SSブログ

おのずとそこにある節度 [科学・技術]

科学技術の発展により、微小の世界から宇宙の起源まで、さまざまな知見が
容易に知りうるようになった。この世のことがらの全ては科学的な見地から、
やがて解明されてしまうだろうと思う考え方も出てきていると思う。

2045年問題として知られる高度な発展を遂げた人工知能が、
全人類の知能の総和よりも高い知能を有するようになり、
その後の人類の歴史は予測がつかない、つまり人工知能に支配される歴史を
歩むのだという説を唱える人もいる。

その素朴な信仰にも似た思い込みが、出てくる傾向のあることは自分にもわかる。
声高にそれを叫ぶがごとくの人たちにも遭遇する。いわく宗教などそのような曖昧な
ことがらを信仰するなど、古くて凝り固まった考え方だと。

しかし科学技術は、無を科学することは出来ない。
何もないところから科学による探求をすることは出来ない。
まず現象があり、物質と物質の関係や関わり、その間に成り立つ法則を確認しながら
進歩してきたもので、その原初の部分に関して推測はできても、
法則や原理というものを打ち立てることは不可能だと考える。

その観点からいえば、科学の方法論というものは、すでに物の存在を前提にして、
その物の変化とか運動や、他のものとの働き合いを調べるものだ。
いわばプロセスの解明である。

玉ねぎの皮むきではないが、原因を調べて調べて、調べ尽くして、
最後は第一原因というものに突き当たることがあるかもしれない。
しかし、その第一原因を科学することはできなくなるだろう。
無からそれらが生み出されたことがらを言及したり調べたりすることは、
もうすでに科学の範囲を超えている。
なぜなら第一原因を分解したり要素への分解を試みることは出来ない。
それはただ在る。

基礎生物学の江口吾朗先生の言葉が示唆に富む。
NHKより出版された「驚異の小宇宙・人体」のなかで、
アナウンサーの山根基世さんと対談している。

江口「・・・ときどきどうしてこんなヘンな脳を神様はくれたのかなぁと
悩ましく思うこともあるんだけど。」
山根「・・・いま神様とおっしゃいましたが、先生は科学者でいらっしゃるけど、
私なんかと同じように、「やっぱり神様はいるんだ」と
お思いになることがありますか。」
江口「僕は、科学者にある種の信仰がなくなったら耐えられんと思っています。
さっきもお話したように、僕らがやっていることはプロセスを
つまびらかにすることであって、真理なんて絶対明らかにできないと思っている。
プロセスを明らかにしていっても、それは事実であって真理ではない。
プロセスをずっと突き詰めていってもいきつくところは要素というか、
モノの存在ですね。だから僕は真理が解けるなんて、
傲慢なことは思っていないです。」

「驚異の小宇宙・人体・生命誕生」より

もともと科学技術の発展の歴史の中では、それが神の存在を否定するような
類のものではなかった。むしろ神の創ったこの世界の謎を解明したいという、
好奇心的な関心が原動力になっていた。
微生物の発生に関して、牧師と牧師が激しく論争していたりした時代もあったくらいだ。

むろん歴史的には科学技術による解明が、神の権威や聖書の言及を
否定することにつながると、異端裁判などが行われたこともある。
天動説を否定する書を発行したということで、ガリレオが裁判にかけられて、
それ以降350年にもわたり、その名誉が回復されなかったということもある。

それらの不幸な出来事を差し引いても、科学的な実験や検証により、
なぜおおもとの存在の否定になるのか、科学と宗教とが、なぜ二律背反のように
両立しないと捉えられるのか不思議なことだ。
科学主義というひとつの信仰になっていて、領域を超えて原初の存在の否定を
行うなどは行き過ぎであろう。
プロセスを明らかにするという科学技術的な姿勢には、節度というものがある。


(SNS日記より 2016年10月6日)
nice!(0)  コメント(0) 

nice! 0

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。