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仏教はネクラ? [仏教]

ある方が、仏教は暗いからイヤだというようなことを
口にされていた。そういわれてみると、たしかに抹香臭い
ところや古ぼけた寺院のたたずまいなど、その印象は
うなづける。

また、やたら死とか病気とか言うんだよね、という意見もある。
ほんとうに嫌がられている理由は、この死のことをあからさまに
語る部分なのかもしれない。

著名な宗教学者の友松圓諦氏の著書に、こんな記述がある。
総体的な話で、キリスト教などの西欧の宗教は、
生命の生誕や強さを礼賛するところがある。
したがって、誕生日とか結婚記念日とかの「始まり」を
祝う習慣は、西欧流の考え方である。
もともと日本では盛んではなかったということだ。

また反面、死を忌み嫌っている気配がある。
そればかりか死者はいずれよみがえるということで、
火葬にしないというようなことも行われている。
死後の世界、霊魂不滅などのこと語るに熱心なのも、
ある意味で現世の継続を望んでいる傾向なのだろう。

友松圓諦氏が海外に滞在したとき、宿泊先の老婆に、
あなたの国の宗教はどのようなものかと問われた。
そこで仏教の話をし、死の問題に触れると、
とたんに顔色が変わり、耳をふさいで、
どうかその話はやめてほしい、
死の話をしないでほしいと懇願された。

生の明るい部分に光を当てて生きている感じがあるのだよね。
確かにドイツを旅したとき、片田舎の教会の中が、
とても優美で豪華、息を呑むほど美しく装飾されていた。
線香くさい古い寺院の中とは正反対だ。

死の世界を見ないように感じないように生きるその姿勢は、
光ばかりを求めて暗がりや陰を恐れるという
傾向につながる。その観点から眺めれば、
仏教はまさに暗く気持ち悪く、
まさに魔教のような趣に見えるのだろう。

生命が尽きてしまうことに疑念の余地はない。
だから霊魂不滅であり、来世は天国に行き、
そこで明るく楽しく永遠のいのちを得るのだという
信仰が自然と形成されていったという見方もありうる。

仏教そのものが暗いのではなく、暗いと感じさせるのは、
死を暗く忌むべきものとする死生観から導かれている。
仏教はこの問題を真正面から捉えているので、
暗い死生観と同一視されてしまうのではないかな。

友松圓諦氏の著書から引用されていただく。

『釈尊がお亡くなりになりますひと月ばかり前に
毘舎離という町に行かれましたが、さてこの町の
門を出ようとされたとき、体を右にめぐらせて、
毘舎離をもういっぺん見返られた。そうして、
 「美しいかな毘舎離の町よ、
  美しいかな毘舎離の土地よ」
と自然を謳歌されたということがお経に書いてありますが、
釈尊の境地においても、人間に起こる自然の気持、
生きるよろこび、そういった気持ちはおたがいによくわかることです。』

      『法句経講義』 p.87 より


(2016-04-23 SNS日記より)

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真実の言葉は短くて平易 (自分のためのメモ) [人生]

真実をついた言葉は、短くそして平易だと思う。
人間は、難しく考えたい性向があるので、
ことさら人生のことを小難しく複雑にしてしまう。

仔犬が産まれ、無邪気にあそび、生きていることを
ぞんぶんに味わい、やがて老衰して死を迎える。
人間もまったくそれと同じなのだけれど、とかく
知性だ、知識だ、勉強だ、成功だ、失敗だと、
人生のほんとうの姿を見えにくくしてしまう。

「人身受けがたし、すでに受く」という三帰依文は、
これまでいろいろと出合った言葉の中で、
真実をついた短い文章として、
つねづね思い浮かべる。
(このあと、仏法聞き難し、いますでに聞く。と続く)

お経にも同様な言葉がある。

「人の生を受くるは難く
死すべきものの 生命あるもありがたし
正法を耳にするは難く
諸仏の出現もありがたし」    法句経182

言葉は平易でシンプル。
しかしこの意味を体得するのは難しい。
言葉を頭で理解するならば、小学生でも出来るだろう。

しかしその意味を体得するには、
たぶんつらい思いや死ぬほどの思いを重ねないと
わかってこないだろうと思う。
そこには人生の深い体験が裏にあるからだ。

禅者がわかったと叫ぶとき、
なんだこんな単純なことだったのか!
とつぶやく話。
臨済がまだ修行中であったとき、
師の黄檗にさんざん小突かれて(可愛がられて)、
絶望した臨済は大愚のところへいく。
大愚との問答で、臨済はほんとうのところを体得して、
なんだそんなことだったのか!と叫んだ。

