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ゆるすとは、そしてゆるされるとは? [キリスト教]

前日記に登場した、罪深い女のゆるしに関する考察です。

イエスにより、「あなたの罪は、ゆるされている」と明確に宣言されたわけですが、では「この女はいつどのようなことにより、罪がゆるされたのでしょうか。

素朴に考えるならば、誰の助けも借りずにたったひとりで信仰を得て、救われていると確信したはずです。イエスの言葉にも、「あなたの信仰があなたを救ったのだ。」とあります。

イエスにまみえる前に、ゆるされていたということなので、罪深き女は、その前にゆるされる瞬間を体験したはずなのです。

それはどういうことが起きたのでしょうか?

二つのことがあるかと思います。
ひとつ目は、周囲から罪深い人間と呼ばれ、自分自身の中でも自分という疎ましい存在に感じたはずの絶望的な状況があると思われます。いわばズタズタでボロボロの絶望的な状況です。自分を誇ることなど到底できない、友人もなく孤立して、人が集まるところへは顔も出せない自分の姿。

そしてもうひとつのことがら。

それほど罪深い人間ならば、天罰が下りてきて滅ぼされてしまって当然であるはずです。罰が当たって即座に息絶えても仕方ないということになります。
刑法の考えのように、罪を犯した人間は当然、その報いを受けなければならないことになります。

しかし絶望と滅亡の淵にいるはずなのに、それでも自分は空を飛ぶ鳥や、野の花のように生きている。それはどのようなことなのか。どう考えたらいいのか。この世の仕組みはどうなっているのか。神は沈黙しているのか。
そんな思考回路が働いたと思います。

これは大きな矛盾ですね。宗教の重大な局面では、このような相克が介在しているように思います。
この矛盾はどのようにして回避されるのかが問題です。

これは個人的な見解として述べますが、絶望や滅亡の状況は、頭で紡ぎだしたことがらで、その先に出口がないのです。

しかし体は生きています。体はいつも与えられた命を生きようと働いているのですが、それは自分の考えでそうしているわけではありません。頭の考えとは独立に体はいのちを生きていて、息を吸ったりしてこの世界とつながっています。

空の鳥や野の花は、そのように与えられたいのちを、そのままいただいて生きています。なぜ自分はそうではないのか?なにがその苦しみや絶望を生んでいるのか?

そしておそらく爆発的に真実というものをつかむのです。爆発的というのは適切でないなら、直裁に世界の成り立ちを直感するのですね。そこからあらゆる理解がやってきます。確信が生まれるのです。罪深い女の心に起きたことがらは、そういうことではないかと理解しています。

(2016-08-10 SNS日記より)
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気になる言葉、そして誤解 [キリスト教]

ルカの福音書7章に、罪深い女をゆるすという話が出てきます。
イエスがファイサイ人の家に滞在し、食卓についたとき、町では有名な罪深い女がつかつかとイエスのもとに現れます。香油の入った小瓶を抱えて、泣きながらイエスの後ろから足元に近寄り、涙でイエスの足をぬらし、自分の髪の毛で拭き、そして足に接吻して香油を塗ったという話です。

周りの人々はこれは罪深い女なのだと非難するような視線を向けています。イエスはこの雰囲気を感じ取って、弟子のシモンに言うのです。

「あなたに言う。彼女が多くの罪がゆるされたのは、彼女が多くを愛したことでわかる。少しだけゆるされる者は少ししか愛さない。」
イエスは女に向かって、
「あなたの罪はゆるされている」
「あなたの信仰があなたを救ったのだ。安心して行きなさい。」

人々は、罪をゆるすこの人は、いったい何者だろうと、心の中でつぶやいた。

(以上 ルカ福音書7章 フランシスコ会聖書研究所訳注より)

気になるのは、周囲の人はイエスが罪をゆるしたと見ているわけですが、イエスはそのようなことはいっさい言っていない、ということです。
イエスが語ったのは、「罪がゆるされている」という宣言であって、その女をゆるすとはひとことも言っていないことです。

このフランシスコ会の訳では、この節の表題に「イエズス、罪深い女をゆるされる」と付いていますが、これも誤りです。残念なことですが誤訳で、イエスは罪をゆるすとは語っていません。(注)

この部分はとても重要なポイントと感じますが、大多数の人はこれを誤解しているのではないかと思われます。

その違いですが、新約聖書を通じてイエスは罪深い人に対してそれをゆるすという言葉を、はたして投げかけているのだろうかと疑念を抱いています。もしそうならば、イエスはその力があるということになり、神に等しい立場にいるということになります。

