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今日の言葉 ~信じること~ [浄土真宗]

「・・・だから人間が仏や神を信じるという態度は
おかしいのです。そしてこのような形で信ずれば、
必ず裏切りにつながります。

ひろさちや著『人は死んでもまた会える』より」

人間は、神を信じるとか信じれないとか言う。
そして信じない人には救いは無く、
その人は地獄に落ちると恐れる。

しかしさちやさんは、その態度はおかしいという。
それじゃ人間が主で、神が従だと。

確かにそうである。
人間が信じるとか信じないという態度を決めることで、
神が救いの手を出したり出さなかったりする。
神の手は、人間の信仰の有無で出たり引っ込んだりする。
神の自由は無いのだろうかということになる。

また信じる信じないの態度如何で、
救いというご利益が、出たり入ったりするのであれば、
ご利益のため、人間が神を利用しているだけだ。
人間のご都合で、神の出番が有ったり無かったりする。
はたして神は人間に使われているご利益マシンなのか。
神はそんな軽薄に利用されてしまう存在なのか。

だから人間の方で、信じますとか信じませんとか
言っていることは、すごくオカシイ。
そんな尊大な態度でいいのかということ、
そして、神の行為を左右するほど、
そんなに立派なんですかアナタは?、ということになる。

いやそんな大それたことは考えていないと、
言ったとしても、要するに信じるからには、
必ず救ってくださいねと神に命令しているのと同じだ。
だから信仰していても、ご利益が無ければ、
(無いと信じられなくなったら)信仰は捨てられてしまう。
いつまでもグラグラして、いろんな神を遍歴していくことになる。

では信じるとは何なのか。
信仰とは何なのか。

親鸞さんの言葉をまとめた歎異抄に、
こんな言葉が出てくる。

「この親鸞は、一人の弟子も持っていません。
なぜなら、わたしのはからいで他の人に
念仏させるなら、その人はわたしの弟子とも
いえるのでしょうが、阿弥陀仏のはたらきに
うながされて念仏する人を、わたしの弟子などと
いうのは、まことに途方もないことだからです。
・・・
如来からいただいた信心を、
まるで自分が与えたモノであるかのように、
取り返そうとでもいうのでしょうか。  第6条より」

人間が信じる信じないと言明するよりも、
(はるか前の段階ですでに)
信じられるものだと分かること、
そのことを自覚し分からせてもらうこと。
信心は向こうから与えられるもの、
救われていることのお知らせ。

(2015-10-06 SNS日記より)

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今日の言葉 ~ご縁~ [浄土真宗]

ご縁をいただいて生きていると浄土真宗の方はいわれる。
言葉はやさしくわかりやすいと思いがちだが、
そんなに単純ではない。
天地がひっくり返るほどの転換が秘められて、
その境地に至っている。

小川一乗さんの著書から。
「・・・これが、生かされているという仏教の基本的な考え方です。
私がいて、ご恩をいただくのではありません。
ご恩が私となってくださっているのです。
そのご恩をすべて取り除いたら、この私は空であり、ゼロなのです。
・・・
腹を立てるご縁が私となってくださったから、私に腹立ちが生まれます。
私が腹を立てているのではありません。
ご縁が腹を立てているのですから、ほっといたらいいのです。
もっとはっきりいいますと、それを信心の人は、
私が腹を立てているのではない、如来さまが腹を立ててくださっている。
私が腹を立てているいるのではありません。
こんな私でも腹を立てるご縁が私になってくれなかったら、腹が立ちません。
腹を立てるご縁が私となってくださったから、腹が立つのです。
だから腹が立っても、何も遠慮することはありません。

仏教に学ぶいのちの尊さ より」

よく考えてみたら、自我が中心にいるのではなかった、
という気づきからこのような自覚は生まれる。
自我が中心にいて世の中動いていると思ったら、
そうではなかった。
裏には自我すら生み出してくれている大いなる存在が
あった。
自我は周辺のちっぽけなものだった。
しかもその自我は、つねに変転していて
常なるものではなかった。
これからも変わり続ける存在だとわかった。
自我は、スクリーンに映し出された幻燈のような
影の存在でしかなかった。

わかってしまえば、とても単純な話なのだが。
こんな明白なことはないのだが。

(2015-10-02 SNS日記より)

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今日の言葉 ~幸せについて~ [人生]

