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ちらつく影 (自分のためのメモ) [日常]

いまは成功哲学の時代ではないだろうか。

学校でよい成績をとり、よい企業に勤めて
あるいは中央官庁につとめ、出世して
よい家とよい妻とよい家庭を築き、成功した自分を眺める・・・

それが最も価値ある生き方であると暗黙に了解されている。

もっと積極的には、起業をしてビジネスを成功させ、
多くの富を手にする。そのために成功のためのメソッドを
学ぶ。そして実践する。成功するまで繰り返し実践する。

これが最も格好のいい生き方、働き方だと
受け取っている。

そのための心構えや、心理のコントロール、交渉術などが
あって、これを学ぶことがすばらしいことであると
認められている。

いつから、このように日の当たるところへ出ることが
価値あることとなってしまったのか。
ひとから賞賛を浴びることの価値を最上のものとする
ようになったのか。

ボクは、その危うさや、空虚さや、そこに潜む不安というものを
見つめざるを得ない。
最近その思いが強くなるばかりだ。

その一つの理由は、人生のピークといわれるものを過ぎ、
死が近くなってきたということもあるのではと思う。

成功して手にしたものも、死ぬときには手放さねばならない。
コインひとつ墓場に持っていけるわけではない。
しょせん裸で生まれ、裸で死んでいくのである。

その生きていた期間に、ひとより優れていると言われ、
ひとよりお金を手にしたと言われ、高い地位を持っていたと言われたい、
多くの人を動かしていたと言われたい・・・

このことのために人生の時間のほとんどを費やすが、
それは最後はリセットされて元に戻る。

あまりにも空虚な時間。
おのれをどれほど財産や名誉で固めたとしても空疎。
成功したとは、なにごとなのだろう。
自分(自我)の満足のためだろうか。

ほんとうに満足できるほど成功するひとはまれ。
大部分の挑戦者は、不満足で終了する。
一番以外は、負けということもある。

成功哲学は、不成功を生む温床でもある。
ひとに勝つことを要件とする哲学は、
多くの敗者を生むことを前提としている。
しょせん万人の救いのものとなりえない。

それでも元気を振り絞って、成功に邁進する。
やらなくてもよかった仕事、やるべきではなかった
仕事を無理やり行い、かえって不幸な人々を生み、
環境に負荷をあたえてしまう。
ボクたちがやるべきことは、ほんとうは何なのだろう。

(2016-03-03 SNS日記より)

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江戸の名僧 一蓮院秀存 [浄土真宗]

江戸時代の末期の浄土真宗の名僧として一蓮院秀存という
学僧が知られている。この方は各宗派の教義も学び、
華厳学の権威でもあり、すぐれた学者でもあった。

しかし終生、謙虚な聞法に徹していたと言われ、
このような言葉(おそらく日記)が残っている。

*********************************************
安政午年三月六日、しずかに思うのだが、
自分がもし地獄に沈んだとき、閻魔大王は、
「おまえは、学問を修めなかったな」と責めることは無いだろう。
弥陀を頼まずに、なぜこのようなところに来たのだと
責めることだろう。
したがって学問はならずとも、弥陀を頼む信心すら
得られるのならば、決して責められることは無い。
               (私訳)
*********************************************

人柄がしのばれる逸話がいくつか残っている。
心に残るそのひとつ。

あるとき四、五人の同行が一蓮院の役宅を訪ね、
浄土真宗のかなめをお聞かせいただきたいとお願いした。
一蓮院は、一同に
「浄土真宗のかなめとは、ほかでもない、
そのままのおたすけぞ」
といわれた。
すると一人の同行が、
「それでは、このまんまのおたすけでござりまするか」
と念を押した。
すると一蓮院は、頭を振って、
「ちがう」
みな驚いてしばらく沈黙していたが、
また一人が顔を上げて、
「このまんまのおたすけでぎござりますか」
と訊いた。
しかし一蓮院はまた頭を振って、
「ちがう」
といって念仏を唱えている。
一同は、どうしていいかわからなくなって、
お互いに顔を見合わせていたが、また一人が、
「おそれいりますが、もういちどお聞かせくださいませ。
どうにも私どもにはわかりませぬ」
というと、師は一同にむかって、
「浄土真宗のおいわれとは、ほかでもない、
そのままのおたすけぞ」
それを聞いた一人がハッと頭を下げて、
「ありがとうございます。もったいのうござります」
と言った。
       (梯実圓著 『妙好人の言葉』より)

なぜ、一蓮院はちがうと繰り返したのか。
肝心要のことがらを聞かせてほしいと頼まれて、
その大切なところを、こころをこめて述べた。

そのかなめに対して念を押すというのは、
その信心に至っていない人間のすること。
まだ信心の中に入らずに、その手前の門のところで、
なんだか迷っている。
迷って決心がついていないから念を押す。
疑いのこころが晴れていない。

それは本当ですか?
おたすけくださるのですね?
信心はこれでいいのですね?