イエスによる救いとか、ゆるしということが、よく語られているのを見聞きしますが、それはイエスを神に同一視する見方です。イエスのパワーにそのような力があって、それが作用したのだという見方になります。

しかし、イエスがこの食卓の前で語ったのは、その人の深い信仰がその人を救っているのだということ、多くの愛を示したことが、罪がゆるされていることに示した、という表明です。つまり本人の信仰によるものであって、イエスはそれを認定した形です。

それはどのような時間的な経過になるのでしょうか。
イエスが語っているのは、深い信仰や愛をもちえたときに、すでに罪はほどけてゆるされているという時間的な順番です。

けっして最初に罪深い女が、ゆるしてくださいという嘆願をイエスに向かってしたわけではないということ、そのお願いの見返りにイエスがゆるしたという訳ではないのです。女は深い信仰を示しただけです。

このルカ書のこの部分の記述は、信仰の本質を示していると思われます。

(注)2011年4月24日刊行の「聖書 原文校訂による口語訳 フランシスコ会聖書研究所訳注」では、以下の表題に改定された。
「罪深い女の赦し」

(2016-08-09 SNS日記より)

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心貧しき人 (補足編) [キリスト教]

イエスに説教に、こころ貧しき人は幸いであるとの言葉があります。
この貧しい人という表現に、つまづく人が多いだろうと思います。

神を受け入れるこころの余地のたくさんある人というふうに自分は考えます。
神だけでなく、ほかの人の存在や生き方などに関しても同様です。

パリサイ人や律法学者は、罪を犯した人たちや、
律法を守れない人たちを、心の中でバッサリと切り捨てて、
それを裁き非難します。

その人の陥っている事情や生活の背景や、
そういうことには関心がなく、まして情状酌量のような気持ちや、
その立場に同情するというような余地もないのですね。
罪を犯した人は悪の権化であるかのように見ます。

※※※

話は変わりますが、自分は絵画教室や公民館などで講座を持っていますが、
生徒さんたちの上達の姿や、途中でやめてしまった人たちの姿を見ていて、
「心の余地」というものの大切さを思います。

水彩画などの知識がほとんどなくても、いわれたとおりに道具をそろえ、
素直に学んでいく人は、ある時期になると急速に上達して、
いい絵を描くことができるようになります。
1年目は言葉がわかってくる段階で、これまでの経験では、
3年目くらいからびっくりするような上達をみせます。

このような方たちの姿には、「愚直」ということばを思い浮かべてしまいます。
先生から言われたことがよく分からずとも、ともかくついてくる人。
言葉がわかってくると、どんどん吸収していく感じがします。
他の分野でも、やはりこのような方が上達の姿を見せるのではないかと
思いますね。

いっぽう一年もしないうちに辞めてしまう人は、
決まったパターンがあると分かるようになりました。
それは一言で言えば「自説を持った人」、あるいは「疑い深い人」です。
自分を持っている人というふうにも見えます。

こちらのアドバイスに対して、それを受け取ることをしないで、
自分の考えをぶつけてきます。それに対して説明を加えていくと、
その人の心の中に葛藤が生まれているのです。
自分の思っていること、疑っていることが首をもたげているのですね。

何年も絵を描いてこられた方で、知識も豊富であるというならば、
意見の相違や描法のちがいなどがあって当然です。
しかしこれから始めようという段階の方が、自分の考えを持っている、
あるいは疑いを持つというというのは、
すこし自分の持ち分が過剰ではないかと感じます。

このごろは、スタートする前から、辞めてしまうだろうと予想がつきます(笑)。

習うということは、真似することでもあり、それは自分を捨てるということです。
虚心に先生の言うことを聞いて学んでいこうということです。
また、名画の模写がものすごく勉強になるのは、
自分を捨てるように強いてくるからです。

守破離という言葉がありますが、最初はいわれたとおりに
伝統を守るという部分がきます。
それは自己を捨てていくということでもあります。

キリストのことばを使わせていただくならば、こころ豊かな人、
自分でいっぱいの人に相当するように思います。
律法学者のように自分を説を強く持つというより、
疑いを持つという消極的な自説ということになるのかもしれませんが。

どれだけ言葉を尽くされても、自分の経験や知識、
疑念などが邪魔をして、相手の言葉を受け取れない。
これは習い事ばかりでなく、宗教のような人生をかけるような
状況でも似ているなと感じます。
疑うことは人生をダメにしてしまうこともあります。
心貧しいとは、おのれを空しくして素直について行く姿なのですね。

(2016-07-23 SNS コラム記事より)

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