SSブログ

池田晶子さんの言葉をめぐって [死]

若くして亡くなった哲学者池田晶子さんの言葉を、折にふれて紐解く。
思考するということの力強さを、いつも感じさせてくれて思いを新たにする。
また真実にも。

今日はこのような言葉を味わった。
「そもそも私たちは、自分の決断で生まれたわけではなく、
自分の決断で死ぬのでもない。生まれて死ぬという、
人生のこの根本的な事態において、私たちの意志は全然関与していない。
気がついたら、どういうわけだか、こういう事態にさらされていたわけです。
・・・(略)
人間が自分の意志でできることなんか、たかが知れているのです。
人生は自分の意志を超えているのです。」
      『死とは何か』より

このことはもっとも単純、わかりきったことだなのが、日々の暮らしの中で、
自分の意志とか意識とかがもっとも優越していて、
この世の中や宇宙でさえもそれに膝まづかねばならないと思ってしまう。
このノーテンキでお調子者の自分たちは、どうしようもない存在だと思う。

認識という作用自体が、そのような構造を含んでいると考えられている。
主観があって、その向こうに対象がある、ということは常識となっている。
主観と客観とを分けてしまったために、その関連がわからなくなる。

この構造のベースにして、宗教を考えてしまうから、余計ややこしくなる。
こちらに自分がいて、向こう側に神がいるのかいないのかという
議論になってしまう。信じるとか信じない、あるいはいるとかいないとか。

池田さんの言葉をそのまま持ってくれば、神はあなた自身も含んだものです、
あなたの存在、あなたの思考それらもろもろをすべて包み込んだものです、
ということになろうか。

生み出されたのが自分であって、自分が信じるとか信じないで
神が向こう側に生まれたり消えたりするのではない、ということなのだが、
自分意識優越の立場から脱却できないから、
この単純な理屈すらわからなくなる。
孫悟空のひとっ飛びが、たかがお釈迦様の手のひらの中の話だった
というのに似ている。

池田さんの次の言葉も好きだ。
「奇跡とは、何か変わった特別の出来事をいうのではなくて、
いつも当たり前に思っていたことが、じつはすごいことだったと気づく、
そういうことなのです。
この奇跡に対する驚きの感情が、感謝という感情の基礎にあります。
自分が存在することへの感謝、それはおそらく人間にとって、
究極の感謝でしょう。」
      『死とは何か』より


(SNS日記より 2016年9月15日)
nice!(0)  コメント(0) 

あの世に関する討議を経て [死]

昨日は、宗教に関するテーマを勉強する小さな集まりで、
トークをさせてもらった。これで2回目のトーク。

この集まりでは、おもに生死観やあの世に関する話題が多いのだが、自分の生命観、生死に関する考え方を披露させてもらった。

トークのあとの討議において、主催者のH先生から、質問と討議が行われた。H先生は、臨死体験や生まれ変わりなどの事象について長年調査をされており、あの世はあるのだという立場に立たれている。質問と討議は、とうぜんこの部分に関することがらだった。

質問のひとつは、わたくし(OASIM)が、死後の世界があると考えているかという点。答えは、明確ではないことがらなので在るとも無いとも言えないという回答。また死後の世界への関心は、ほぼまったく持ち合わせていない。

逆に当方からの質問。
あの世が在るか無いかは、おそらく決着がなかなかつかないと想定される。科学的な証明という土俵に、上ることは無いだろうと考えている。H先生はどのような動機で、それを調査されているのかという問いかけ。

大別すると、純粋に学問的な関心から臨死体験を調べるスタンスと、もう一つは、宗教的な観点から、死んだらどうなるのだろうかという不安や心配から調査する観点があると思うが・・・。

するとH先生は、学問的な手法でこの問題を調査しているものの、ようするに死んだらどうなるかに関して疑問を持っているとのこと。

あの世があると考える方が、この世で安心して生きて、死んでいける。あの世が無いとすると、この世の出来事(善行や悪行)は継承されず、あの世における審判のようなものが無いことになる。

卑近な言い方をすれば、やりたい放題に悪を重ねても、だれも罰せられないこととなり、マジメにやってきた人は損をする。やりたい放題の人間は得をする感覚がある。

つまりあの世を想定することで、死の不安や心配をぬぐうことができるし、この世の秩序をたもつ効果をもたらすという考え方であった。

そこでさらに質問。
その得をするのは、何に対してなのか。まじめに生きて、やりたいことも我慢したのに、やりたい放題でもよかったのにという後悔があるからでしょうか。

また、やりたい放題の悪行を重ねて、思い切り自我の欲するままに周囲の非難や迷惑、影響を考えずに生きてきた人間の最期は、どのような心境ですか。人生やりたいことやって、ああ、よかったと感じますでしょうか。

