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不安に対処しないという対処 (自分のためのメモ) [人生]

不安というものは嫌なものです。
不安のネタがあるときはそのことへの関心が頭を占めますし、
嫌な気分に苛まれます。

それに厄介なことに、不安のネタがない時でも、
やはり不安というものは同じように湧くのです。
体質が過敏になると、不安がないことが不安のネタになります。
これは冗談でなく、本当に起きる現象です。

改善意欲の強い人や、完全にこだわる人は、
この不安を何とか無くす努力をします。
生活感情のなかから「不安」の文字を消し去ろうと努めます。
こんなものがあっては堪らないとばかりに。

しかし不安と闘っても、勝ち目はありません。
湧いてくる不安というものは理屈で生じているのではなくて、
ほぼ感情に近いものですからね。
だからいろいろな無くす努力は通用しないのです。
なくなったと思ってもそんなものは一時しのぎに過ぎず、
また湧いてきます。

中国禅の第二祖に慧可という方がいて、
達磨大師に師事しその法を嗣ぎました。
慧可が達磨大師に弟子入りするときに、
不安で不安で堪らない、
どうか師よ、自分をお救いくださいと懇願します。

達磨は、その不安の心をここに差し出してみよと命じます。
何年か何ヶ月か分かりませんが、
慧可は追求の努力を重ねたと思いますが、
終いに、その不安の心をとらえることはできない!
と絶望して達磨に訴えます。

このとき達磨の言ったことで、慧可は問題を解決します。
達磨は「お前の不安を取り除いてやったぞ」というのです。
なんだか拍子抜けするような言葉ですが、
じつに深い言葉であると反芻します。
またこの師弟が向かい合う心の状態があまりにも対照的です。

慧可はすっかり絶望の淵にいるのに対し、
達磨はそれが救いだ、
それで安心だ、と言っているのですから。

不安はわれわれを苦しめます。苛みます。
それにたいして解決の道は無いに等しいです。
どうしたらいいのかと問い続けます。
ついにはどうしようもなくなって絶望してしまいます。
そのときに、その課題解決!とは。

不安とは、未来を感じて先取りする気分です。
それはここには無いものです。
過去のことがらに不安は感じません。
また現在のことがらにも(恐怖や脅威はあるにしても)不安はありません。
未来の影です。

したがってそれの存在を否定はできないです。
不安が無いとすることはできない。
自分は未来を持つと考えるかぎり、不安はあります。
しかし不安を生み出す本体は現在には無いものです。
つまり頭で未来の影を先取りして苦しむのです。

その構造が納得できてしまうと、
不安はなくならないことが分かると同時に、
その本体はここにはなく、
現在に生きる自分には対応の方法も無いのだとわかります。
なので、放っておくしかないということになります。

森田療法では、作業を通じて不安に固着した心のクセを離脱させようと試みます。
いや離そうとする自力努力は、ますます固着させてしまう方向に作用しますので、
放っておくのです。
不安は現在には関係していないのですから。

(2016-07-25 SNS コラム記事より)

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心貧しき人 (補足編) [キリスト教]

イエスに説教に、こころ貧しき人は幸いであるとの言葉があります。
この貧しい人という表現に、つまづく人が多いだろうと思います。

神を受け入れるこころの余地のたくさんある人というふうに自分は考えます。
神だけでなく、ほかの人の存在や生き方などに関しても同様です。

パリサイ人や律法学者は、罪を犯した人たちや、
律法を守れない人たちを、心の中でバッサリと切り捨てて、
それを裁き非難します。

その人の陥っている事情や生活の背景や、
そういうことには関心がなく、まして情状酌量のような気持ちや、
その立場に同情するというような余地もないのですね。
罪を犯した人は悪の権化であるかのように見ます。

※※※

話は変わりますが、自分は絵画教室や公民館などで講座を持っていますが、
生徒さんたちの上達の姿や、途中でやめてしまった人たちの姿を見ていて、
「心の余地」というものの大切さを思います。

