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慕う人 パスカル [思想]

これまでの人生の中で、機会あるごとに手にして紐解いたのは、
パスカルのパンセ。翻訳の異なるパンセが書棚にいくつあるのかな。
若いころに傍線を引っ張りながら読んだ松波信三郎氏の翻訳は懐かしい。

パスカルは、物理学者、数学者として名が知られているが、
思想家、哲学者、そしてキリスト者でもあって、
その人物像に尽きない魅力を感じる。

その魅力の深層を探ってみると、理性的な精神を持ちながら、
宗教という理性を超えた世界にも敬意を持ち続けたこと。
理性の限界と、それを超越する世界の存在を感じ続けたということだ。

味わい深い短い言葉を二つ。

「理性と行き過ぎ:
  二つの行き過ぎ、
  理性を排除すること、理性しか認めないこと」

「理性と宗教:
  もしすべてを理性に従わせるとしたら、
  わたしたちの宗教には神秘的なところも
  超自然的なところもなくなってしまうだろう。
  もし理性の原理に反するならば、
  わたしたちの宗教は不条理で滑稽なものと
  なるだろう。」


(SNS日記より 2016年9月3日)
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夜にうつらうつらと想う [思想]

夜、書斎に上がって、本を読むでもなく、何かをするでもなく、
ただ何時間も何ごとかを考え詰めている、という時間を過ごすことが多い。

先程から、どこかの本で読んだ文章が気になって、
ふたたびその文章を読みたいと思うのだが、
どの本であったか思い出そうとしても出典がわからない。

うろ覚えの文章とは、こんな内容だった。
ハイデッガー(ドイツの哲学者)が、死を前にしてか不明だが、
禅仏教のことを知り、とても残念がって、もし若い頃に禅を知っていれば
自分の哲学はかなり変わっていたことだろう。
そんな述懐が記されていたのだ。

若いころに、ハイデッガーを理解しようとして苦闘した記憶がある。
当時、キルケゴールという哲学者の著作をかなり読んでいて、
ハイデッガーはその後継者とみなされていたので、どのような
つながりがあるのだろうという関心があった。
それにハイデッガーの主著『存在と時間』があるが、
哲学の根本問題に真正面に取り組む姿勢が魅惑的だった。

しかしハイデッガーの著作には、ドイツ語ならではの造語に似た
新しい用語が使われていて、ドイツ語で読まないと本来の意味が
見出せないことがなんとなく感じられて、理解を断念してしまった。

思い出せないある本の文章によると、実存哲学の最後の巨人と
言われているハイデッガーが、禅で述べている哲学と言うか思想に
収束しようとするものを直感したとするならば、
ハイデッガーが追い求めたものは、意外に自分にとっても親しみやすいもの
だったのかもしれないと思えてくる。

ハイデッガーの試みはこうだ。
存在というものの秘密を解く鍵は、人間にある。
そこで人間存在の本質を追求することで、存在の秘密が明らかになる。
「ある」ということはなにを意味するのか、
その通路として人間の在り方を調べていくという手法なのだ。

では人間の存在とはなにか。それを端的に表現する言葉として、
「現存在」といういい方をするのだが、まあ実存という言い方の方が親しみやすい。
そして現存在の本質とは何かと問うわけなのだけれど、
ハイデッガーは、投げられた存在なのだという。
この投げられた存在という言葉が、若い頃はどのような背景から
出てくるのかわからなかった。

しかし今思えばそれは、人間は「自分の力で」生きている存在ではなく、
「なにものかにより」生かされていることだ、という意味ではなかったかと気づく。
もちろん人間は、おのれの将来を決めるべく将来像を作って
それに向かって努力するということがあるだろう。
しかしなんといっても人間の存在の始まりは、投げ出された存在、
気がついたらそこにあった、という存在形態なのではないか。

主著『存在と時間』は完成を見ないまま、前半部分で終わっていて、
後半に当たる部分は、講演会などで語られているようだ。
禅を知っていればといった後悔の念というのは、
この語りの中に出てきたものかもしれない。

自分という存在が投げ出されたものと規定するのならば、
その投げ出したものは何か、投げ出される場所とな何かと
問われないければならない。
それはまさに禅が追求していく自分自身というものと
無縁ではありえないと思われる。


