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見るということ(1) [脳]

このところ、見るという行為や、目や脳で起きていること、
その知覚について考えていた。しかし考えがまとまらない内に時間が過ぎた。
まあ、怠惰に暮らしていた面も否めない。
そもそも「見る」ということについては、
奥が深くて簡単にまとまるようなものではなかった。

まず不思議に思う簡単なことがらを書いておきたい。

まず眼球の形状のことだ。
目玉は頭の運動に加えて、哺乳類などは目玉自体が回転運動が可能なように
仕組まれている。当たり前だが、このような要請に適合する形は
球体以外にはない。

その球体の一番奥に(後頭部に近い側)に網膜という視覚を検知する
細胞の並ぶ膜がある。とうぜん網膜も球面状の形状を持つ。

この形状はとてもうまく出来ていると思う。それは虹彩で絞られて
目玉に入った光は、網膜面の上に焦点を結び外界の画像が結像される。
完全ではないにせよ絞りである虹彩から、網膜の中央部への距離も、
端部への距離も等しい形状となっている。

なぜうまく出来ていると感じるのかは、カメラの構造を思う浮かべるとわかる。
カメラのレンズは眼球のレンズとほぼ同じ働きをしているが、
カメラの結像部、つまりCCDの置かれる面は平面である。
むかしはフィルムだったが、これとて平面形状である。
もちろん平面であることは作りやすさから言って
これしかないだろう。しかしそのデメリットも発生した。

写真をやる方はご存知だろうが、撮影した画像は、基本的に四隅が暗い。
この現象をビネットとかトンネル効果と呼んでいる、
ケラれると表現することもある。
この現象は結像部が平面でありことがら起因する。
つまりレンズから結像部までの距離に関して、中央では近く、
端部では遠いからだ。距離が遠くなれば、距離の2乗分の一で光量は減る。

また平面結像部の欠点は、端部の像の歪みだ。端部へ入射する光はどうしても
結像部に対して斜めに入射する。したがって、端部へ行くほど
像が拡大されてしまう。先日TVで、集合写真を撮る際に、
端にいる人の顔が太って写ってしまうのを
回避する裏技を紹介していた。これも平面結像部の持つ欠点である。

え?裏技を教えてほしい?
集合写真を撮る際に、対象者から離れ、そして小さく写っている画像を
拡大する。これで平面結像部への入射角を直角に近づけることができる。

本題に戻ると、目玉は球体網膜への結像だから、画像の周辺部のケラレが無い。
むしろ眼球の構造図を思い浮かべると、周辺部ほど網膜に近くて
明るいかもしれない。

何が不思議なのかというと、われわれはものを見るとき、
球面上の投影された像を目で検知しているのだが、部屋の柱や電柱は
真っ直ぐなのに、網膜上の像は円弧なのである。
それをわれわれはなんとも知覚していない。
円弧状の柱などの画像を目玉に写しているのに、
視覚としては直交空間的な(デカルト座標的な)画像に感じている。

その円弧状の画像の情報は、脳への神経束を介して送られる。
この段階で電柱の画像情報は、バラバラに分解されて、視交叉を経て、
脳の中で再構築される。ここでわれわれはまっすぐな電柱と認識する。
目の端に見えていようが、中央に見えていようが、
おなじ形状の電柱だと認識している。
おそらく網膜に投影された画像は、微妙に変化していると思うのだが。

したがって目玉は光の量や色彩を検知するセンサーではあるが、
見るということの本質は、脳の働きということになる。
そしてこの脳の中で行っている作業はよくわからない・・・
(続きが書けたらまた書くことにする)


(SNS日記より 2016年10月19日)
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早撃ちガンマンがどうしても撃てない [脳]

むかし不思議な世界を紹介する番組があって、いまだに印象に残っている技が紹介されていました。

それは早撃ちのガンマンが登場して、目の前にいる武術家を撃つという企画です。
ガンマンと武術家は至近距離で向かい合います。好きなタイミングで早撃ちガンマンは
撃っていいのですが、何度試みても武術家を撃てません。
正確に言えば、撃つどころかガンホルダーから、銃を抜く動作すらできません。
抜こうとすると武術家が、その手を抑えこんでしまうからです。

早撃ちガンマンは、0.2秒ほどで銃を抜き撃つことができるようです。
武術家はガンマンの手が銃に伸びた瞬間をとらえ、次の行動を起こすはずです。
人間の目で認識した内容を脳に伝える時間、それから銃を制止する動作を
起こす時間を加算すると、0.2秒程度はかかるのではないでしょうか。

ちなみに、100mの短距離走では、スタートの合図より0.1秒以下の体の動きは、
フライング、つまり山を張ってスタートしたとみなされます。
人間の反応として0.2秒程度の時間を要するということでしょう。

ガンマンが手を動かし始めて弾を撃つ0.2秒位の時刻に、ようやく武術家は
それを止めようと手を伸ばすというのが、ふつう考えるストーリです。
ところがガンマンは銃をホルダーから抜けません。
ガンマンより早く制止動作を行っているということです。

