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こだわる僧侶 [禅]

中国唐の時代に、趙州禅師という有名な方がいました。
この方は、57歳のとき師が亡くなるまで師に仕え、3年喪に服した後、
さらに学ぼうと全国を旅して行脚を続け、80歳になって初めて小さなお寺に
住したという遅咲きの和尚さんです。

120歳までの40年間を教化に努められた。その言動録が、
趙州録として残っています。けっして易しいものではありませんが、
趙州和尚の日頃の気持ちというか、息遣いを感じることのできる貴重な書です。

「至道は無難、ただ 揀択(けんじゃく)を嫌う」という、第3祖僧燦の
信心銘の句を好んで使ったそうです。意味としては、仏教の大道の要点は、
選り好みをしないことなのだ、ということなのです。

ある僧侶が、趙州和尚に質問します。
「和尚は日頃、仏教は選り好みをしないことだ、と言われておりますが、
選り好みをしないということも、一つの選り好みなんじゃないですか?」

すごく嫌味な質問です。選り好みしないという選り好み、
そういうものに堕しているのではないかと、ひねくったことを言ったのです。

このときの和尚さんの答え、味わうほどにその素晴らしさに気付かされます。
趙州はなんと答えたかというと、
「前にね、わしにそのことを質問したものがあってなあ、
それ以来5年というもの、まだわしは答えができずにおるんだよ。」

僧侶は、おそらく言葉の矛盾を突くことで、趙州和尚をやり込めてやったと
思ったことでしょう。もし趙州和尚が、その矛盾について解説したり
弁解したりしたら、まんまと仕掛けた罠にハマり、
選り好みの極に入ってしまうのです。つまり言葉のこだわりの罠に入り、
日頃説教している境地とは、真逆のものに成り下がってしまいます。

こういう矛盾を突く人がたまにいますね。
仏教の教えの基本は、諸行無常ですと言うと、その教えも
移り変わり変化するわけですね?じつにいやらしい質問ですが、
論理的にいえばその通りです。この論理的にいえばというところ、
論理にこだわっているわけです。

趙州さんの答えは、僧が仕掛けた罠にはまって弁護するのでなく
(その論理にだわるのではなく)、その意地悪な質問を否定するのでもない
(聞くんじゃないと怒るのでもない)のです。

まだ答えが出ないんだよねと、暗にその答えなんか無いよと匂わせているのです。
このやり取りはじつに即妙というか見事に感じますね。


(SNS日記より 2016年9月5日)
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