言葉を百万回聴いても理解できず、
ある契機で、自身の体験として体に染み入る。
わかった内容は、言葉にすれば単純すぎるくらいな
ものだろう。

「人身受けがたし、すでに受く」という言葉は、
ボクにとって、いくら汲み尽くそうとしても
汲みつくせない。
この言葉さえあればいいと思うくらい、
根源的な人生の言葉である。

(2016-04-21 SNS日記より)

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あの世に関する討議を経て [死]

昨日は、宗教に関するテーマを勉強する小さな集まりで、
トークをさせてもらった。これで2回目のトーク。

この集まりでは、おもに生死観やあの世に関する話題が多いのだが、自分の生命観、生死に関する考え方を披露させてもらった。

トークのあとの討議において、主催者のH先生から、質問と討議が行われた。H先生は、臨死体験や生まれ変わりなどの事象について長年調査をされており、あの世はあるのだという立場に立たれている。質問と討議は、とうぜんこの部分に関することがらだった。

質問のひとつは、わたくし(OASIM)が、死後の世界があると考えているかという点。答えは、明確ではないことがらなので在るとも無いとも言えないという回答。また死後の世界への関心は、ほぼまったく持ち合わせていない。

逆に当方からの質問。
あの世が在るか無いかは、おそらく決着がなかなかつかないと想定される。科学的な証明という土俵に、上ることは無いだろうと考えている。H先生はどのような動機で、それを調査されているのかという問いかけ。

大別すると、純粋に学問的な関心から臨死体験を調べるスタンスと、もう一つは、宗教的な観点から、死んだらどうなるのだろうかという不安や心配から調査する観点があると思うが・・・。

するとH先生は、学問的な手法でこの問題を調査しているものの、ようするに死んだらどうなるかに関して疑問を持っているとのこと。

あの世があると考える方が、この世で安心して生きて、死んでいける。あの世が無いとすると、この世の出来事(善行や悪行)は継承されず、あの世における審判のようなものが無いことになる。

卑近な言い方をすれば、やりたい放題に悪を重ねても、だれも罰せられないこととなり、マジメにやってきた人は損をする。やりたい放題の人間は得をする感覚がある。

つまりあの世を想定することで、死の不安や心配をぬぐうことができるし、この世の秩序をたもつ効果をもたらすという考え方であった。

そこでさらに質問。
その得をするのは、何に対してなのか。まじめに生きて、やりたいことも我慢したのに、やりたい放題でもよかったのにという後悔があるからでしょうか。

また、やりたい放題の悪行を重ねて、思い切り自我の欲するままに周囲の非難や迷惑、影響を考えずに生きてきた人間の最期は、どのような心境ですか。人生やりたいことやって、ああ、よかったと感じますでしょうか。

またもう一人の人間がいて、自身は貧困であっても、ひとのために尽力し、陰徳を積むような生き方をしてきた人の最期の心境は、どのようだと思われるでしょうか。
さらに、やりたい放題だった人の末期の心境と、徳を積んできた人の心境と、どちらが優れていると考えられますか。

この最後の質問に対しては明解な答えは得られず、別の話題に移った。

******

ボクは思う。
あの世で最後の審判や、閻魔大王が待っていて、
この世の善行、悪行に関して裁かれるので、この世を清く正しく生きるという考えは、刑法とおなじで刑罰への恐怖心が犯罪の抑止力になるという考え方とおなじである。
だからあの世が無かったとすれば、やりたい放題した方が、得だということになる。

この考え方は、自我を満足させればさせるほど、得をして満足であるという人生観に立っている。つまり自我の満足度で人生の充足度が決まるという考えである。

あの世の有無の議論をしているけれど、ようするに現世の生き方(自我の満足)の価値観の問題に帰着している。

しかし、死を前にしたとき、自我のやりたい放題が最大級のレベルで否定されるわけだが、この点はどう折り合いをつけるのであろう・・・

仮に、死ななければならない存在であると認めるにしても、あの世がある方が安心だということは、この我はあの世まで存続できることになるからなのだろうか。

あの世があると推定するのは、この世の安心を優先して、あの世を考えているということになるだろう。
この世での願望がもとになって、あの世が存在している方がいい、だから在るのだという議論になる。

