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歎異抄を学ぶ [浄土真宗]

南信の山間の小さな集落にある介護施設の広間で、ほそぼそと続けられてきた
「生と死を考える会」。おもに宗教に関係した教えを学んだり、
死の問題などを調べ語り合うという趣旨の会であるが、
今年7月にこの会の主催者であり代表者であったH先生が急逝された。

8月の集まりは先生を偲ぶ話し合いとなったが、また今後の会の運営について
話し合いを持った。その結果、代表者は自分(saborich)が引き継ぎ、
今後も活動を継続していくことでメンバーの意思がまとまった。
会の名称も「阿吽の会」と改称した。

そこでメンバーの方から、浄土真宗の代表的な文献である歎異抄を、
深く学びたいという希望が出てきたので、歎異抄の朗読会と討議や話し合いを
当面の方針とすることとした。大まかな目安としては、毎月、歎異抄の一つの条を
輪読し話し合うということにした。

参加者は、それぞれ様々な人生を経験された方々だが、宗教の本質とは何かという
熱い探究心を持たれた方たちだ。歎異抄を読みながら、
ついそれぞれの経験や思いを披露するような進行になってしまうが、
それがまた貴重に感じている。

この会のなかで話し合われたことがらや出てきた問題点、疑問点、
それに対する考えなどの内容を、ささやかながら記録しておきたい。

++++++++++++++++++++++++++++++++

前回の8月の話題で、こんなことを冒頭お話した。
歎異抄の第一条には歎異抄全体を貫く考え方がまとまって出てきていて、
重要な序章であると思う。ある意味で、この冒頭部分が理解できるならば
浄土真宗のエッセンスがわかると言っていいだろう。
それがひいては宗教の本質につながるものと信じている、というような内容だ。

さて、この第一条であるが、現在主流の解釈の仕方に、自分はどうも引っかかるところを
感じていて、素直に文章が入ってこない。それを少し記しておきたい。

第一条の書き出しの一文は、次の通りである。
「弥陀の誓願不思議にたすけられまいらせて、往生をばとぐるなりと信じて、
念仏もうさんとおもいたつこころのおこるとき、
すなわち摂取不捨の利益にあずけしめたまうなり。」

意味の概略は、阿弥陀如来の誓願(みなを救うぞとの誓願)の不思議な働きによって、
われわれが救われると信じて、念仏を称えようと思う気持ちが起こるときに、
救いの瞬間がやってくる、といういう言明だ。
たいていの解説書には、このような現代語訳が出ていると思う。
本願寺出版の歎異抄の訳文もだいたいこのようなことがらが書かれている。

異を唱えるわけではないが、誓願により救われると信じられて、
その結果念仏を称えるという行為が起きる順番になっている。
どうも自分はこの順番が本当のように思われないこと、
それに弥陀の誓願が信じることにより、という言葉に引っかかりを覚えてしまう。

たいていの訳文は以上のとおりで、梅原猛氏の訳もこの路線だし、
五木寛之氏の私訳では、「その大きな願いにみをゆだねるとき」となっている。

いっぽう次のような訳文があり、自分の思いとぴったりすると感じている。

「阿弥陀如来の誓願の不思議な働きにたすけられて必ず浄土に生まれる人生を、
自分は今現に生きていたのだと気付いて、念仏を称えようと思い立つ心が起きた時、
その瞬間に、阿弥陀如来の、すべての存在を摂め取ってすてない利益を
いただくのであります。」
    池田勇諦、中西智海監修
   『傍訳 原典で知る 歎異抄・正信偈・和讃』

ここには信じるという言葉が出てこない。そのかわり救われている現在に
気づく時となっている。信じるというこちら側の何らかの行為によって、
救いの扉が開く、ということではないということである。
その反対は、信じなければ救われないよ、という意味になってしまう。
これは変だ。
信仰は自分が救われてあることの発見、気付きのはずである。
こちらの前提や条件のことを論議する前にそうなのだ。