もし、信心を得ているのならば、念は押さない。
あるいは迷いを抱いたままで、そのまま救われるのだと、
固く信じているのならば、
そのとおりでございます、ありがとうございます、
とでも言うだろう。

一蓮院は、この煮え切らないこころの姿勢を指摘して、
ちがう!と言う。文字の連なりに対してではなかった。

(2016-02-26 SNS日記より)

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どのようにして、それは起きるのか (自分のためのメモ) [浄土真宗]

回心とは、ふしぎなことがらだ。
それまでいくらありがたいお話を聞いていても、
本人がいくら努力しようとも、わからないときは
徹底してわからない。

しかし時節がやってくると、ふっとわかると気が来る。
もちろん追及の手を緩めることはないが、
そんな努力の手がふっと休まるときに、
回心の瞬間がやってくる。

その瞬間にどのような化学反応がおきたのか、
どのような心理的な現象が生じたのか、
説明のつかないことがらだ。

浄土真宗の妙好人で、六連島のお軽(1801-1856)と
呼ばれる人がいた。
主人が浮気してそのことへの憎しみやら恨みが元で、
すっかり苦しみの坩堝に投げ込まれ、心神喪失となり、
身投げまでしようとした。
近くの浄土真宗のお寺に行って、苦しみからの
救いを求め、いろいろと聞法したけれど
救いがわからない。

その当時のお軽の状況が、お寺の住職の現道師の
日記に残っているそうだ。
「今日もお軽がたずねてきて、いろいろと話をしたが、
お慈悲がわからんと、泣きながら帰っていった。
私に力がないばっかりに、なっとくのいくように
教えてやることができない。すまんことだ。」

そんなお軽にも転機(回心)がやってくる。
そのときの心境の変化が記されているわけではないが、
こんな言葉が残っているとのことだ。

「煩悩をかかえたままの私に「そのまま来い」、
「連れてゆこうぞ」とおおせくださる本願の一声に
あわせていただくならば、「いかなお軽も頭がさがる」。
・・・
もう自分の胸の内をながめて、これで救われるか、
救われまいかというせんさくは無用になりました。
自分の心が善い状態になったから救われるのでも
なければ、悪い状態だから救われない
というのでもありません。」
       梯実圓著『妙好人のことば』 p.61

自分のはからいが続くうちは迷いの真っ只中に
いるわけだが、自分のはからいは、どのように
尽きていくのか、いつ尽きるのかそれはわからない。
その方法を知ろうとすること自体が、ある意味で
自力に頼むことである。だから自力の堂々巡りに
なってしまう。

疑問というものは、疑問を抱く者が中央にいて、
この疑問を立てるわけである。抱く者がいなくなれば、
疑問がそもそも成り立たない。
人生の疑問や苦悶は、この中央にいる者が眺めた視野の
なかに生ずる。

それまでは疑問を抱く者が中央にいて、
疑問の主人公であったはずだ。
しかし、もしその者が立場を追われ、
隅っこに行ってしまったとしたらどうであろう?
さらに、もともと隅っこに居たに過ぎなかった自分の姿に
気が付いてしまったとしたら?
そんな光がうしろから射していたことに気が付いたら?