水彩画などの知識がほとんどなくても、いわれたとおりに道具をそろえ、
素直に学んでいく人は、ある時期になると急速に上達して、
いい絵を描くことができるようになります。
1年目は言葉がわかってくる段階で、これまでの経験では、
3年目くらいからびっくりするような上達をみせます。

このような方たちの姿には、「愚直」ということばを思い浮かべてしまいます。
先生から言われたことがよく分からずとも、ともかくついてくる人。
言葉がわかってくると、どんどん吸収していく感じがします。
他の分野でも、やはりこのような方が上達の姿を見せるのではないかと
思いますね。

いっぽう一年もしないうちに辞めてしまう人は、
決まったパターンがあると分かるようになりました。
それは一言で言えば「自説を持った人」、あるいは「疑い深い人」です。
自分を持っている人というふうにも見えます。

こちらのアドバイスに対して、それを受け取ることをしないで、
自分の考えをぶつけてきます。それに対して説明を加えていくと、
その人の心の中に葛藤が生まれているのです。
自分の思っていること、疑っていることが首をもたげているのですね。

何年も絵を描いてこられた方で、知識も豊富であるというならば、
意見の相違や描法のちがいなどがあって当然です。
しかしこれから始めようという段階の方が、自分の考えを持っている、
あるいは疑いを持つというというのは、
すこし自分の持ち分が過剰ではないかと感じます。

このごろは、スタートする前から、辞めてしまうだろうと予想がつきます(笑)。

習うということは、真似することでもあり、それは自分を捨てるということです。
虚心に先生の言うことを聞いて学んでいこうということです。
また、名画の模写がものすごく勉強になるのは、
自分を捨てるように強いてくるからです。

守破離という言葉がありますが、最初はいわれたとおりに
伝統を守るという部分がきます。
それは自己を捨てていくということでもあります。

キリストのことばを使わせていただくならば、こころ豊かな人、
自分でいっぱいの人に相当するように思います。
律法学者のように自分を説を強く持つというより、
疑いを持つという消極的な自説ということになるのかもしれませんが。

どれだけ言葉を尽くされても、自分の経験や知識、
疑念などが邪魔をして、相手の言葉を受け取れない。
これは習い事ばかりでなく、宗教のような人生をかけるような
状況でも似ているなと感じます。
疑うことは人生をダメにしてしまうこともあります。
心貧しいとは、おのれを空しくして素直について行く姿なのですね。

(2016-07-23 SNS コラム記事より)

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心貧しきものとは・・・ [キリスト教]

聖書マタイ第5章には、イエスが説教したとされる山上の説教が記されています。
心の貧しい人は、さいわいである・・・と始まる有名な説教です。

この「心の貧しい人」とはどういう意味なんだろうと、いつも不思議でした。
日本語として、心が貧しいとは、どうもネガティブな内容を指すように受け取れます。
イエスの冒頭の言葉がすっきりと身に入ってこないのです。

日本語への翻訳の際に、分かりにくくなったのだろうかと調べてみます。
まず聖書協会の口語訳は、
「こころの貧しい人たちは、さいわいである。天国は彼らのものである。」

原文は、
「Happy are those who know they are spiritually poor;
the Kingdom of heaven belongs to them!」
つまり心において、あるいは霊的において、貧しいとなっています。
なおpoorは、貧しいとか、哀れな、質の悪い、劣るなどの意味です。

そして、この翻訳とは異なる訳として、フランシスコ会の聖書研究所のものがあります。
「自分の貧しさを知る人は幸いである。天の国はその人たちのものである。」

あるいは、
Blessed are they who knows their spiritual poverty,
for theirs is the kingdom of heaven.(Good News Bible)

こちらは貧しさを自知する者は、といっています。
つまり客観的に言われる「貧しい人たち」というより、
おのれの貧しさを「自覚する人」というニュアンスです。

しかし貧しさというその内容に関しては、はっきりしない印象です。
貧しさとは何を指すのか、しかも貧しいほど幸いであると言われる貧しさとは。

最終的に、自分はこんなふうに考えています。
イエスが語っている他の言葉や説教、
それに新訳聖書を通してイエスが語っていることがらを、
宗教の本質的なメッセージとして受け止め、理解するということです。

