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いくどでも、いつでも [宗教]

ボクたちはいつでも目覚めているわけではない。
ときに妄想し、空想の中で遊んでしまう。
そのたびに足元がふらついて、自分がどこにいるのか
わからなくなる。青い鳥を見つけたと興奮して、
「今」からさ迷いでてしまう。

それら迷いまみれのことがらは、むかしから
多くの人がやってきたことがらだ。
それが失敗だったと気がついても、気がついたことへ
気持ちがさ迷っていく。気がついたという思いが
新たな迷いの種子となる。

こうしてわけも分からず自分が何をしているのかも
わからず時間が過ぎていく。死の床まで同じだ。

死の淵へ行く体験などによって、いかに自分が
生の側にいて安心しきっていたことに気がつく。
身近な人が亡くなる、死病をする、重大な事故や
災害に遭遇する。

人はこんなに簡単に死んでしまう。あるいは自分も
あっさりと死んでしまうのだろう。
死の淵に揺られているいかだの上で、酔って騒いでいる
自分に姿に気がつく。いかだの上の気晴らしだった、
要するにそうして、人生の時間を費やしていたと気づく。

いく度でも、いつでもこの気付きに戻らねばならない。
この原点に戻るときに、このいまの生の現実に、
向き合い、真実に向き合う。そしてそれが
大いなる恵みなのだと。

偉大な宗祖はみなこのことがらを口にしていない。
言葉を飲んでしまった。口にすれば誤解され、
あやまった理解がされるのみだから。
かすかにその地点に到達するものへの暗示を残した。


(SNS日記より 2016年10月7日)
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病むとき (自分のためのメモ) [宗教]

こころでも体でもそれは起きますが、いつもの自分とはちがう違和感を感じて、
ああどこか悪いのだなと思うことがあります。
調子がおかしいと感じたり、何かに苦しみを覚えたり悩みを持ったりします。
思わず大変なことになってしまったと慌てます。

でもふり返ってよく考えると、その慌てる感じは自分というものが
世界の中心であると思っていることに起因しています。
世界の中心にいるこの自分が調子がおかしい、苦しんでいる、悩んでいる、
それは大変だ!ということになります。

パソコンで言えばOSの中に修復できないトラブルを抱えているようなもの。
何か動作をさせようとすると、正しく動かない、
間違った答えを導き出すかもしれない。それは大変だとなります。

この自分が主役で世界の中心にいるという思い込みは根強く、
なかなか抜け出すことは困難です。この蒙昧な思い込みを是として、
ずっと世界を見ていたのだ、と気づけるかどうかが、
信仰への最初の一歩なのではないかと思いますね。

なにも神を信じる自分なのだから、自分は信仰者なのだというものではないですね。
自分は神を信じるという言い方は、ある意味で傲慢な思いであり、
苦しみの道であり、宗教的にはまちがっていると感じます。
こちらが主人公で、神を信じてやるといっているふうに聞こえるように、
自分が主体だという世界観そのものなのです。神すらそのための道具に過ぎません。

自分は主人公でもなんでもなくて、ただの世界の片隅に
ひっそり生きている人間なんだということが分かるときに、
思い込みは崩れていきます。
世界の、いや宇宙の片隅の芥子の種ほどの小さな存在。
長い時間の流れの中で、ほんの一瞬いのちをいただいて生まれ出てきた存在。
いちばん大事なことは、それでもなお自分は生きている
という事実に逢着することです。

病むときと題したのは、自分が病んでいるときの苦しみに、
さらに自分が主人公だと固く思い込んでいることによる苦しみを重ね、
いっそう苦しむ構造があることを明らかにしたいがためです。

自分のこころや体が調子悪いのも、よくあることがらで起きても
当たり前なんだと気づくとき、そんな体なりを頂いているんだと気がつくとき、
それは単に不調なだけです。
何の不思議もありません。

(2016-08-04 SNS日記より)

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おごり (自分のためのメモ) [宗教]

信仰に至るその前には、疑いに疑いを重ねる過程があるということを記しました。
疑いの果ての絶望的な状況の中から、
それを踏み台にして信仰というものが入ってくると考えています。

でもこのような話、きわめて特殊であり、面白くもなく、
一般に話題にするようなことでもありません。
自知する人が知っておけばいい話題です。
そのことを痛感しています。

そもそも宗教などそんなものです。楽に生きれる人はそのままでいいのです。
宗教に無縁であるなら、それでいい。苦しみを抱えていない人に、
わざわざ宗教を勧めるとか入信させるなど、とんでもないことで、余計なお世話です。

もし人に勧めたいという気持ちがあるのならば、
その不純な気持ちを振り返るのがいいと思います。
人は人。
人の生き様を見て、自分が知り得た教えの方が優れている
と思うのは、思い上がりというものです。

人は得ただけその分、誇りというものが生まれます。
オレはこれだけのことを成し遂げた、
だからオレを敬え、オレを尊敬しろという気持ちは、
どんなに謙虚に振舞っていても、
おのずと体から滲んできます。
それはとってもイヤラシイ。

※※※

維摩経というお経がありますが、このなかに舎利仏と天女の対話が出てきます。
(舎利仏は、般若心経のなかに、観音菩薩が呼びかける相手として登場する仏陀の高弟です。
般若心経では、舎利子、云々と出てきますね。)

舎利仏「あなたはなにを覚って、このように説くのですか。」
天女「わたしは得るところもさとるところもありませぬから、
このように説くことができます。
もし得るところ、覚るところがありますならば、きっと驕慢心をおこすでしょう。」
驕慢心をおこす元となるから、自分の得たものは無いということを宣言します。
知恵すら所有しないということですね。

自我の働きが煩悩と変わるのは、この自分が自分がという妄執によってです。
その理由は自分の「所有」と関連しています。何も持ち物がない、
生まれてきたときは何も持っていなかったという地点に立っていればいいのですが・・・

ところが、生きている間に所有ということが出てきて、
この所有物から誇る気持ちが生まれ、驕りが出てきます。
もともと何も持たずに裸で母の胎から生まれてきた、
とはヨブ記の言葉ですが、まさにこれ。

(2016-07-29 SNS日記より)

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