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子供時代を思い浮かべた [身辺雑記]

今日は、スキースクールのインストラクターで、
小学5、6年生13名を担当した。

この中に龍太君(仮名)という6年生がいた。
体がまだ他の生徒さんに比べて小さくて、
はじめ5年生なのかなと思っていた。

他の生徒さんの滑りとは歩調が合わず、
身体的にはまだ未発達の印象だった。
ゲレンデ斜面で停止することが出来ず、
すぐズルズルと滑り落ちてしまう。

他の子供たちが、龍太がんばれと声をかけるが、
自分は龍太の世話に掛かりきりになりがちで、
他の12名の生徒さんたちが待ちぼうけを食ってしまう。

見かねた学校の先生が、龍太の世話をこちらで
しますからということになり、1本滑る間、龍太君を託した。
(学校の先生たちは、周囲でレッスンを見守っており、
スナップ撮影などをしているのだ)

たいていこのような皆についていけなくなる子が
一人くらいいるもので、集団のレッスンをする際に、
インストラクターは掛かりきりになりがちだ。

やがて次のリフトで、お世話をお願いした先生と龍太君に、
合流した。

そこで竜太君にたずねる、
「みんなと一緒にすべる?」
ちょっと躊躇っている。
「おいで、一緒に滑ろう。
先生(私)にくっ付いておいで・・・」
こうして、リフトには必ず一緒に搭乗し、
滑走の際は、いつも後ろについてもらうようにして、
レッスンを進めた。
転びそうになるときは、足にしがみついてもらいながら。

リフトに乗りながら、いろいろな言葉を交わす。
するとなんとなく感じるのは、
龍太君のこころにもプライドがある、
それを失うまいとして必死に努力している姿だった。

うまくいったときに褒める。
徹底的に褒める。
直した方がよいクセは何度も直しながら教える。

くりかえすうちに、しだいにみんなと歩調が合うようになってきた。
本人も自信をつけてきたのが分かる。
言葉にもそれが出てくる。

なぜ自分が竜太君の世話をしたいのか、
その理由はわかる。
それは子供時分の自分の姿を見てしまうから・・・
取り残されている自分の姿がだぶってしまう。

自分は発達が遅かったらしく、
幼い頃に、この子は養護学校に行くようだねと、
近所の口うるさいオバサンが言ったそうだ。
(のちにそのことを母親の口から聞いた)
小学校時代も、はしっこい子供に馬鹿にされていた。
しかし当時はそんなことは意識しないしわからなかった。
大きくてなってから、当時かけられた言葉を
時々思い起こすたびに、
ああ、あの子は馬鹿にしていたんだなぁ・・・と気づく。

(だからというわけでもないのだが、ダニエル・キイスの
アルジャーノンに花束を、という小説が好きだ。
読まれた方はその理由に納得いくだろう。)

今日のレッスンは午前、午後の部で、
ほぼ丸一日だったが、龍太君もしっかりと
滑れるようになった。

明日も行きたいな、と彼はつぶやく。
家族の人におねだりしたらどう?と言う。

閉講式が午後3時にあった。
インストラクターと生徒のお別れ会みたいなものだ。
散会となってから龍太君が近づいてきた。
また会えるよね?
もちろんまた会えるよ。
(ちょっと泣けた)
これからの人生、まっすぐに進め。

(2016-01-23 SNS日記より)

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冬がやってくると・・・ [身辺雑記]

今朝目ざめると、窓ガラスに何やら絵のようなもの。
みると、へのへのもへじ。
それに何か文字が書かれている。

への1.jpg

朝の窓ガラスに曇りがついていると、
はやく起きた妻がイタズラ描きをする。
どうしてそんなことをするのか訊いたことがあった。
しかし本人は、よくわからないのだそうだ。

窓が曇る季節の到来を知らせる、
年中行事のようなもの。
その初日を迎えた。

下のガラスには、何が書いてあるのだろう。
透かしてみると、今日は寒いわ、とある。
そのまんまだ。

への2.jpg

窓の外は冬の景色さながらになっている。
いよいよ信州は冬の到来なのだ。

への3.jpg

(2015-10-15 SNS日記より)

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今日であった言葉 [身辺雑記]

ドイツ人禅僧のネルケ無方さんの著書に、
ドイツの大学で聴講した話が紹介されている。

「恋をしているかどうかは、
自分にしかわからない。

愛しているかどうかは、
相手にしかわからない。」

解説するのは無粋というものかもしれない。
しかし、あれこれこれにまつわることを
言うのはかまわない気がするね。

恋をしていることに最初に気がつくのは、
自分ということなのだろう。
胸のときめきや普通でいられない自分。
これは傍の人間が、コイツ変だぞと気がつく前に、
とっくの前に自分が気がついている。

愛の方はどうだろう。
自分では普通どおりの仕草で接しているし、
格別トキメイテいるわけでもない。
しかし何気ないことがらや言葉が、
相手からすると、スペシャルな感じ、
あるいはあるエネルギーの流れが感じられる
ということだろうか。
それは傍の人間にも見えてしまうし、
さとられてしまう。

いぜんある詩を同人誌に投稿したら、
この詩の恋愛表現にうたれました、と評された。
他人にわかってしまうから愛なのか、
自分の言葉による表現だから恋なのか。
あるいは評した人が、
この手のことをことさら読み取りたいタイプで、
根も葉もないところに煙をたてたのか。

(2015-09-30 SNS日記より)

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