その疑問は問うべきではなかった・・・
そもそも疑問は成り立たなかった・・・
正しい問いではなかった・・・

目の前の世界に幸せがあるはずと、それを追い求めて
やまなかったのに、
その目の位置が中心にあると思っていたのに、
じつは、そうではなかった・・・
目はずっと後ろに、自分の背中のずっと向こうにあった。
そしてそれは自分の目ではなかった・・・

(2016-02-20 SNS日記より)

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後ろから見る眼 (自分のためのメモ) [いのち]

福島智さんの著書に引用されている、吉本隆明さんの言葉。

吉本さんは、雑誌の特集で、「幸せになる秘訣があれば、
お聞きしたいと思いまして・・・」と問われたとき、
「そんなものがあるなら、僕が聞きたいよ」
と言ってから、こう述べた、とある。

「わたしたちは前を向いて生きているんですが、
幸福というのは、近い将来を見つめる視線に
あるのではなく、どこか現在自分がいきていることを
うしろから見ている視線のなかに
ふくまれるような気がするんです。」
  朝日新聞社『アエラ』 2005年1月17日号 p.14

この発言に対して福島さんはこう述べている。
「したがって、自分の姿を見る、それも後ろから見るということは、
仮想的に自身の視線を体から分離させて「後ろ」に
持っていくしかないということです。
ところがそもそも視線というものは、「見る方向」のことですから、
それ自身には実体がない。
だから、視線を生み出すもの、すなわち「目」が後ろに存在しないと
いけないわけですが、もちろんそんなものはない・・・」

   福島智著『ぼくの命は言葉とともにある』 p.227

もちろん常識的な見方では、後ろから見る視線などというものは、
存在しない。眼は前方を見るようにしかできていない。
しかしひとたび宗教的な(霊性的な)観点から、
この話を受け取るならば、これはきわめてまともで、
人生の真実を突いた言葉といわざるを得ない。

常識的には幸福というものは、われわれが実現すべき目標として
受け取られている。つまりこれから先に実現される好ましい状態ということだ。
幸福のことを考えるということは、
今は幸福ではないことの裏返しである。
真に幸福なひとは、さらに幸福を求めはしないだろう。
さらに求めるならば、幸福とはいえないだろう。

そして前方にある幸福のイメージは、永遠に手にすることはないだろう。
たとえ手にできたとしても、手にしたものが、ふわっと自分を包み込み、
幸福な状態にしてくれるような魔術が起きるだろうか。
幸福の実感とは不思議なものだ。
欲しいものが手に入った瞬間、手に入ったという興奮が訪れる。
しかし、それは持続しない。

所有することで、自分が幸福に包まれるというのは幻想に近い。
何かを自分の所有物にすることで、あるいは何かのステージに自分が立つことで、
自分の状態が化学変化し、幸福状態に変化するだろうというのは、
昔立てた予想である。
イメージした幸福の中に自分が入れば、
幸福の実感がやってくるにちがいないという、
以前抱いた予想にすぎない。

実際のところ、そのイメージが実現したときに、
自分は何も変化していないことに気がつく。
なぜなら幸福とはどういうこと状態なのかが判っていないからである。
どうなれば幸福と感じるのだろうか。

後ろから見る視線とは、自分の姿をいいこと悪いこと、
丸ごと見てしまう視線であろう。
自分が如何に生まれ、如何に育ったか、そして如何に周囲のものに
支えられて生存し得ているか、自覚するしないにかかわらず、
孤独でなくつねに関係性の中で生き得ている、
そのあらわな姿を照らしだす光の存在であると思われる。

福島さんは、後ろから見る目というものはもちろんないわけですが・・・
と書かれている。それは後ろにあるものを自分の目とみなしてしまうからである。

後ろの目はしっかりと存在する。それがなければ、誰も生きていけない。
ただそれは自分の目ではない。
自分の存在を包み込んでいる大いなる目、
かつて自分が生まれ、やがて自分が死んでいくドラマを見ている目である。
その目の前で生きるわれわれは、注がれた視線を浴び祝福されている。


(2016-02-16 SNS日記より)

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もはや、これまで (自分のためのメモ) [死]

むかしから不思議に思うことがあった。
アフリカのサバンナで、猛獣のライオンが、
カモシカのような弱いと思われる動物を狙って、
追いかけ、やがて追いつき背後から、爪を立てて
かぶり付く。そして倒した獲物を食べはじめる。

このような映像をTVなどで視聴できるようになって、
どうも引っかかりを覚えるシーンを目にして、
しだいに気になったのだ。

後ろからライオンが襲って、カモシカがその歯牙の元に
捕まったとき、カモシカの眼は大きくみひらいたままで、
手足がジタバタしていない。
この見開いた眼が、妙に気になるのである。
恐怖というより、観念した眼のように見えてしまう。
まるであなたにこの身体を捧げますとでも
いっているかのような、穏やかな眼なのだ。