この討議で、結論らしい結論はでていない。
先生の考えておられる道筋は、よくわかった気がする。

(2016-04-17 SNS日記より)

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与えられていることを実感できない愚 (自分のためのメモ) [宗教]

あるひとと昼間会話したことがらを思い出して、
寝る前に布団のなかで、つらつら考えた。

ボクたちはわがままで、なおかつ恩知らずなので、
与えられていることへの感謝の気持ちを
ほとんど持つことができない。

暖かな布団に包まれて、無事に就寝できるのに、
そのことの恵みを思い起こすことは、まったくない。

そのくらい、強欲でガリガリ亡者なのだと思う。
これはほとんど誰でもそうなのであるけれど、
人のことを言いつのってもしかたない。

いま暖かな布団に包まれているけれど、
この布団が剥がれたら、寒いだろうな。

いま息をしているけれど、急に誰かに口を塞がれたら、
苦しいだろうな。

心筋梗塞でとつぜん胸が苦しくなって、
もがき苦しむことになったらつらいな。

水の中に首を突っ込むようなことになったら、
息苦しくてもがくだろうな。

バスに乗ってスキーツアーに行って、寝ている間に
車体に押しつぶされたら苦しいだろうな。

誰かに憎まれて包丁で腹や胸を刺されたら、
さぞ痛いだろうな。

こんな想像は勝手に作ったものではない。
夜中に津波に押し流されてしまった人たち、
とつぜんの発病で病院に担ぎ込まれる人たち、
交通事故にあって亡くなった方、
事件に巻き込まれて怪我をされた人たち、
これは日々新聞の紙面を騒がしているできごとだ。

いまこうして生きていられるのは、「たまたま」で、
自分の努力の賜物であるとは言えない。
自分がどんな思いでいようが、それとは関係なく、
事態は襲ってくるのだから、自分の手柄とは言えない。
誇るものはなにもない。

ただただ、波間に揺られ天候に翻弄されている
ちっぽけな小舟みたいなもので、
どこへ流されていくやらそんな予想もつかない。
ひとたび海の時化にあえば、あっけなく沈んでしまう。

周囲で起きているできごとは、他人事なので、
痛痒も感じないのだけれど、自分の身に起きれば、
大騒ぎするのは目に見えている。

しかし他人事で見ていられるのは、
たまたま自分の身に起きなかったから。
ああ、よかった、自分でなくて・・・

そして想像はさらに続く。
誰かに首を絞められて死ぬ思いをした。
でもさいわい逃れることが出来た。
ああ、よかった!

水に溺れそうになって死ぬ苦しみを味わった。
でも幸運にも水から浮き上がることが出来た。
ああ、よかった!

正面衝突しそうになって、あやうく難を逃れ
回避できた。
ああ、よかった!

こんなふうに苦難や災害にあえば苦しみ悩むのに、
いまはそうでない。
ああ、よかった!

ボクは思う。
この「ああ、よかった!」という瞬間瞬間が、
いまずっと、絶えることなく与えられている。
休みなく祝福された恵みなのだなと。
恩知らずのボクたちは、いつも
ああ、よかった!という気持ちを忘れ、
いつも当たり前ですごしているのだなと。

(2016-04-14 SNS日記より)

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悟りについて (自分のためのメモ) [禅]

ひとから悟りとは何なのですかと問われることがある。
ずばり、あなたは悟ったのですかと訊かれることもある。

悟りを言葉で説明するのは難しいです、と答える。
それに自分は悟りなんか得ていないし。

でも悟りにあこがれる気持ちはよくわかる。
若い頃よりその悟りに憧れ、禅の書などを
あれこれと読み、その心境の秘密を探ろうとしてきた。

ここに良寛さんの文章がある。
ちょっと長いが引用してみる。

「もし人が自分の力で悟り終われば、
釈迦は何も述べる必要がない。
そこで執着から離れることのできる人は、
仏教の中心の意味を理解し、
すぐに悟りうる人になる。
しかし執着から逃れられない人は、
ことさら執着にしばられて自由が奪われ、
経文の言葉にこだわりその言葉が
道に遠いか近いかを勝ってにきめ、
さらには他の人の解説書に没頭して、
日夜心をすりへらしている。
悟りを得ようとすれば、
かえってその悟りにとらわれて迷い、
迷いをよく理解すれば、
迷いはかえって悟りになる。」

