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病むとき (自分のためのメモ) [宗教]

こころでも体でもそれは起きますが、いつもの自分とはちがう違和感を感じて、
ああどこか悪いのだなと思うことがあります。
調子がおかしいと感じたり、何かに苦しみを覚えたり悩みを持ったりします。
思わず大変なことになってしまったと慌てます。

でもふり返ってよく考えると、その慌てる感じは自分というものが
世界の中心であると思っていることに起因しています。
世界の中心にいるこの自分が調子がおかしい、苦しんでいる、悩んでいる、
それは大変だ!ということになります。

パソコンで言えばOSの中に修復できないトラブルを抱えているようなもの。
何か動作をさせようとすると、正しく動かない、
間違った答えを導き出すかもしれない。それは大変だとなります。

この自分が主役で世界の中心にいるという思い込みは根強く、
なかなか抜け出すことは困難です。この蒙昧な思い込みを是として、
ずっと世界を見ていたのだ、と気づけるかどうかが、
信仰への最初の一歩なのではないかと思いますね。

なにも神を信じる自分なのだから、自分は信仰者なのだというものではないですね。
自分は神を信じるという言い方は、ある意味で傲慢な思いであり、
苦しみの道であり、宗教的にはまちがっていると感じます。
こちらが主人公で、神を信じてやるといっているふうに聞こえるように、
自分が主体だという世界観そのものなのです。神すらそのための道具に過ぎません。

自分は主人公でもなんでもなくて、ただの世界の片隅に
ひっそり生きている人間なんだということが分かるときに、
思い込みは崩れていきます。
世界の、いや宇宙の片隅の芥子の種ほどの小さな存在。
長い時間の流れの中で、ほんの一瞬いのちをいただいて生まれ出てきた存在。
いちばん大事なことは、それでもなお自分は生きている
という事実に逢着することです。

病むときと題したのは、自分が病んでいるときの苦しみに、
さらに自分が主人公だと固く思い込んでいることによる苦しみを重ね、
いっそう苦しむ構造があることを明らかにしたいがためです。

自分のこころや体が調子悪いのも、よくあることがらで起きても
当たり前なんだと気づくとき、そんな体なりを頂いているんだと気がつくとき、
それは単に不調なだけです。
何の不思議もありません。

(2016-08-04 SNS日記より)

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おごり (自分のためのメモ) [宗教]

信仰に至るその前には、疑いに疑いを重ねる過程があるということを記しました。
疑いの果ての絶望的な状況の中から、
それを踏み台にして信仰というものが入ってくると考えています。

でもこのような話、きわめて特殊であり、面白くもなく、
一般に話題にするようなことでもありません。
自知する人が知っておけばいい話題です。
そのことを痛感しています。

そもそも宗教などそんなものです。楽に生きれる人はそのままでいいのです。
宗教に無縁であるなら、それでいい。苦しみを抱えていない人に、
わざわざ宗教を勧めるとか入信させるなど、とんでもないことで、余計なお世話です。

もし人に勧めたいという気持ちがあるのならば、
その不純な気持ちを振り返るのがいいと思います。
人は人。
人の生き様を見て、自分が知り得た教えの方が優れている
と思うのは、思い上がりというものです。

人は得ただけその分、誇りというものが生まれます。
オレはこれだけのことを成し遂げた、
だからオレを敬え、オレを尊敬しろという気持ちは、
どんなに謙虚に振舞っていても、
おのずと体から滲んできます。
それはとってもイヤラシイ。

※※※

維摩経というお経がありますが、このなかに舎利仏と天女の対話が出てきます。
(舎利仏は、般若心経のなかに、観音菩薩が呼びかける相手として登場する仏陀の高弟です。
般若心経では、舎利子、云々と出てきますね。)

舎利仏「あなたはなにを覚って、このように説くのですか。」
天女「わたしは得るところもさとるところもありませぬから、
このように説くことができます。
もし得るところ、覚るところがありますならば、きっと驕慢心をおこすでしょう。」
驕慢心をおこす元となるから、自分の得たものは無いということを宣言します。
知恵すら所有しないということですね。

自我の働きが煩悩と変わるのは、この自分が自分がという妄執によってです。
その理由は自分の「所有」と関連しています。何も持ち物がない、
生まれてきたときは何も持っていなかったという地点に立っていればいいのですが・・・

ところが、生きている間に所有ということが出てきて、
この所有物から誇る気持ちが生まれ、驕りが出てきます。
もともと何も持たずに裸で母の胎から生まれてきた、
とはヨブ記の言葉ですが、まさにこれ。

(2016-07-29 SNS日記より)

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疑いに疑いを重ねて・・・ [宗教]

もし真剣に信じるに足るものを得ようとするならば、まず、とことん疑いに疑って、
疑問を積み重ねた先に見えてくるものを、探し求めなければならないでしょう。
信仰というものはそういうものと思います。
あいまいなものを、まるごと信じてしまうということではありません。

これは口で言うほど簡単ではありません。
たいていはいい加減なところで妥協します。
周りの人や信者がそういっているからとか、
偉い先生が言っていることだからとかで、
自分が納得してしまうのです。

またはっきりしていないことがらを、断定してしまいます。
疑いの苦しみに耐えられなくなるためです。
安易に信じられることが欲しい、という気持ちに流されているのです。

とことん疑ってそのあとに残るものこそ本当のことがらで、
その答えが出ないうちは、まだ到達していない、
というしかありません。

このようなことの根本には、死の問題に耐えうるものでなければ、
信仰は意味がないと思うからです。
そうでなかったら、信仰を持っていますということは、
装飾のひとつであり、生活の彩りであり、格好つけに過ぎません。
それは自分を騙しています。

キリスト教の信者であることを誇る人がいますが、
それはチャンチャラおかしいのであって、
信仰は誇るような類のものではありません。
もともと人に対して誇りを持つことが、どのようなことを示しているのか、
自らを高めるものは低くさせられます。

信じるという行為のギリギリ先端にあるものは、
キルケゴールの言葉を待つまでもなく、絶望であり、
自分の存在を一切合切失うかもしれない崖っぷちの状況です。
そのような地点を経過しない信仰kとは、
いったい何の意味があるのだろうかと思いますね。

祈りの言葉を口にしたからとか、洗礼を受けたから、
信者になるわけではありません。
確固たる信仰を得たということにはなりません。

涅槃経に釈迦が語った深い言葉があります。

釈尊がおっしゃられた。
「疑う心を生じるならば、無量の煩悩をやぶることができる。
固定した思いを生じることを執着と名づける。」
迦葉菩薩が申し上げた。
「世尊よ。執着とはどのようなことでしょうか。」
釈尊。
「自らにくっついた「思い」を捨てることができないことを執着というのである。」
迦葉菩薩は重ねて申し上げた。
「執着している人はもともと自ら疑ってさえいないのです。
どうして疑いのわなをやぶることができないとおっしゃるのですか。」
釈尊。
「善男子よ。それを疑わないことが、すなわち疑いである。」

とことん疑って、疑いつくして、分かったこと、分からないことを峻別していく、
そしてそういう自分自身の思いすら疑っていくこと。
最後に残っていることがらこそ、信じるにたるもので、
どのような事態になっても持ち続けることができる信心ということができるでしょう。

(2016-07-28 SNS日記より)

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