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この頃考えさせられた免疫の話 [日常]

・・・長い前置き・・・
このコラムのスタイルが終了となる、あるいは改変されるということが
アナウンスされています。その詳細はいまだ不明ですが、
日記の形式をこれまでより、機能拡張して、公開範囲も拡大される・・・
と予感がします(オマエは予想屋か・・・)。

自分はこれまで、コラムというからには、あるレベル以上の格、
あるいは質、内容を伴わなければ、記事にしてはイカンのだと固く思い込んでいたので、
そんな高レベルなものが毎日書けるわけないじゃん、とか思ってました。

でも一連のコラム騒動(?)で、参加されている方々の考え方、
スタンスというものをハダで感じることができ、じつにさまざまな考えが
あるものだと驚嘆しました。それに読者の立場からの声も聞くことができたし。

なんだ、そんな肩肘張らず行くかなと、思い直しました。
それからコメント書かせていただいたり、くだけたスタイルで書いていいのかもね、
と今頃になって姿勢を変えたような次第です。
(くだけたスタイルは本当を言うと、自分にいちばんあっているスタイルです)
・・・前置きここまで・・・

前置きが長くなりました。
じつは免疫の話なのですが、これは多田富雄さんという著名な免疫学者の方が、
著書で示されたことがらを、作家の五木寛之さんが文章にされていて、
それを読み深い衝撃を受けましたという駄文です。

一つ例を挙げると、動物には胸腺という組織があって、心臓の裏側にメッシュ状に
広がる組織だそうです。免疫機能の重要な部分を司っている部分だそうです。
この胸腺は、身体におけるあらゆる器官が、自分であるか自分でないかを
判定し続ける裁判官のような役割をします。

にわとりとうずらの受精卵を持ってきて、その神経管というあらゆる臓器を
作り出す元となる部分に実験を行います。
にわとりの将来羽になる部分を切り取り、うずらの同じ部位を移植してしまいます。
するとこのにわとりは、うずらの羽を持ったにわとりになります。
しかし胸腺の組織がゆっくりと完成して機能をはじめると、この羽根は、
本来の自分のものではないと判定して、その組織を排除します。
羽は腐り落ちてしまうのだそうです。このにわとりもやがて死にます。

もう一つの実験。
今度は、羽の部分ではなくて脳の組織についても同様の移植実験を行います。
つまりにわとりの脳になる部分を神経管から切り取り、
うずらの脳になる部分と交換してしまいます。このにわとりは、
成長してうずらの脳に従った行動をするようになります。
鳴き方とか歩き方ですね。

そして胸腺組織がゆっくりと完成して、機能を始めます。
どうなるかというと、体が麻痺し脳が腐り始め、やがて死んでしまうのです。

鳴き方歩き方など、脳という組織は、体のすべてを制御する
全能の器官というふうに捉えてしまいますがそうではなく、
胸腺という免疫組織が、脳を超越するほどの権限を持つ最高裁判事であった
ということを示しています。

脳ですら、自分のものではないと判決を下す超強力な裁判官とは・・・
これは脳の機能と思われる、意識や意思などを超越する権限を持つものですが、
免疫が行っていることは思考の世界ではない何かですね。

蛇足ですが、将来胸腺になる部分を入れ替えてしまったら、
このにわとりのあらゆる器官が、自分(うずら)ではないと
判決を下すのでしょうか。
でもゆっくりと完成する組織なので移植は不可能かもしれません。

(SNS日記より 2016年9月12日)
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心残りとなった [日常]

先日、お盆の最中に、宗教の集まりでおせわになっていたH先生が急逝された。3週間ほど前に入院されたと聞き、見舞いに伺ったばかりで急な知らせだった。

先生は科学者としての立場から、生死の問題を追及されてきた方であった。坐禅の修行なども若い頃からされていたようだが、基本的に宗教に対しては批判的な見解にたつ。その点で自分は立場がことなっていた。したがって、宗教に関しては先生の考えの賛同者とはいえなかった。