イエスはパリサイ人や律法学者を打ち破るために来たのだ
という言説がおおく見られます。つまり法律をきちんと守り、
自ら義人であることを誇る人々、そしてそれを守れない劣った人々を蔑視する、
あるいは処罰せよと叫ぶ人々。

このように自ら頼むところのたくさんある人は、
心豊かと言われるべきものかもしれません。
こころにたくさんものを持っていて、一杯になっている人たち。
そこに神の入る余地はあまり無いのかもしれませんね。

そこに隣人を愛するような精神は生まれようもなく、
罪を犯した女に石のつぶてを投げよと叫んでしまう。
たしかに彼らは律法を犯したことはなく、
何も咎められうことはしていないのです。
ただ、心が自分で一杯。自己弁護で一杯。

このような文脈で見直すと、心の貧しきものとは、
神に向かうとき、こころに何も持たない人、
おのれの(自我の)主張を優先しない人、
なりより謙虚で、敬虔である人、
そんな人間像が浮かんでくるように思います。

こころを空しくできるものは、幸いである。

あるいは、

みずから奢ることなく、素直であり、
あるがままでいられるものは、幸いである。

日本には、心を空しくしてことにあたる、という言葉がありますが、
それに近いのかもしれません。そうすると仏教の説くところと、
たくさん共通するものを感じ取ることができます。

(2016-07-22 SNS コラム記事より)

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信じるということ [宗教]

宗教に関することがらを勉強しようという趣旨で、月1回集まりをもっています。
7月からは歎異抄を通読してみるという試みがスタートしました。

第1条の有名な文章は、歎異抄全体をまとめたように感じます。
とくに、信じるということがらが、ポイントであるように思います。

普通の意味で「信じる」という言葉で了解されている内容とは、
かなり異なると思われます。
異なるというよりも、ガラッとちがうことを指しています。

普通の意味で言われている信じるという内容は、
こんな風ではないでしょうか。
まず「自分」がいて、つぎに「神」や「阿弥陀仏」が向こう側にいると仮定して、
次にそれが本当にいることを信じるという順番です。

信心がないならば神という存在は在り得ないということになります。
神がいないということになれば、自分しかいませんね。
宇宙の中の孤独のような・・・

自分の信心があれば神が出現します。こちらの信心しだいで、
出たり隠れたりします。まことに忙しいことです。
神の存在の決定権は、この自分の信心しだいと言うわけです。
この中で貫かれている考えは、「自分はいつもいる」という前提です。

ところが信仰とは、まず自分が先にあってそこから始まるという順番ではないのだ、
ということをはっきりさせなければならないのです。

自分があろうがなかろうが、その世界は厳然としてあったであろうと
考えるのがすじです。自分の存在は、100年前には無かったし、
100年後も無いでしょう。具体的には、
物心ついたときから始まり、死んで意識を失うまでの、
たかだか100年弱の儚い存在です。
そんな自分という存在が、神の出没を決められるわけが無いのです。

むしろ神のような世界の側から、自分はいろいろな縁をもらい生まれ出てきた、
というべきでしょう。それが本当の偽らざる事実です。

すると、信じるということは何を意味するのか、再検討しなければなりません。

それは、神の支配している世界から自分が何かの機会に
生まれ出てきたことを前提に考えるならば、
信じるとはこの世界の真実を気づかされることを意味します。
自分の置かれた位置や、成り立ちを自覚することになります。

別の見方をすると、それは真実の世界の呼びかけに、
初めて気がつくということです。神が在るとか無いとかは空論であった、
頭の中の空想であった、と夢から覚めることです。

歎異抄の第1条には、
「念仏申さんとおもひたつこころのおこるとき、
すなわち摂取不捨の利益にあづけしめたまふなり」
と書かれています。

この念仏申さんとおもいたつこころがおきるとは、
まさに真実の世界の呼びかけに気がつき、
おのれの位置が明確になった瞬間です。

そしてそのときに、ある意味で全て解決してしまう、
そんなふうに読み解きます。信じたのちに、
やがて何かいいこと(ご利益)が起きるというのではないのです。
難しい部分ではありますが、これが出発点であると思いますね。