 良寛 『草堂集』 七九

これはとっても明快な説明だ。
悟りへの執着にとらわれてしまうことへの警告である。
悟りを強く求めるほど、迷いになるよと言っている。
その迷っている自分のこころの状態が、
すとんと自覚できたときに悟ったと言われる。

おなじことがらを、道元禅師も簡潔な詩的言葉で
述べている。

「迷を大悟するは諸仏なり、
悟に大迷なるは衆生なり。
(迷いを迷いと知るのが悟った人であり、
悟りに執するのが悟っていない人である。)」

  道元 『正法眼蔵』 現成公案

ドイツ人僧侶のネルケ無方さんも、
こんなことを書いておられる。

「松陰の 暗きは月の 光かな」
これは道元禅師のものではなくて、浄土真宗で
よく詠まれる句だそうですが、迷いと悟りの関係を
まさによく表現しています。
松陰、それはわたしの暗い部分でしょう。
月という悟りに照らされてこそ、
この陰が見えてくるのです。
月が明るくないときは、
自分の欠点もぼんやりしてしまいますが、
悟れば悟るほど、自からの迷いがはっきりしてきます。

 ネルケ無方 『読むだけ禅修業』

悟りの量が増えるほど、迷いの量が減り、
理想の修行が成し遂げられる、
と言うのではないと否定されている。
悟りと迷いは、正反対の概念ではないよ、
ということだ。

迷いが深いほど悟りも明快であるという
悟りと迷いはセットになっていると言うことである。

このことは有名な親鸞さんの言葉、

「善人なおもつて往生をとぐ、
いはんや悪人をや」

の真意とぴったりだ。
おのれの悪人ぶりを深く自覚すればするほど救われる。
自分を善人であると自負する者ですら
(迷いのない人間だと誇るものですら)
最終的には救われているのだから。

この逆説的な関係に執着すると、
これがまた迷いのもとなのであるけれどね・・・

良寛さんの言葉にこんなものがあり、
これは実に平易な言葉だ。
しかし易しくはない。

「たとえ、万巻の書を読んだとしても、
悟りにつながるひとつの言葉を保つことに
かなうものはない。
では悟りに至る言葉とは何かと尋ねられたら、
ありのままに自分自身の心を知ることだと
答えたい。」

  良寛 『全詩集』 四三六

(2016-04-08 SNS日記より)

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仏教詩人の語った言葉 (自分のためのメモ) [浄土真宗]

仏教詩人というジャンルが、確立されているのか、
わからないが、おもに他力本願、つまり念仏道の境地から
詩を書かれる方は多い。
(ちなみに禅のお坊さんが、詩や文学を通じて、
境地を表現するという例は、近年あまり聞かない。)

詩人たちの言葉から、到達した境地をうかがい
知ることができたり、そうなのかと教えていただくことも
ある。

浅田正作さんのことは、ほとんど詳しいことは
知らないのだが、ある書に詩が引用されていて、
とても惹かれた。

========================================

 回心
       浅田正作

自分が可愛い
ただそれだけのことで
生きていた

それが 深い悲しみとなったとき
ちがった世界が
ひらけて来た

========================================

前半の自分が可愛いだけの世界は、
畢竟、地獄へ通じる道であるだろうと思う。

それがあるとき、おのれの浅ましい姿が
照らし出され、その姿に悲しみと絶望を覚えるとき、
さらに深いほんとうのことがらが見えてくる。

深い悲しみを覚えるとき、それは自分可愛いという
世界の延長線上にある気持ちではない。
その気持ちがどこからやってくるのか・・・
それが了解されてくる。


榎本栄一さんの詩から。

========================================

だいじな地獄
              榎本栄一

地獄へおちるたび
私のこころの眼が
すこしひらくようで
ほんに地獄は
私の だいじなところ

========================================

自分にとって地獄は一定すみかである、
という親鸞さんの言葉を髣髴とさせる。

地獄がなければ救いは生まれないので、
とてもだいじなことなのだという。
落ちるたびに、自分の至らなさやさもしさや
浅ましさがわかってくる。
と同時にまことに不思議なことだが、
救いが実行されていることがより確信されてくる。