とくに死後の世界の有無に関しては、意見が異なり、いくどか議論めいたことをしたことがあったが、深く議論する機会を得ないまま、先生は逝かれてしまった。

先生の知己をえたのは昨年の夏で、本当に短い間であったが、深いお話をする点では、遠慮なく核心についてお話できる間柄で大切な方を失ってしまった。その喪失感は大きい。

それとは別に、先生から宿題を頂いていたが、そのお答えもしないままとなってしまった。そんなことがらが、重なって心残りの気持ちが膨れ上がってくるのを感じざるを得ない。

先生からいただいた課題とはこうである。
量子力学では意識の問題が議論されるらしいので、その辺の解説を聞きたいと希望された。科学と意識の接点というものが議論されるらしいが、それはどのようなことか。

じつは一ヶ月ほど前から、若い頃の専門だった量子力学の基礎部分の書籍を引っ張り出して、問題の要点を自分の中で整理して、要約のドキュメントをまとめる段階に来ていた。しかしその作業も、報告する相手がいないので、空を切るようなむなしい感がある。

その問題は観測問題として知られていて、いまだ明快な解決に至っていないことも知った(30年を経過してもなお)。それは先生の与えてくださった機会だったのかもしれないと思う。資料をまとめる意思を固めたいと思う。

2016年08月17日(水)SNS日記より
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死生観のない今の時代 (自分のためのメモ) [日常]

海恵さんの著書から引用。
「現代の教育は健康に生きること、より長く生き延びること、
病気にならぬこと、病気になったらどうやって回復をはかるか、
老や死をどうやってなるべく避けるか、等々のことは教えます。
それは個々の人間の独立性・実在性を保つことほど最も大切なこと
とする前提に立っています。
そこから個人としての生を充実させること、
生命を長く保つことこそが幸せなことである、
という考えが身につくことになります。」
      海恵宏樹著『仏の智慧に生きる』 p.60

いつのころからかTV番組やCMにおいて、健康、若さ、長寿命が
主要テーマになってきた。海恵さんの言う現代の幸福論からの当然の帰結である。
健康で若くいるためにさまざまな商品が宣伝され売られ、
企業業績は伸びているわけである。
そのようなTV番組が、視聴率を獲得するわけだ。

しかしよく考えてみればわかるように、いずれ何らかの形で
この幸福の追求は、終点を迎える。年齢を重ねて、健康は失われ、
あるいは病気になり、体は衰えて、その最期は死が待っている。
この幸福論とは、健康なものたちのためのもので
期間限定のものだったとわかる。

このような幸福論に立っている限り、
最後は不幸で終わるという帰結が待っているわけで、
ハッピーエンドのない哲学、生き方であるとわかる。
その結末を見ないように、考えないように、
毛嫌いして生きている。老化、病気、死を避けて、
幸福を追求する。

ボクたちは無自覚にこの幸福論を受け入れて生きている。
したがって、ボクたちの最終段階はみな不幸だ。
遅かれ早かれそうなってしまう。
これは間違いない結論である。

なんという貧しい幸福論なのだろう。
すべての人が最後は不幸の中で人生を終えるとは。
老人たちが元気でいいね、いい社会だね、とか言うけれど、
それは見たくないものを前にして
最後の足掻きをしている抵抗の姿のようにも見える。

ふたたび海恵さんの著書から。
「・・・しかるに、現実は自分の望みとは無関係に年がいき皺がより、
髪が白くなり頭が禿げてまいります。
皆さんもだいぶそんな方がおられますが、
そのどなたも、「わたしは60なら60歳になったら、
この程度に髪が白くなり、この程度に頭が禿げ、
この程度に皺がより、この程度に歯が抜け、
この程度に記憶力が減退し、
この程度に非力になってやろう、あるいは、
なってみたい」と望まれてそうなった人はおられますか?
もしおられたら手を挙げていただきたいものですが、
多分、いや絶対におられないと思います。
むしろ、反対に、誰もみずから望まないのにそうなった、
というのが本当でしょうね。」
      同上書 p.82

仏教の教えるところは、生ばかりでなく、
老病死を含めたいのちの実相を見つめよ、
ということだ。生きて死に、また生まれて死に、
といういのちの姿のなかに、
おのれがすっぽりと包まれているのだという実相を見つめよと。


(2016-03-19 SNS日記より)

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