(2016-07-19 SNS コラム記事より)

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なぜ私たちでなくあなたが? [宗教]

なぜ私たちでなくあなたが?
あなたは代わって下さったのだ

これは神谷美恵子さんの詩の一部です。

神谷さんは、らい病(ハンセン病)で隔離された長島愛生園で患者さんたちの精神医療にたずさわりました。この詩の元のものは、らいに罹った患者さんたちの姿を直に見て、その地獄のような状況がふかく心に刻まれ、その結果生まれた詩のようです。
この一節は、神谷さんのそれからの生き方、考え方を象徴するような代表的な言葉として、広く知られています。

困難な状況や不治の病気にかかるなど、実際の目の前で起きたことがらに触れるとき、ひとはなぜこのようなひどいことが起きるのかと疑問の声を発します。

神谷さんは、なぜそれがあなたに起きたのか?と問います。ついで、あなたは代わって下さったのだと思考を深めます。

ヨブ記は、神からいわれのない災難を次々と下され、ついに神や運命を呪う言葉を発する旧約聖書の物語です。このときは、なぜ自分にこのような災難が起きるのか?と問います。
神谷さんの問いと、ヨブの問いは、表裏いったいで、つまり同じ問いです。自分の身に起きるか、目の前の人間に起きるかの違いです。

ただ神谷さんは、起きた災難や不幸というものは、その人のもって生まれた業が祟ったのだとか、その人に何にか災難を引き起こす原因があったと、その理由を個人に帰結するような見方をしていません。

このような事態は、誰にでも起きうることであると見ています。だからなぜあなたにそれが起きたのか?と問うと同時に、自分に起きうることがらを、あなたが担ってくれたのだという見方をします。

病気や不慮の災難は誰の身にも起きうることがらです。誰に起きるかについては確たる理由などなくて、ただ現実に誰かの身の上に起きたのです。いわば人類全体で誰かがそれを担っていかなければならないと考えることができます。

そこから考えを進めると、それを担っていただいたという言い方が出てきます。本当は人類全体で担っていかなければならないものを、誰かにそれを担当してもらったという気持ちです。

誰かが災難や不幸な出来事に遭遇して苦しみ、また悲しむとき、それは他人事ではなく自分だったかもしれないと感じられます。自分だけは、そうはならないと見なすのは現実の姿を見ていない雑な見方というか、真実に目を向けていない見方ということができるでしょう。

さらに考えていくと、そのような事態が発生するたびに、それは自分の身にも起きる可能性があった以上、責任の一端があり、一部を担っていかなければいけないという気持ちにつながります。

この考え方は、災難や事故という不可避な出来事だけでなく、ある人間が罪を犯すという事象に対しても、広がる気がします。その犯罪は自分も起こす可能性があったのではという思いが湧くのです。その犯罪の因はおのれの中にも存在したけれど、たまたまそちらのほうに行かなかっただけだった、という気持ちです。

このように進めていくと、犯罪を犯した人を一方的に責められるのであろうかという気持ちが一部生まれます。
自分には関係ないとか、自分はそんなことをするはずがないとか、自分は善人だからそんなことに陥らない、という見方は、自分を特別視して、悪に陥った人たちを差別することにもつながります。

ふと、親鸞のことばを思い浮かべます。
「さるべき業縁のもよほさば、いかなるふるまいもすべし」

(2016-07-08 SNS コラム記事より)

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中心から外すということ [人生]

パール・バックの言葉です。

「私が世の中の人々を、避けることのできない悲しみを知っている人たちと、全く知らない人たちとの二種類に分けることを知ったのはこの頃でした。というのは、悲しみには和らげることができる悲しみと、和らげることのできない悲しみという根本的に異なった二種類があるからです。
・・・和らげることのできる悲しみというものは、生活によって助けられ、いやすことのできる悲しみのことですが、和らげることができない悲しみは、生活をも変化させ、悲しみ自身が生活になってしまうような悲しみなのです。」
   神谷美恵子著『生きがいについて』 p.134