これは一体何だろうか。

そう見えるだけなのかもしれないが、獲物となった瞬間に、
ジタバタと足掻く姿というものを見たことがない。
専門家に言わせれば、ハンターはとどめを刺すような
急所への噛み付き方をするものだと言うかもしれない。

どうもボクには、生命の終わりにさいして、
死への移行の状態があり、死への準備をしているように見える。
自然界における弱肉強食の世界では、
これが暗黙の了解事項であり、食べるものと
食べられるものとのメッセージのやり取りなのではないだろうか。

食べられてしまう状況になり、逃れられないと覚ったときに、
おのれは食料としてこの身をライオンに捧げる状態に、
生命体は移ってしまうのではないか。

※※※

死期を覚って覚悟するという言葉がある。
それまではイヤだイヤだとジタバタしていたとしても、
いよいよのときになれば、その運命を受け取り、
静かに死を迎えるということがあると思われる。
もはやこれまでと覚り、次のステージに向けて
最善の姿勢になる。

本来、生命体というものはこのような知恵が備わっており、
死は自然な通過点なのかもしれない。
もしほんとうに、いただいた命であることを
深く自覚するならば、死期に際していただきものの命を、
お返ししますという気持ちになるのではないだろうか。


(2016-02-13 SNS日記より)

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問うならば、その覚悟をもつこと (自分のためのメモ) [宗教]

あなたはどのような心境で生きていますか。
どのような心理状態なのですか。
あるいはどのような信仰を持っているのですか。

このような質問をときどき受ける。
ボクはだいたい質問に答えないか、
質問をはぐらかしてごまかすことにしている。
そもそも人に教えるほどの境地など持っていない。

まじめに答えたところで、それを汲み取ってもらえるとは
期待できないからだ。それに、汲み取ってくれるほどの方ならば、
そのような質問は人にしないものだ。

なぜそれを訊こうとするのだろう。
それを知り、何かを得られると期待するのだろうか。

もし何かが得られるならば、それは質問をする人が、
すでに答えを胸元まで得ているという証拠である。
あと一歩のきっかけがあれば、その人はみずから
答えを得る段階に来ているということだ。

そのような段階にも達していない人が、
ひとに心境を訊くというのは、野次馬的な関心か、
面白半分ということだろう。

宗教書をひも解くと、境地に到達したひとが、
人生の核心に関する質問を受けて、
まともな答えをしないという逸話は実に多い。

浄土真宗の妙好人の庄松は、遠路はるばる訪ねてきた
同行の人に何も答えなかった。何日も歩いて旅をしてきて、
ようやく庄松のところにたどり着き、教えを懇願するが、
ただ米を搗き続けるだけだった.。
(かれは使用人として米を搗く仕事を生業にしていた)

旅人は、振り返ってくれもしない庄松の姿に接して、
ずっかり絶望してしまった。
教えていただけないのならば、
またとぼとぼと帰りの旅をしなければなりません・・・

そのとき、庄松は、
「そんなに絶望的な心境ならば、私に聞くのは間違いです。
なぜアミダ様自身のところへ行かないのですか?
救いを扱うのは、アミダ様です。
それは自分の仕事ではありません。」

禅書に掲載されてるはなし。
ある人が、禅匠に、
「網を通り抜けた金鱗の竜は、何を食べるのですか?」と訊いた。
網とはわれわれ縛り付けているいろいろな束縛。
それを抜け出して霊性的に眼の開いた人(悟りの境地に達した人)は、
どのような生活をしているのですか、と問いかけた。
そのとき禅匠の答えは、
「あなた自身がその網を通り抜けなさい。そのとき教えよう。」
         
                碧巌録第四十九則


(2016-02-11 SNS日記より)

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自力による反省は本物か (自分のためのメモ) [浄土真宗]

親鸞さんの言葉がある。
「自力というは、わがみをたのみ、わがこころをたのむ、
わがちからをはげみ、わがさまざまの善根をたのむひとなり」
                  『一念多念文意』

四つじ亮さんによる解説では、
「・・・自分の悪いこころを反省したり、悪いところをやめようとして、
だんだん正しい自分を築こうとします。
しかし、反省は、反省する自分は間違いないと
たのむことを前提にしています。
その反省する自分を反省することは困難です。」
                『歎異抄にたずねて』