(2016-04-07 SNS日記より)

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「どうでもよいのです」 (自分のためのメモ) [浄土真宗]

親鸞聖人の言葉を伝えるとされている歎異抄。
この中で第二条が、ボクはいちばん気になる。
解説書を見るときにも、この第二条がどのように
解釈され解説されているのか、真っ先に読む。

「念仏がほんとうに浄土に生まれる道なのか、
それとも地獄へおちる行いなのか、わたしは知らない。
そのようなことはわたしにとってはどうでもよいのです。」
    歎異抄 五木寛之 私訳本より

これは京都にいる親鸞のところへはるばる関東から
やってきた信徒たちが、浄土真宗の信仰の要諦を
訊いたときに、親鸞がこたえた言葉とされている。

いちおう念のためだが、浄土真宗は念仏を称えることで
誰でも救われるのだという教えである。
それがその開祖である親鸞が、念仏によって
浄土へ行けるのか、それとも地獄へ落ちるのか、
そんなことは知らない、とにべも無く言う。

この矛盾に満ちた言葉をどう受け取るべきなのか、
さぞかし言われた信徒たちも面食らったことだろうと
想像される。

歎異抄の解説書には、この部分に関して、
いろいろな言い方がされているのだが、
ボクは感覚的にあまりしっくりこなかった。

上の訳文は、五木寛之さんによるもので、
この解釈がボクは好きだし、感覚的にはぴったりくる。

じつは原文には、「そのようなことはわたしにとって
どうでもよい」という文章は無い。
しかし五木さんが補った文章が、ことの本質を
ズバリ言い当てているように思う。

信徒たちの心のうちには、このような疑問が
渦巻いていたのではないだろうか、
念仏というスーパー免罪符のようなものを手に
入れることで、地獄に落ちなくてすみますか?
念仏により救われますか?

つまり何らかの自分の努力や研鑽を積むことで、
救いはやってくるのでしょうか?
キリストの復活を信ずることで
天国にいけますか?
生贄をささげることで救われますか?
お金を寄付することで救われますか?
善人になれますか?

ぜんぶ同じことなのだ。
おなじ構造の質問なのだ。
なにか自分が行いをすることで、
救われるでしょうか?

わかりやすく言ってしまえば、
これは神と取引をしているだけなのだ。

何ごとか善いとされていることを行えば、救いをあげよう。
何らかの対価を支払えば、救いが貰えるだろう。
いわゆる免罪符を買う行為、売買そのものなのだ。

救われないならば、念仏などしない。
生贄も寄付も無駄だ。
そう言っているのも同じことになる。
傲慢な自我の呟き、神と対等な立場で
ものを言っている呟きが聞こえてくる。
(その自分とはいかほどのものなのか)

親鸞は、念仏はそんな道具では無いぞ、
信仰の核心から遠く離れた訊き方だぞと
怒ったのであろう。

念仏が役に立つか立たないか、
そんなこと知ったことか。
そんなことを聞くのならば、お前たちの
念仏とやらを奪ってやろう・・・

念仏を浄土に行く道具にするとかしないとか、
そんな議論はどうでもよい。
所詮、その頭の中には救いは生まれない。
そんなお叱りの声が聞こえてくる気がする。

しみじみと救いが信じられるとき、
イエスによる救いが信じられてくるとき、
それが救いであると思う。
救われても救われなくても、自分にはどちらでもいい、
そう思えるときが救いであると思う。
言葉として矛盾しているのだが、
自分を運んで救いを取ってくるのではない、
と言うことなのだが・・・

(2016-04-03 SNS日記より)

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出口無し (自分のためのメモ) [宗教]

「煩悩をなくそう、いや、なくなるはずだとする道徳の道は、
人間に対する理解が甘いといわなければなりません。
それは自分の体を持ち上げようとするようなもので、
人間に不可能を強いることではないでしょうか。」

    竹下哲『いのちに出会う旅』より

ここに述べられたことが、道徳と宗教を分かつ分岐点
になっているように思える。

道徳は、善というものを想定し、その善なるものに
近づこうと努力する。この前提になっているのは、
善とは何かが自分はわかっているという思いと、
自分の力で善に近づき、善になりうるという思いだ。