『・・・しかしここに原理的な困難さがあります。
それはどういうことかというと、幸せになりたいという人は、
幸せを求める願望をもっていても、幸せそのものについて
知らないからです。
幸せを求める。
これは自分が不幸であることを、ものがたっている
にすぎないからです。
これでは幸せに出会うことはできません。
ひょっとすると、幸せのど真ん中にいても、
幸せがどんなものか知らなければ、
すれ違いに終わるだけです。

渡邉晃純著
 「いったい私はどうなりたいのだろう」より』

まちがいなく人は幸せを求めている。
不幸せを自ら求める人はおそらくいない。
幸せを求める人が多いということは、
いまはその時ではない(幸せではない)
人が多いということである。

ならばどうなれば幸せといえるのか。
幸せとは、金、地位、名誉なのか。
それは欲望の達成された姿を言っているが、
幸福が達成された姿とはいえないのではないか。

みなが求める幸せが、驚くことに、じつは定義できない、
はっきりしていないというもどかしさと矛盾。

渡邉氏の言葉の中で、
「ひょっとすると、幸せのど真ん中にいても、
幸せがどんなものか知らなければ、
すれ違いに終わるだけです。」
とあるが、
むろん渡邉氏は幸せのど真ん中にいる私たちという
事態を知っていて、すれ違っているかもね、
と言っているのだ。

(2015-10-01 SNS日記より)

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今日であった言葉 [身辺雑記]

ドイツ人禅僧のネルケ無方さんの著書に、
ドイツの大学で聴講した話が紹介されている。

「恋をしているかどうかは、
自分にしかわからない。

愛しているかどうかは、
相手にしかわからない。」

解説するのは無粋というものかもしれない。
しかし、あれこれこれにまつわることを
言うのはかまわない気がするね。

恋をしていることに最初に気がつくのは、
自分ということなのだろう。
胸のときめきや普通でいられない自分。
これは傍の人間が、コイツ変だぞと気がつく前に、
とっくの前に自分が気がついている。

愛の方はどうだろう。
自分では普通どおりの仕草で接しているし、
格別トキメイテいるわけでもない。
しかし何気ないことがらや言葉が、
相手からすると、スペシャルな感じ、
あるいはあるエネルギーの流れが感じられる
ということだろうか。
それは傍の人間にも見えてしまうし、
さとられてしまう。

いぜんある詩を同人誌に投稿したら、
この詩の恋愛表現にうたれました、と評された。
他人にわかってしまうから愛なのか、
自分の言葉による表現だから恋なのか。
あるいは評した人が、
この手のことをことさら読み取りたいタイプで、
根も葉もないところに煙をたてたのか。

(2015-09-30 SNS日記より)

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ヨブ記を読む [キリスト教]

まったく正しい信仰をもつ義人ヨブが、
いわれのない災難に次々と遭遇して、
自らの運命を呪うというストーリのヨブ記。
じつは、若いころからヨブという名前や、概要は
聞いたことはあるものの、しっかりと自分で
読んだことがなかった。

何の因果かヨブ記のメッセージとは何なのだろうという
気持ちから、今月のはじめころから少しづつ読んでは
メモを残して、ようやくヨブ記42章を読了した。
全体を振り返り、信仰とは何なのか、人間とは何なのかを
深く問いかけている書だった。

完全なる信仰をもっている忠実な神のしもべの
ヨブを、サタンが試してみようと提案するところから
話は始まる。

サタンの提案の意図は、神のしもべのヨブの生き方への
疑惑に端を発する。つまり何不自由なく繁栄している
ヨブ一族だからこそ、なんの不満なく忠実な信仰者の
姿でいられる。しかしその身に不幸が襲ったら、
きっと神を呪うだろうと。

さっそくその試みは実行され、家族や財産やもろもろの
ヨブの所有物が奪われてしまう。
このときのヨブの言葉は、
「わたしは裸で母の胎より出た。
また裸でかしこに帰ろう。
主が与え、主が取られたのだ。
主のみ名はほむべきかな。」
と神に向かって愚かなことは言わなかった。

そこでふたたび神とサタンの密議が行われる。
サタンの次なる提案は、ヨブの骨と肉を奪えば、
かならず神を呪うに違いないというもの。
そこで命だけは奪わないが、足の裏から頭の頂まで
いやな腫れ物で覆い尽くすという試練を与えた。