(SNS日記より 2016年8月29日)
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言葉と体験、そのあいだに横たわる溝 [思想]

昨年から、お付き合いいただくようになった元大学教授の瀬田さん(仮名)
という方がおられる。
瀬田さんは若い頃より人生の問題、とりわけ死の問題について
宗教を訪ね、また臨死体験などの調査を重ねられて、
どうしたら死の克服という課題に、解決が得られるのかを
真摯に追求されてきた。

先日、瀬田さんとお話する機会があって、その場で、
いまの仏教のあり方に対して批判的な見解を語られていた。
それはこのようなことだった。

瀬田さんは、禅仏教で言う悟りの状態が会得できるならば、
死を前にして泰然自若とした態度が取れるにちがいない
という想定を立てて、禅寺の住職さんを訪ねては、
悟りとは何かを問い続けてきたそうである。
また坐禅会にも若い頃より足を運んだそうである。
それこそ何十年と追求を続けたそうだ。

しかしながら、悟りについて、その内容を住職さんたちは
明かしてくれないし、概念的にも説明すらしてくれない、
そして、ただそれは言葉にはできない、と言われるだけである。
また僧侶の著した書を読めとか、そのコピーを送ってくるだけだ
と語られた。

こちらの問いに対して、語ろうとしない態度はきわめて不誠実なものだ、
というご批判だった。そして、ついには矛先はこちらにも向いてきて、
OASIMさんも、やはり言葉ではいえないといって、
少しも語ってくれないですねと、なんだか不満を述べられた。

そこで・・・
自分は悟ったわけではありませんが、とまず断わった上で、
こんな例をお話した。

『蒸し暑い日、かんかん照りの道を歩いて、
喉がカラカラになったけれど、しかし周りに水らしいものがない、
そんな状態で半日ほどすごしたとしましょう。

この喉が渇いたつらい体験を人にどのように伝えますか?
またさいわいお水を手に入れて、喉の渇きを癒したときに
「ああ、うまい!」という感覚を言葉で表現できますか?

言葉で伝えられる範囲は、つまりこういうことではないでしょうか。
自分は喉が渇いている、そしてようやく水が飲めたときに、
水とはこんなにうまいものだとは思わなかった、
という概念的なことがら(つまり情報)ではないでしょうか。

つまりその話を聴いた人が、ああそうなんですねと、
他人事として聴いたきりで、話は終わってしまいませんか。
言葉を聴いた人が、喉の渇きを体験してくれるわけでは無いし、
ましてその水のうまさを実感してくれるわけではないです。

もし、その聴いた人が深く共感してくれるとすれば、
その人にも同様な体験があり、水がこんなにもうまかったのだと、
感じる体験をした場合ではないでしょうか。』


なんとなくはぐらかしたような答えではある。
しかし言葉は、その体験につけた符号のような呼び名であるために、
体験を共有できていない人には、言葉の概念しか伝わらない。

悟りについても同様で、悟りを理解した人同士ならば、
少しのヒントや言葉で互いに体験を理解でき、共感できる。
しかし悟っていない人に、どれだけ説明してもその人が悟りを
得るわけではない。

よくあるたとえ話であるが・・・
あのきれいな月を見てと指差したら、
相手は月を見ないで、指の方ばかり見ている。
月が見えていない人にとっては、見ろと言われた先には指の姿しかない。
だからいくら言葉を費やして説明しても、月のことは伝わらない。

月が見えるようになった時、
初めて指差した先の月に気づくことができ、
その月の美しさに感動できる。

悟りを、幸福というものに置き換えても同じだ。
いまある生活が恵まれており、生きていられるだけで幸せなんですよ、
救われているじゃないですか、そのことを味わい喜びましょう、
と言っても、その幸せがいまの生活に見い出せない人には、
何のことかわからない。へんなことを言う奴だなと、
訝しがられるだけである。

宗教者がついには、学問や書を捨てて、
修行に打ち込んだという話は多い。
いつまでも、概念の世界で格闘していても、
救いはやってこないのだと絶望するのだろう。

(2016-05-30 SNS コラム記事より)

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