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宇宙のはて、そしてあの世 [宇宙]

宇宙の果てと聞くと、何かエキセントリックで、すごいことを考えている気分になる。
しかしこれは言葉の綾で、宇宙の果てというものを見たり観測したりすることは
できないだろう。

背理法という証明法がある。いちおうこれが正しいとして話を進めることにする。
(背理法が成り立たないこともあることを、ゲーデルは証明したのだが)

もし宇宙の果てを見たり観測できたとすると、それは境界が認識できたことになる。
その境界は、こちらは宇宙であり、向こうは宇宙でないものの境目だ。
しかし宇宙でないものを、原理的に知ることはできない。

もし宇宙でないものが、ガラス越しに外の景色を見たように見えたとすると、
そこはまだ宇宙の内になるだろう。何らかの信号なり電磁波なりが
そこからやってくるということになる。これは宇宙の内側の世界のできごとだ。

したがって宇宙の果ては、わからないということになる。
観測にはかからない。宇宙の体積が有限であり、それ以上の広がりはない
という間接的な証明により、宇宙は無限ではないということしか言えないだろう。

このことはボクたちが2次元の生物で、面の中で生活していると仮定すれば、
そのアナロジーでなんとなく分る。
この2次元の面の構造が、真っ平らでとこまでも広がっているならば、
もちろん果てはない。曲率が負の曲面でも同様だ。曲率がプラスの、
たとえば球面の中にいる場合はどうだろう。
この場合は、世界の体積は(面積は)有限であるにも関わらず、
どこまでも進んでいくとぐるりと回ってしまいもとへ戻る
というようなこともあるだろう。

球面のような場合にも、その宇宙が有限ではあるけれど、
やはり果てというものを見出すことはできない。
世界でないところと世界との境界線は見いだせないのだ。
このことは3次元のボクたちの宇宙でも同様だろう。

話は急に変わるのだが、臨死体験とか死の世界を見たと言うような話を
熱心に調べている方がいる。この生と死の境界というものが果たして、
認識にのぼるものだろうか。宇宙の果ての話と酷似しているように
思えてならない。

生は生の世界で閉じている。いちおう生と死は両立しない反対の概念だとすると、
境界がわかるときは、死の世界の何かのことがらが、
生の方に滲み出ているということになる。
しかし死の世界のことがらは、死の世界であって、生の世界とは関わらない。
滲み出ているとすればそれは生の世界の出来事であろう。
あるいは向こう側を想像しこちらから腕を伸ばしたその腕のことだろう。

あの世を信じる人は多い。
しかし死は生を失った状態だとすれば、生のない世界、
いわば無の世界から一体何がやって来るのだろう。
生の世界で通用する手段を用いて、無の世界とどのようにして
交流するのであろう。
あの世のことはわからない、無関係のものではないだろうか。


(SNS日記より 2016年9月25日)
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