まことに厄介な事態。
反省している自分自身が、もし将来間違っていたとわかったら、
そのとき反省した内容も間違っている。
このように反省に反省を重ねて、人格や境地が進歩するのだと
考えるのならば、反省を重ねるたびに、
過去の自分が反省した内容はリセットされ、
それを繰り返すということになる。

数学の学習のように、正しいとされる公理から導かれる定理を
積み重ねることで、数学の体系ができてくるようには、
人格や境地の進歩というものは、定かなものではない。
このようなことの繰り返しは、心境が深まるというよりは、
やり直しの回数が増えたというべきだろう。 

最新の自分の考えや見方は、間違いないという前提に立たない限り、
このような論理は成り立たない。
いつでも、いまの自分が正しいのだ。
そして過去の自分はぜんぶ未熟である。
だから反省というものに意味が認められる。

反省している自分も間違っているかもしれないと考えてしまうならば、
反省した内容も、まあ違っているかもね、
たいした価値はないかもね、と認めることになる。

自力による反省や進歩というものは、
ゲーデルの不完全性定理を思い起こさせる。
この定理は、どれほど精緻に論理を組み立てても、
「原理的に」その論理体系では証明できない命題がありうることを
証明したものだ。
つねに新たな定理を追加していく運命にある。
数学理論も、永遠の不完全状態にあるということだ。

つまり進歩しうると考える論理は、
いつか完全な理想状態に到達できると信じるということと等価だ。
いつか超人のような状態になり、すべての知恵を具備し、
完全なる境地を手にすることが可能だと仮定しているのである。

はたして現在の自分が、最新でもっとも正しいということは、
なぜいえるのだろう。
その根拠はどこにあるのだろう。

(2016-02-10 SNS日記より)

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老妻 あわれ (自分のためのメモ) [浄土真宗]

現代の妙好人詩人といわれる榎本栄一さんの作品に、
触れたのは楠恭氏『妙好人を語る』という書である。

1994年に榎本さんは、第二十八回「仏教伝道文化賞」を
受賞された。そのとき榎本さんは九十歳。

妙好人といわれる方々の詩は、心情や心境を吐露したものが多く、
文学的な味わいというものを多くは感じない。

しかし榎本さんの詩は、言葉がこころに刺さってきて、
その言葉の響きが頭の中でぐるぐると反芻される感じで、
忘れがたい。

以下の詩は、『無上仏』の最後に、病床で書かれた詩の
なかから、こころに残る2編。

+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++

 「ある夜」
                   榎本栄一

夜 懐中電灯を持って
老妻が現れ
みなぬれていると言いながら
紙おむつと
パジャマのズボンを替えてくれました
午前三時三十分

+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++

 「カレンダー」
                   榎本栄一
カレンダーは
もう十二月になっている
買い物車を引いて
トボトボと
紙おむつを買いにゆく
老妻 あわれ

+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++

世話をかけている老妻、身体がままならない自分、
その現実の姿をじっと見つめている眼。
非難や迷惑などとは別の世界で、生きている夫婦。
なんだか切ないがこれが世の実相なんだと迫ってくる。


京都NHKで、楠氏との対談の中で、榎本さんが
語ったとされる言葉。
これも胸をうつもの。

「念仏を戴くということは、自分が見えてくることです。
自分が見えてくるということは、煩悩我執が見えるということ、
自分のこころの姿が見えてくるということです。
ところが我々がその時にしようとすることは、
こんな嫌らしい心をなんとかもっとよくしたいとか、
捨てたいと思うことです。
これが我見我執です。
なんとかしたいと手を出す、これがいかんのです。
これに手をつけ出したら、蟻地獄へ落ちたようなことになる。
煩悩我執が見えている。
この見えていることが大事なんです。」

        楠恭著 『妙好人を語る』  p.288


(2016-02-05 SNS日記より)

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タスカッテイル (自分のためのメモ) [浄土真宗]

詩人であり、浄土真宗の教えに深く帰依して、
信心を得た方に、竹部勝之進さんという方がいらっしゃる。

竹部さんの書かれた詩でとても印象に残る短い詩がある。

++++++++++++++++++++++++++++++++++

「タスカッタヒト」
                 竹部勝之進
タスカッテミレバ
タスカルコトモイラナカッタ

++++++++++++++++++++++++++++++++++

タスカルという現象が起きるためには、
タスカラナイという状況が必要である。
タスカラナイヒトが、あるときタスカルということになる、
という道理である。

ところが、このタスカルという話は、少し複雑だ。
最初からタスカッテイルのに、タスカッテイナイと
思い続けている背景がある。
タスカッテイルのに、タスカッテイナイと思い続けて、
迷っている。