その悲しみとは何かということは一概にはいえませんが、
おそらくこのような言葉によって、了解する人と了解しない人がいるでしょう。了解できる人は、その意味を知っていると断言してもいいでしょう。

自分の経験に照らしてみても、癒すことのできない悲しみや苦しみを背負った人と、それらとは無縁で生きてきた人がいることはよく分かります。
後者の幸運な人々というものはいます。そして和らげることのできない悲しみを理解できないがゆえに、不用意に言葉を発したり意見を述べたりすることで、人を傷つけてしまうことがあります。

おのれの人生が順風満帆で、やってきたことが社会的にも認められて、すっかり善人であり社会の規範であるという、強烈な自己意識を持っている人もいます。やがてパリサイ人のように人を批判したり非難したりするようになります。

余談になりますが、イエスはこのような人々を端から相手にしなかったと思いますね。この世で苦しむ人、悲しむ人に寄り添い解放と救いを与えるために短い一生をささげたように見えます。

それはともかく、パール・バックの別の言葉があります。
それは悲しみとの融和ということがらについて述べたもので、こちらの言葉に注目しました。

「そして私の魂を、反抗によって疲れさせることは止めました。私はそれまでのように、「なぜ」という疑問を次から次に持たなくなりました。しかしそうなった本当の秘密は、私が自分自身のことや悲しみを考えることを止め、そして子供のことばかり考えるようになったからでした。
・・・私が自分中心にものごとを考えたり、したりしている限り、人生は私にとって耐えられないものでした。そして私がその中心をほんの少しでも自分自身から外せるようになった時、悲しみはたとえ容易に耐えられるものではないにしても、耐えられる可能性のあるものだということを理解できるようになったのでありました。」
     同書 p.152

パールバックは、娘が知恵遅れの子供であることが判明し、一生面倒をみていかなければならなかったと分かったそうですが、この最後の方で語られた、中心から外すということがらに注目する、と神谷さんが述べられています。

これは本当に重要なことがらですが、宗教的な回心とも関係していると考えます。悲しみや苦しみの中にいるとき、ボクたちは「あまりにそれを真っ芯に受け止めている」と思います。体の真ん中で、受けてしまっています。こうなると解決の道がまったくみえず、絶望に陥っていきます。

それを外すとはどういうことなのか、説明するのはむつかしいのですが、わき腹くらいをかすっているような感覚というのでしょうか。まじめに考えない、というのも近いですが、すこし違います。経験した人ならば分かるように思います。

理屈をまじえて言えば、世界の中心に自分がいて、その自分がとんでもないことになったと慌てているのです。なんでもかんでも自分、自分、自分という自分教の響きの中で生きているのです。

ところが自分は世界の中心でもないし、端っこに生きているものに過ぎないので、他人はそんな世界の中心にいる人とは思いません。だからバタバタとあわてなくてもまず状況をよく見ようと一息いれるような感覚ですね。

苦しみや悲しみが消えるとはいえないのですが、肩の力がパラリと解けてしまうのです。禅でいう悟りの体験もこれに通じているでしょう。

続いてパールバックの言葉です。

「彼女が何年たっても子供から成長しない、知能がそれ以上発育しないだろうということを知ったとき、私の胸を突いて出た最初の叫びは「どうして私はこんな目に遭わなくてはならないのだろう」という、避けることのできない悲しみを前にして、すべての人びとが昔から幾度となく口にして来たあの叫び声、そうです、あの同じ叫び声でした。この疑問に・・・なんの答えも決して出てくるはずがないと最後に私が悟ったとき、私の心は意味のないものから意味を作り出そうという決心になり、そして、それがたとえ自製の答えであっても何かの答えを出そうという心に変わりました。」
    同書 p.154

(2016-07-07 SNS コラム記事より)

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