友人がやってきて遠巻きに眺めているなかで、
ヨブは七日七夜苦しみの中で言葉を発しなかった。
そしてついにヨブは、口を開く。
私の生まれた日は滅びよ、などの言葉を発する。
なにゆえ、わたしは胎から出て、死ななかったのか。
腹から出たとき息が絶えなかったのか。

こののた打ち回るヨブに対して、3人の友人が
次々といさめる言葉や非難する言葉などを
投げかける。
この部分は、とても長くて冗長に感じる。3人の友人が
入れかわり立ち代りヨブとの討論を行うのだが、それが
第4章から31章まで続く。
やがて3人の友人は語ることがなくなって
(ヨブに論破されて)押し黙ってしまう。

ここまでの友人の議論の論点はこうである。
ヨブが不信の徒となり悪に身をゆだねたのだと言う非難。
またヨブを裁く行為である。
これに対してヨブの主張は、私には落ち度がないのに
災難に遭っている。その理由を神に問いたい。
何ゆえ自分をこのような災難の目に遭わすのか。
自分は死ぬまで潔白の身であって、光を望んだのに
闇がきた。自分には落ち度はないのに、
苦しみにさいなまれて、さらに自分より若い者に
あざ笑われている。

3人の友人が黙ってしまったあとに、若い者が
やってきてヨブへの非難を始める。
これが32章から37章まで続く。
(正直、冗長である!)

そのあとにつむじ風の中から、神がヨブに向かって
言葉を発する。
神のはかりごとを暗くするものは誰か。
わたしが地の礎を据えたときに、お前は(ヨブ)は
どこにいたか。
あなたは海の源に行ったことがあるか、
淵の底を歩いたことがあるか。
雪の倉にはいったことがあるか、
ひょうの倉を見たことがあるか・・・
わたしはこれが全身と、その著しい力と、
その美しい構造について
黙っていることはできない。

(つまり自分の力の強大さや、
技の美しさ、壮大さをヨブに向かって自慢している。)

地の上にはこれに並ぶものなく
これは恐れない者に造られた。
これはすべての高き者をさげすみ、
すべての誇り高ぶる者の王である。

最後にヨブから神に対して次の言葉が発せられる。
「あなたはすべての事をなすことができ、
いかなるおぼしめしでも、
あなたにできないことはないことを。」

「わたしはあなたの事を耳で聞いていましたが、
今はわたしの目であなたを拝見します」

このあとに神は3人の友人に対して
怒っていること、しもべのヨブのように
わたしについて正しい事を語らなかったと裁定する。

またヨブに関してはふたたび繁栄を与え、
140歳になるまで生きたと記述されている。

以上がストーリの要約版であるが、
重要なのはヨブの最後の言葉であろう。
「わたしはあなたの事を耳で聞いていましたが、
今はわたしの目であなたを拝見します」

つまり耳で聞き、人から学び、敬虔であることはできる。
神を知っていること、頭で理解し、信仰者であると
自分を認め行動すること、これは可能だ。
しかし神を見る経験は別だということだろう。

神を信じますという言葉は、容易に誰でも
発することができる。だが、その内実は天と地ほど
開きがある。理解と会得とはまったく別物である。

(2015-09-26 SNS日記より)

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いまを基準に考えると霊魂にいきつく [思想]

釈迦の弟子で、マールンクヤープトラという人が、
人間が死んだらどうなるかを、釈迦に尋ねた。
そのとき釈迦は、何も応えなかった。

思いつめた弟子は、また別の日に釈迦に尋ねた。
今日こそ答を聞きたいのです。
お答えしてくれないならばこの教団を去ることに
なるでしょう。

そのとき釈迦は、毒矢のたとえを言った。
毒矢に射られた人が、この毒矢は誰が射たもので、
いかなる弓により射られたものか、それらが
明らかにならないうちはこの矢を抜いてはならぬ、
といっていたら、それらが解明されないうちに
男は死ぬであろう。

マールンクヤープトラよ、霊魂があるのか、
来世があるのか、死後の世界があるのかどうか、
それらの問題に答えたところで、
われらの苦の人生の解決にはならない。
われらがすべきは、この苦なる人生の克服である。
私の説かないことは説かないままに受持するがよい。
また私が説いたことは、説いたままに受持するがよい。

+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++

先日、H先生にお会いしたとき、先生はふたたび
霊魂が存在して死後の世界があるのだと考える方が、
死の苦しみが減る、あるいは和らげられる
というような趣旨のことを言われていた。

