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ここまでくるとアホなのだ (自分のためのメモ) [浄土真宗]

因幡の源左が、日々生活の場面で見せた行動には、
常人ではうかがい知れない奇行が多い。
常識的な見地からは、なんとアホくさい奴とか、
バカバカしい念仏者とか、そのような印象を受ける。

妙好人というのは、泥臭くて、知性が感じられなくて、
念仏ばっかり称えているアホのように見えるのだ。
まったく現代的でなく、いまの時代に賞賛を浴びるような
そんな人たちではないのだ。

源左が草取りに田んぼに出かけていたら、突然夕立が
やってきた。
雨具を持っていなかったため、源左は、
ずぶぬれになってとぼとぼ帰ってきた。

その帰り道に、お寺の住職にいきあって、
「爺さん、よう濡れたのう」
と声をかけられた。すると源左は、
「ありがとうござんす、ご院家さん。
鼻が下を向いとるでありがたいぞなあ」
と言って雨の中を帰っていった。

鼻の穴が下を向いているので、雨が入らなくて
よかった。上を向いていたら雨が鼻から入って
息が出来なくなるところだった、ということらしかった。

ふつうわれわれは、なんて雨だ、突然降り出して、
すっかりずぶ濡れになっちまった、と怒りの心境で
帰り道を急いだのではなかっただろうか。

まして、住職に声をかけられたら、
「まったく!すっかり濡れてしまって、
えらい目にあった」
とぼやくのではなかろうか。

では源左は雨にずぶ濡れになったことを、
どう受け止めたのだろう。

想像するに、
雨が降れば濡れてしまう。
雨具を持っていなければ、濡れて帰るしかない。
ああ、雨がよう降るなあ・・・
と「事実を事実としてただ受け取った」
のではなかったろうか。

ボクたち凡人は、いつも心の中で、こうしたい、
こうなりたい、こんなことはイヤだというつぶやきを
繰り返している。自分の欲望を核にして、この世の
出来事を眺め、怒り、嘆き、悲しんで生きている。

意識していなくても、このようなつぶやきの中で
暮らしている。たまたま、雨に濡れてしまう事態に
遭遇して、そのつぶやきが意識に昇ってきて、
くそっ!と怒りの感情になるのだ。

雨が降らなくて日照りが続けば、農家の人は、
雨がふれふれと思っているから、雨を喜ぶ。

ボクたちの日常は、こんなことを飽きずに
ずっと(おそらく死ぬまで)繰り返している。
自我の欲望と、食い違いを見せる現実の
ハザマでいつもあれこれを思い悩んでいる。
そして、思い悩んでいるこころが生まれる構造に、
一生思い至ることはない。
道理に暗いということなんだ、残念だけれど。

事実を事実としてそのまま受け入れて、
鼻の穴が下を向いていて雨が入らなくて
よかったなあ・・・
今日も田んぼの草取りが出来てよかったなあ・・・
とぼとぼ歩いて帰れる足が健康でよかったなあ・・・
今日も息が出来てよかったなあ・・・

おそらく源左のこころのうちはこんな風だったのだろう。
アホの境地なのだろう。

(2016-04-30 SNS日記より)

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hahahaha
by お名前(必須) (2017-06-23 10:13) 

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