ある日、迷いの雲が晴れて、ああそうなんだタスカッテイタんだと気がつく。
タスカッテイナイと思っていたのは、
自分が作り出した迷妄だった、と気づくわけである。

したがって、タスカルということも、もともと不要だったと
気が付くということである。

楠恭氏の解説文がある。
ちょっと難しいところもあるが、以下に引用。

「いのちの本来性の生死不可分が世界の真理ですから、
分別我欲で妄想を作るのでなく、いのちの決まった真理に従えばいいのです。
分別我欲で本来生死一如のいのちにいらぬ文句をつけるからいけないのです、
迷うのです。タスカリタイと言い出すのです。
初めからタスカッテイルのに、タスカッテイナイと言ってタスカルコトを
捜し求めるようなことです。
ちょうど眼鏡をかけていながら、眼鏡がどこかに行ったと探すようなものです。
このことが明らかになるのがタスカッタということです。」

     妙好人を語る 第六章 現代の妙好人 p.260


(2016-02-03 SNS日記より)

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デカルトの不思議な命題 (自分のためのメモ) [思想]

デカルトの有名な命題、「われ思う、ゆえにわれ有り」という言葉。
懐疑をくりかえして到達した根本原理とされる。
これ自体は疑いようのない真理なのだと。

われというものは、一つの実体であり、その本質は考えるということである、
と主張している。またいかなる物質的なものに依存しない。

デカルトは、この根本原理をつかって、神の存在証明を行っていく。
この原理は完全なるある本性から学んだにちがいない。
その本性とは神である。
自分は完全ではない。だとすれば、ほかに完全なる存在がなくてはいけない。
それが神だ、という論理である。

しかし、つねづねこの命題は、不思議な内容だとボクは思ってきた。
根本原理というほど、全ての根本足りうるのか疑問に思うのである。

疑うわれ、思うわれということから、自分の存在を証明しているとされるが、
もし疑うことや思うことが無ければ、自分は存在しないということになるのではないだろうか。
疑ったりすることを意識していない場合は、自分は無いとしなければならない。

意識が途絶えてしまったとき、あるいは意識できないとき、そのような条件下では
われは存在しないとなる。寝ているとき、病気で意識が維持できていないとき、
その人は存在していない。

※※※

無心の境地というものが仏教、とくに禅では尊いとされる。
武道でもスポーツの練習でも、意識して手足や身体を操作しているうちは
初心の者で熟達していない。
意識内容から消え去るほど、熟達したときに、
無心のうちに相手を打ち負かす。あるいは相手を超越する。
これを理想としている。

車の運転でもそうだ。
初心者のうちは、ハンドル操作やアクセルやブレーキを
いちいち意識しないと操作が出来ない。
そして意識しているうちは、傍から見ても運転がぎこちない。
視点は固定していて前しか見ておらず、
横から出てきた歩行者などへのとっさの判断が出来ず、
とても危険な状態だ。

運転に慣れてくれば、どのように操作して家に戻ったのかを意識すら出来ない。
満遍なく周囲に目を配り、それを意識していない。
危険回避のハンドル操作を、どのように意識し考えた上で行ったのか、
振り返っても判らない。

デカルトは、肉体に依存しない精神作用の意識や思考を、
疑いようの無い確固たる存在としたが、それは間違っているのではないか。
肉体のなかに埋め込まれた無意識化した領域の作用が、
本当はわれわれを支えている実体ではないのかと思う。

無心の境地と禅などでは言う。
それは意識に上らない無意識の領域で行われる生活、行動こそ
本来の姿であることを示す。
つまり意識の領域を「空」にしておくことこそ、
臨機応変にものごとに対応できる境地だとする。

意識できる精神を至上のものにしてしまうと、
意識範囲に入らない存在は無視されて無いものにされてしまう。

しかしボクが信じているのは、自分が意識できないところで
ボク自身を支えてくれ、生かせしめているもろもろの存在の尊さだ。
空気、太陽の光、水、山野、動物たち、野菜など、
それらの存在がほんの10分でも与えられなくなったら、
ボクたちの存在も意識も無くなる。

(2016-01-31 SNS日記より)

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