死の不安に対して、死後の世界があって幸福なまま
(つまり天国のような幸福な世界が待ち構えていて)、
その世に移行できると考えることで、安心感が増すという
捉え方だった。

しかしその説を聞くたびに、ボクは居心地が悪い。
いまの死への不安の解決のために、
来世があるとか無いとかの信仰が決定付けられるのは、
順番が逆。
来世があると信じられるから、安心立命できる、
というのが本来の順番というものだろう。

釈迦の言われた言葉通りであると、ボクは思う。
来世があるのかどうかなどはわからない。
むしろ死の不安というものが、何故に生まれて
くるのかを解明することが先であると思う。

それにH先生の心の中に、驕りのかおりを
感じとってしまう。
いまの生活を基準に(いまの幸せな生活を基準に)
死というものを考えると、いまの生活の放棄、崩壊、
大いなる減額というふうに必然的になる。
なぜなら今が普通で当たり前の生活とみなしているために
死はすべての喪失とならざるを得ない。
現在が、平凡だけれど普通のゼロの状態としてしまえば、
死とはマイナスの極地であろう。

霊魂を想定するのは、死んだあとでも今のような
恵まれた普通の生活が欲しいという欲望なのだ。
今を手放さない、死後までも手放さないのである。

ボクはいつの頃からか、それは違うと考えるようになった。
いまの生活は大いなる祝福されたものである。
生きとし生けるものは、いのちを与えられ祝福されている。
今が恵まれて、ありがたいものだと受け取るようになった。
そして死ぬことは、その恵まれたものをお返しする儀式
というふうに考えるようになった。

死ぬとは、恵みを捨ててゼロになることである。
この死のゼロの状態が、普通で当たり前である。
(ほんとうはこの状態こそが、すべてを育んでくれる
大いなる世界なのだが)

死の不安を解消しようとして、あれこれと捜し求めて
フラフラとさまようこと。それは十分に祝福され
与えられているいのちを喜んでいる姿勢ではない。
そのことに気がつかないで、
どこかに喜べるものがあるのではと捜し求めている。
しかしもうすでに、それを手にしているのに、
まだ追い求めている貪りを感じてしまう。

白隠禅師が、座禅和讃で謳っている。
・・・
衆生近きを知らずして
遠く求むるはかなさよ
譬えば水の中に居て
渇を叫ぶが如くなり
長者の家の子となりて
貧里に迷うに異ならず
・・・

もうすでに救われている。
救いを求める必要は無い。
救われていることを知るだけでよい。
現に祝福されているのだから・・・
霊魂があろうがなかろうが、それは左右しない。
そんなことを、心の中でつぶやいたわけだが・・・

(2015-09-22 SNS日記より)

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あんまり好きじゃない [人生]

当たりまえのことと受け入れられている言葉で、
好きじゃない言葉がいくつかある。
きれいごとを言っていて、オブラートに包まれているが、
その実、真実ではない。

「人に迷惑をかけない人間になれ」

→迷惑をかけないで、人は生きれるのだろうか?
→ あなたが試験に受かるとき、どこかで
  ひとり試験に落ちる人間がいる。
→体に障害があって、人の介助が必要なときに、
 この人は人に迷惑をかけざるを得ない。
 そのことを自罰的な感情を持って生きなさい、
 と言っていることにつながる。

じつは今日教育TVで、ナチスの障害者虐殺の歴史を報じた番組を観た。
知的障害や、身体的な障害のある者のうち、
労働が可能な者は子供を生めなくなる手術を行い、
労働できないものはガス室で虐殺した。
それを医師たちがすすんで行った。
そのような歴史を、ドイツの精神医学精神療法神経学会の元会長が、
ほんの5年前に公開し、謝罪した。
虐殺された数は20万人。
しかもユダヤ人虐殺(その数600万人!)のリハーサルとしておこなわれた。
自国民ドイツ人に対してである。
すべては優勢な遺伝子をもつ国民を作り上げるためである。

この虐殺行為の根幹にある思想は、労働にこそ価値がある、
したがって労働に寄与できないものには、
生存の価値が無いというものである。

ナチスほど極端でないにせよ、迷惑をかける人間は、
人として問題があるのだと考える思想は、
やがて自立していない人間や、介助が必要な人間は問題だ、
価値が低いのだ、という差別感に必ず落ち込んで行くだろうと想像できる。