煩悩という側面から言うならば、自らの力で煩悩は
克服できると信じているということだ。
竹下さんは、それは人間には不可能、
きっぱりとノーだという。

こんなことが起きてくる。
煩悩を克服できたという思いが、また新たな煩悩を生み出す。
自分はそれを達成したという自認の気持ちが、
いまだ達成していない(哀れな)人々への差別意識を生む。
驕りと差別を生む元となるのだ。

これは禅でいう悟りについても同様だ。
悟ったという自認の気持ちが高慢を生み、
その人を天狗にしてしまう。
そして野孤禅に堕していくのだ。
若き白隠禅師も悟ったと鼻高々になってしまったが、
やがて正受老人に嫌というほど鼻をへし折られる。

自分の努力で、自分がえらくなった、
オレはこんなに努力してすばらしい人間になった、
という思いが、異臭を放つのである。
鼻持ちならない人物、いわゆる臭みのある人物となる。
口には美しい言葉を語るが、
こころの中は高慢と差別感に満ちている。

その根本は、自分の認識と努力を頼んでいる
という点にある。人間の認識と努力など
たかが知れているのに、
それを絶対だと自ら誇っている思いが臭うのだ。

少しはましになったかなという思いは、
自慢していいかなといっているに等しい。
こう考えていくと、自力の努力には出口が無い。
前進したという思いが、後退していることでもある。
ましになったのか、悪くなったのかわからない。
まさに助けてくれ、と叫ぶところだ。

親鸞聖人は若くしてこの絶望に陥ったと思われる。
いや己の欺瞞のこころに気づいてしまったのだ。
もはや救いなしの状況にいることが、
誤魔化しようもなくわかってしまった。
そして高野山を下山したと言われている。

(2016-04-02 SNS日記より)

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人は自分の力だけで・・・ (自分のためもメモ) [人生]

「人は自分の力だけで生きていると思って、
いばっているものです。」
 竹下哲『いのちに出会う旅』

また自分の力でなんでも出来てしまうと、
思っているフシもある。

衣食が足りて、あとは自分の生きがいだの、
ここちよい言葉や考え方を仕込んでいる。

キーワードは、ここちよさ。
快感、いやしなどだ。

こんなことをしているうちに
人生の真実がどんどんと見えなくなってくる。

自分の体の心臓や肺や腸なども、
「自分の」臓器であると思っている。

ほんとうはまるで逆なのだが・・・

心臓や肺や腸が、支えてくれているのが
自分と呼んでいるあいまいなものなのだ。
自分の力で、内臓を作り人体を作ったのだろうか。

「あの世」への過度の依存も、
この世のここちよさを、死んでも放したくないという
欲だろう。

死後のことまであれこれと要求を突きつけるのだ。
ここに極まれり。

(2016-03-31 SNS日記より)

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断想 (自分のためのメモ) [いのち]

ある日、天から一枚の請求書が舞おりてきた。
あなたの生命はあとXX日と、締め日が近づきました。
ついてはこれまであなたの吸ってきた
空気代(酸素料金)を概算請求いたします。

みると、
あなたの呼吸量一日3m3、
1年で1,095m3、60年で65,7000m3
空気代金は、1Lあたり1円。
したがって、請求金額は6,570万となります。
至急お支払いください。

翌日には、別の請求書がひらひらと
舞おりてきた。こんどは日照代とある。
こちらは、8,540万円。

こんなことになって困る。
こんな請求書が次々とやってくるのだろうか。

でも少なくとも食べてきた食料代は
自前で払ってきた。
これまで食べた豚、牛、鳥、
お米にキャベツなどの野菜代。

でも良く考えたら食料代は、
牛を捕まえて「お肉」にして売ってくれた人に
払った。肉になってくれた牛に
支払ったわけではなかった。

牛を捕まえた人は、牛の代金を牛に払っていなかった。
それを肉にする人に、売ってお金を得た。
いわばいのちを奪ってきて自分のものとみなして、
それをお金に換えた。

牛のお肉を食べた自分は、
売ってくれた人にお金は払ったけれど、
やはり牛には払ったことはなかった。
ただモクモクと肉になってくれた牛は
何にももらっていない。

人生を締めくくるに当たり、
今度、牛からの清算書が舞いおりてきたら、
どれだけの請求額になるのだろう。


(2016-03-27 SNS日記より)

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