その番組では、実験後にガンマンに尋ねていました。なぜ撃てないのですか、と。
するとガンマンの答えは、ちょっと意外なものでした。
撃とうと思った瞬間に、何かがわっとやってきて動作を止められてしまう。
とうてい撃てる感じがしない、と。

似た話は別のことでも聞いたことがあります。
居合道の名人に、素人さんが襲いかかるという設定で、襲撃を試すのです。
結果は、襲撃の瞬間に名人は気合の声を発して、襲撃者は腰砕けになってしまうのです。
立っていられなくてしゃがみ込んでしまうのですね。
見た印象では、襲撃者の意思を打ち砕くという風に見えます。

武術家の達人たちは、どうも銃撃や襲撃が行われるその意思が発生した瞬間に、
反撃動作を開始しています。そうしないと間に合いません。
この推論は、前日記で紹介したリベットの実験結果と符合します。
意識に上るより0.3秒位前に、無意識な行動がスタートしていることが
脳の電位変化からわかったわけですが、まさにこの無意識の領域を
使っているということです。

武術家を襲うということがいかに難しいことかわかりますが、
殺気を感じるというのも相手の意思が生まれていることを検知したのかもしれません。

無意識の領域の行動を鍛錬し、自然な動きを実現するところに武道の奥義が
あるのだと思われますが、じつに深いものです。
また意識の作用しない領域のなかで、どのようなやり取りを
瞬時に行っているのか興味深いところです。


(SNS日記より 2016年8月24日)
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リベットの実験 その2 [脳]

(前日記のつづきです)

リベットの行った2番目の実験の結果について記します。
こちらの実験結果も、ある意味でかなり衝撃的なものでした。
この実験では、人間の意思というものがうまれ、
それが体の運動になっていくプロセスを、時間的な推移を追って
調べたものです。

脳の電位を計測しながら、被験者にボタンをしてもらいます。
ボタンを押そうという意思が決まった時刻を計測するために、
被験者は目の前の時計の針に注目します。
押そうと思ったときの針の位置を記憶します。
そして実際に手が動いて、ボタンが押された瞬間も計測します。

押す意思が決まってから、だいたい0.2秒ほどの時間が経過して、
実際のボタンが押される結果が出ました。
このくらいの遅れはあるものでしょう。

しかし驚くことは、ボタンが押される0.5秒前に、
手を動かす脳電位には変化が生じており、
手を動かす動作が開始されているという事実でした。
ボタンが押される0.5秒前というのは、変な結果です。
なぜならボタンを押そうという意思が固まる0.2秒前より、
さらに0,3秒も前の時刻だからです。

意思を固めた時刻の計測方法に、疑問が呈されました。
しかし視覚処理の時間、神経の伝達時間など考慮しても、
0.3秒という時間は長すぎるということで、
これらの批判はその後否定されています。

この結果は、人間が動作を開始しようとする意思や意識が生まれるよりも、
かなり前の時間に脳の電位は動き始めていて、
それを自意識では意識していないことを意味します。
手を動かそうと思った時には、すでに手は動き始めているということです。

自由意志というものが果たして人間は持っているのかという議論が
なされているようですが、まだ結論は出ていません。

しかしこの結果は、日常の経験からは納得いく部分もあると気が付きます。
感情が昂ぶったあまり思わず子どもを打っていたとか、
思いもしない言葉を吐いてしまったとか、
自制心とは別に「無意識の行動」を起こす仕組みがあって、
何かの折にそれが噴出するように現れる、あるいはやってしまう。

人間の行動には、自分では意識しない部分で行動をすでに
始めているのではないか、という感覚です。
すると理性的な人間といっても、それは自分の行動を自分で意識できる
時刻以降のことがらであって、意識する前の行動に、理性の抑制は利きません。
つまり気が付かないうちにやってしまうのです。

この自由意志がないのかも知れないという実験結果は、
人間の本質に迫るものを秘めていて、奥深いものです。
前日記にも記しましたが、人間の行動は、体や無意識で働く回路によって
引き起こされていて、意識はそれを後追いしている存在に過ぎないということです。

話は突然飛躍しますが、親鸞聖人の言葉を思い浮かべます。
「さるべき業縁のもよほさば、いかなるふるまいもすべし」とは
歎異抄十三条の言葉です。自分が善人であるという自認は、
おかれた環境や働きにより何の力も持たないのだという事実を
示していると思います。自力の限界を示しています。

偽善者はなぜ偽善と呼ばれるのか、それは自分の力で
自分は善人でありうると固く信じているからです。
しかしリベットの実験は、その思いを打ち砕きます。
自分が善人だ、だから悪いことは犯さないという意識が生まれる前に、
すでに何らかの行動を起こし、あるいは何らかの感情を持つわけですから。

自分は悪人なのだ、地獄行きは間違いないと明言する親鸞聖人には、
この内面のこころの動きを直覚していたのだろうと思います。


2,016年8月20日 SNS日記より
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