる。寝ているとき、病気で意識が維持できていないとき、
その人は存在していない。

※※※

無心の境地というものが仏教、とくに禅では尊いとされる。
武道でもスポーツの練習でも、意識して手足や身体を操作しているうちは
初心の者で熟達していない。
意識内容から消え去るほど、熟達したときに、
無心のうちに相手を打ち負かす。あるいは相手を超越する。
これを理想としている。

車の運転でもそうだ。
初心者のうちは、ハンドル操作やアクセルやブレーキを
いちいち意識しないと操作が出来ない。
そして意識しているうちは、傍から見ても運転がぎこちない。
視点は固定していて前しか見ておらず、
横から出てきた歩行者などへのとっさの判断が出来ず、
とても危険な状態だ。

運転に慣れてくれば、どのように操作して家に戻ったのかを意識すら出来ない。
満遍なく周囲に目を配り、それを意識していない。
危険回避のハンドル操作を、どのように意識し考えた上で行ったのか、
振り返っても判らない。

デカルトは、肉体に依存しない精神作用の意識や思考を、
疑いようの無い確固たる存在としたが、それは間違っているのではないか。
肉体のなかに埋め込まれた無意識化した領域の作用が、
本当はわれわれを支えている実体ではないのかと思う。

無心の境地と禅などでは言う。
それは意識に上らない無意識の領域で行われる生活、行動こそ
本来の姿であることを示す。
つまり意識の領域を「空」にしておくことこそ、
臨機応変にものごとに対応できる境地だとする。

意識できる精神を至上のものにしてしまうと、
意識範囲に入らない存在は無視されて無いものにされてしまう。

しかしボクが信じているのは、自分が意識できないところで
ボク自身を支えてくれ、生かせしめているもろもろの存在の尊さだ。
空気、太陽の光、水、山野、動物たち、野菜など、
それらの存在がほんの10分でも与えられなくなったら、
ボクたちの存在も意識も無くなる。

(2016-01-31 SNS日記より)

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