迷惑だという感覚が、その人への(その人のいのちへの)価値判断になることが、
どうにも承服しがたくすっきりとしない。

人間が掲げ作った価値基準で、人間の価値を云々することの危険性、
神のみが振るうことができる刃を、
僭越にも人間が手にしてしまった危険性である。

(2015-09-16 SNS日記より)

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妙好人東政二さんの言葉 [浄土真宗]

妙好人の東政二さんの言葉を初めて聴いたとき、
しびれるような直感が走った記憶がある。
このひとはすごい、ほんものだ、と。

浄土真宗の信徒の方。
信仰に到達した人しか語れないことを、
さりげなく口にしている。
しかし回心したときのことを、
とくに語った記録はないようで、
おそらく一度も口にしなかったのだろうと思う。

妙好人の研究家楠恭氏が、ご自身の親戚の
お寺に立ち寄ったときに目にした布教誌、
『地湧人』の記事で東さんを見い出したのだという。

「自分は仏法の真理を今という時、ここという場所で
いただいている。」

「人間の体質は分別心で、従って功名心、我欲が
根性である」

「心というのものはふらついている。
その心で仏法を聞こうとしたら駄目なんです。
動き通しの心で仏法を聞くと、
必ず自分の都合のいいように聞いてしまう。
心で聞くのではなくて、動き通しの心を如来の本願の
上に建てるのである。
身体というものは人間の心の思いが通用しないものです。
身体は自然の道理、如来の真実で動いているからです。
ですから仏法は身体に聞くというのです。」

このような言葉は、自我という、ちっぽけな心が
打ち砕かれた経験をしないと出てくるものではない。
さんざん自我のたくらみに自分がだまされて、
まただまされて、繰り返しだまされつくした経験がないと
出てこない。ついに自我に絶望したところを
通過しないと出てこない言葉だ。

東政二さんは、1992年7月28日に93歳で
亡くなられている。次の言葉は、政二さんが
92歳のときのことばである。

「わしは九十二歳までこんなに長生きできようとは
夢にも思わなかった。人間長生きするだけが能じゃない。
長命でも短命でも仏智の働きに気付かせていただいて、
初めてこの世に出てきた意味があると思うのや。
わが身は仏の智恵で出来上がっていて、
仏の智恵がゆきわたっていることに気付かずに、
分別に捕らわれて、煩悩に駆られて、
欲得の功利心だけで長生きしても、
それは無明煩悩が長生きしただけや。
仏法を聴聞する際に、分別心で仏智を聞いては
駄目なんで、仏智は自分の身体で聞くんや。
なぜなら身体は自然の道理という真実を
語っているからや。」

絶望した果てに、自分というものが無くなってしまった
その瞬間に、自我により自分が生きていたのでは
なかった、という回心が生まれる。
東さんにその体験を語っていただきたかったなと思う。

(2015-09-11 SNS日記より)

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自力と他力と [宗教]

とある会合で知遇を得たH先生という方が、
あるちいさな読書会を主催している。
生き死にを考える会というものだ。
先月に、初めて参加(見学)させていただいた。

先々月までは、臨死体験について書籍などを
調査し語り合うという活動をされたということだった。
そして先月8月から、仏教とくに禅宗に焦点を当てて、
悟りの内容などについて調べていきたい・・・
テキストはこんなものにしたい・・・
という説明があった。

参加メンバーは、ほぼ女性で、宗教にはとうぜん
関心が高い。救いというものをどこかでもとめている、
そんな印象も感じた。なかには浄土真宗に
強い関心をもたれている方もいる。

新参者の自分は、終始話を聞く側にまわって
おとなしくしていた。
とくに付け加えるようなことがらもないし・・・
ただ、宗教に救いを求めているようすなのだが、
ほんとうは、みんなすでに救われている・・・
そんなことを思っていた。

会の最後に差しかかったときに、
隣の女性が訊いてきた、
いかがでしたか、会の印象は?

ええ、そうですね、
難しい問題ですね・・・
とあいまいな答えをするうちに
話題は別のところへ移り、
ひとしきり話が回った。
そこで帰り支度をしようと思ったら、
ふたたび先ほどの女性が訊く、
いかがでしたか?この会は?