またもう一人の人間がいて、自身は貧困であっても、ひとのために尽力し、陰徳を積むような生き方をしてきた人の最期の心境は、どのようだと思われるでしょうか。
さらに、やりたい放題だった人の末期の心境と、徳を積んできた人の心境と、どちらが優れていると考えられますか。

この最後の質問に対しては明解な答えは得られず、別の話題に移った。

******

ボクは思う。
あの世で最後の審判や、閻魔大王が待っていて、
この世の善行、悪行に関して裁かれるので、この世を清く正しく生きるという考えは、刑法とおなじで刑罰への恐怖心が犯罪の抑止力になるという考え方とおなじである。
だからあの世が無かったとすれば、やりたい放題した方が、得だということになる。

この考え方は、自我を満足させればさせるほど、得をして満足であるという人生観に立っている。つまり自我の満足度で人生の充足度が決まるという考えである。

あの世の有無の議論をしているけれど、ようするに現世の生き方(自我の満足)の価値観の問題に帰着している。

しかし、死を前にしたとき、自我のやりたい放題が最大級のレベルで否定されるわけだが、この点はどう折り合いをつけるのであろう・・・

仮に、死ななければならない存在であると認めるにしても、あの世がある方が安心だということは、この我はあの世まで存続できることになるからなのだろうか。

あの世があると推定するのは、この世の安心を優先して、あの世を考えているということになるだろう。
この世での願望がもとになって、あの世が存在している方がいい、だから在るのだという議論になる。

この討議で、結論らしい結論はでていない。
先生の考えておられる道筋は、よくわかった気がする。

(2016-04-17 SNS日記より)

にほんブログ村 哲学・思想ブログへ
にほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 仏教へ
にほんブログ村

ブログランキング・にほんブログ村へ
にほんブログ村

もはや、これまで (自分のためのメモ) [死]

むかしから不思議に思うことがあった。
アフリカのサバンナで、猛獣のライオンが、
カモシカのような弱いと思われる動物を狙って、
追いかけ、やがて追いつき背後から、爪を立てて
かぶり付く。そして倒した獲物を食べはじめる。

このような映像をTVなどで視聴できるようになって、
どうも引っかかりを覚えるシーンを目にして、
しだいに気になったのだ。

後ろからライオンが襲って、カモシカがその歯牙の元に
捕まったとき、カモシカの眼は大きくみひらいたままで、
手足がジタバタしていない。
この見開いた眼が、妙に気になるのである。
恐怖というより、観念した眼のように見えてしまう。
まるであなたにこの身体を捧げますとでも
いっているかのような、穏やかな眼なのだ。

これは一体何だろうか。

そう見えるだけなのかもしれないが、獲物となった瞬間に、
ジタバタと足掻く姿というものを見たことがない。
専門家に言わせれば、ハンターはとどめを刺すような
急所への噛み付き方をするものだと言うかもしれない。

どうもボクには、生命の終わりにさいして、
死への移行の状態があり、死への準備をしているように見える。
自然界における弱肉強食の世界では、
これが暗黙の了解事項であり、食べるものと
食べられるものとのメッセージのやり取りなのではないだろうか。

食べられてしまう状況になり、逃れられないと覚ったときに、
おのれは食料としてこの身をライオンに捧げる状態に、
生命体は移ってしまうのではないか。

※※※

死期を覚って覚悟するという言葉がある。
それまではイヤだイヤだとジタバタしていたとしても、
いよいよのときになれば、その運命を受け取り、
静かに死を迎えるということがあると思われる。
もはやこれまでと覚り、次のステージに向けて
最善の姿勢になる。

本来、生命体というものはこのような知恵が備わっており、
死は自然な通過点なのかもしれない。
もしほんとうに、いただいた命であることを
深く自覚するならば、死期に際していただきものの命を、
お返ししますという気持ちになるのではないだろうか。


(2016-02-13 SNS日記より)

にほんブログ村 哲学・思想ブログへ
にほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 仏教へ
にほんブログ村

ブログランキング・にほんブログ村へ
にほんブログ村

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。