感想を言わずに帰るわけにはいかないぞ、
とでも言っている感じなので重い口を開いた。

自分は若いころから宗教や哲学、文学と
さまざまな書籍のなかを放浪してきた。
とくに禅の書籍は何十年間もいちおう読んできた。
最近は、浄土真宗の関係の書籍を読むことが多い。
とかなんとか言っているうちに・・・

浄土真宗に関心のあるという方が、
禅宗と浄土真宗はかなり違うものではないですか?
と質問をぶつけてきた。

いや目指すところは同じだと思いますよ、
アプローチがまったく異なるけれども。
この言葉が、ますます火をつけてしまった感じ。
隣同士のおしゃべりだったのが、
会全体の話題になってしまう。

で、話の結論として、
次回にその話をせよということになってしまった。
資料も用意してね。
目が点とはこのことだ。
そんな大した話はできない。

しかし、9月の会合がいよいよ来週に迫ってきた。
というわけで、先週からこれまで遍歴してきた
仏教の教えのまとめにかかっている。
自分の考えをいざまとめてみようとすると、
ブログの文章をダラダラ書くのとはちがって
なかなか文章になりにくい。
思っている以上に言語化されていないものだ、
という状況に直面している。

バラバラにピックアップしてみると、
ほぼ絞られてくることに気づいた。
・親鸞聖人の言葉を集めた歎異抄。
・道元禅師の正法眼蔵のいくつかの巻。
・盤珪禅師の法話。
・妙好人の東政二さんの言葉。
禅宗と浄土真宗がゴチャゴチャだが、
ようするに言っていることは同じだと受け取っている。
そこへ至る道がことなっているだけだ。

(2015-09-09 SNS日記より)

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幽霊の考察 [科学・技術]

先日、本屋さんをブラブラしていたら
(しょっちゅうブラブラしているのであるが)、
超常現象をマジメに研究している先生がおられて、
なおかつ本を著されていた(※)。
じつに奇特な先生がおられるものだと感心して、
購入し読み始めた。

最初の章は、幽霊について書かれていて、
「はん幽霊論」という広い概念を提唱されている。
先生は、不定期に「はん幽霊論研究会」も開催されている。

「はん」というひらがなは、3つの意味を持たせたいとのことで、
「反」幽霊論、「半」幽霊論、そして「汎」幽霊論だ。
この順番で、幽霊への親密度というか肯定度合いが増す。
賛否両論、中間層も含めてマジメに議論しようではないか
ということなので、この立場は自分もアグリーであった。

本の中で紹介されている、否定論者の代表格の心理学者
リチャード・ワイズマン氏の研究結果は面白い。
幽霊屋敷と名高い場所へ、霊能者たちを集めたそうだ。
そして、ひとりひとり別々に屋敷内を歩かせて、
どこで霊感を感じたかを記録していく。
その結果、霊感を感じた場所は、霊能者によって大きく異なっていた。
しかし、そのなかで霊感が感じられやすい場所が出てきた。
それは、台所だった。

ワイズマン氏の解析結果は、
(1)霊感は幽霊がそこにいるから感じられるものではなくて、
   それぞれの霊能者の感覚で、霊感が適当に報告されている。
(2)台所ではそうした感覚が導かれやすく、
   その手の刺激が多いので、たまたま多く報告された。

古い屋敷の台所のようなジメジメして薄暗いところは
幽霊スポットになりやすいということだ。

幽霊がそういうジメジメして薄暗いところを好むのだろうか?
わざわざ、気持ちの悪い場所を、幽霊は好み、住みつくのであろうか?
この問いは面白い。幽霊にとって、
このような場所は出現に好適な場所ということなのだろうか?

妄想の激しいボクは、こんな疑問に逢着してしまう。
なぜ昼間の明るい時間帯の、人がたくさんいる場所には、
幽霊は出現しないのであろうか?
ディズニーランドのような、人々が陽気に楽しんでいる場所に
なぜ出現しないのだろうか?

この本の著者の見解は逆である。
人間にとって「幽霊のいそうな気持ちの悪い場所」だからこそ、
霊感が感じられるということだ。
つまり人間側の都合の「気味の悪いところ」で、
人間の感覚は(恐怖も手伝って)鋭敏となり、
霊感を感じやすいのだということだ。

『(幽霊が)見えるから、怖い』
というのだが、じつは、
『怖いから、幽霊が感じられる』
という逆転が起きているということである。

こういう人間の認知機能から幽霊現象を読み解くという
認知情報論という分野があるらしい。
ますます興味深いな。

※石川幹人著『「超常現象」を本気で科学する』新潮新書より

(2015-08-27 SNS日記より)

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