また山崎龍明氏が、このように自分は理解していますと語る文章も、
素晴らしいと思う。
曰く、
「幸せとは地位、教養、財産、健康などにあると思っていた私ですが、
自分が考えもしなかったアミダ仏の法に触れてみると、
まったくそれが誤りであるという世界が開かれてきました。
この教えにしかとうなづき、感謝の念仏をしようと思いたったとき、
もうすでにアミダ仏の大いなる世界に生かされている(救い)ことに
気づいたのです。」

    山崎龍明著『歎異抄を生きる』より

なお念仏とは本来、呪文のように称えるものではなくて、
自分を生かしめている大いなる存在への気付きと感謝の意を表すものである。


(SNS日記より 2016年9月26日)
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ここまでくるとアホなのだ (自分のためのメモ) [浄土真宗]

因幡の源左が、日々生活の場面で見せた行動には、
常人ではうかがい知れない奇行が多い。
常識的な見地からは、なんとアホくさい奴とか、
バカバカしい念仏者とか、そのような印象を受ける。

妙好人というのは、泥臭くて、知性が感じられなくて、
念仏ばっかり称えているアホのように見えるのだ。
まったく現代的でなく、いまの時代に賞賛を浴びるような
そんな人たちではないのだ。

源左が草取りに田んぼに出かけていたら、突然夕立が
やってきた。
雨具を持っていなかったため、源左は、
ずぶぬれになってとぼとぼ帰ってきた。

その帰り道に、お寺の住職にいきあって、
「爺さん、よう濡れたのう」
と声をかけられた。すると源左は、
「ありがとうござんす、ご院家さん。
鼻が下を向いとるでありがたいぞなあ」
と言って雨の中を帰っていった。

鼻の穴が下を向いているので、雨が入らなくて
よかった。上を向いていたら雨が鼻から入って
息が出来なくなるところだった、ということらしかった。

ふつうわれわれは、なんて雨だ、突然降り出して、
すっかりずぶ濡れになっちまった、と怒りの心境で
帰り道を急いだのではなかっただろうか。

まして、住職に声をかけられたら、
「まったく!すっかり濡れてしまって、
えらい目にあった」
とぼやくのではなかろうか。

では源左は雨にずぶ濡れになったことを、
どう受け止めたのだろう。

想像するに、
雨が降れば濡れてしまう。
雨具を持っていなければ、濡れて帰るしかない。
ああ、雨がよう降るなあ・・・
と「事実を事実としてただ受け取った」
のではなかったろうか。

ボクたち凡人は、いつも心の中で、こうしたい、
こうなりたい、こんなことはイヤだというつぶやきを
繰り返している。自分の欲望を核にして、この世の
出来事を眺め、怒り、嘆き、悲しんで生きている。

意識していなくても、このようなつぶやきの中で
暮らしている。たまたま、雨に濡れてしまう事態に
遭遇して、そのつぶやきが意識に昇ってきて、
くそっ!と怒りの感情になるのだ。

雨が降らなくて日照りが続けば、農家の人は、
雨がふれふれと思っているから、雨を喜ぶ。

ボクたちの日常は、こんなことを飽きずに
ずっと(おそらく死ぬまで)繰り返している。
自我の欲望と、食い違いを見せる現実の
ハザマでいつもあれこれを思い悩んでいる。
そして、思い悩んでいるこころが生まれる構造に、
一生思い至ることはない。
道理に暗いということなんだ、残念だけれど。

事実を事実としてそのまま受け入れて、
鼻の穴が下を向いていて雨が入らなくて
よかったなあ・・・
今日も田んぼの草取りが出来てよかったなあ・・・
とぼとぼ歩いて帰れる足が健康でよかったなあ・・・
今日も息が出来てよかったなあ・・・

おそらく源左のこころのうちはこんな風だったのだろう。
アホの境地なのだろう。

(2016-04-30 SNS日記より)

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仏教詩人の語った言葉 (自分のためのメモ) [浄土真宗]

仏教詩人というジャンルが、確立されているのか、
わからないが、おもに他力本願、つまり念仏道の境地から
詩を書かれる方は多い。
(ちなみに禅のお坊さんが、詩や文学を通じて、
境地を表現するという例は、近年あまり聞かない。)

詩人たちの言葉から、到達した境地をうかがい
知ることができたり、そうなのかと教えていただくことも
ある。

浅田正作さんのことは、ほとんど詳しいことは
知らないのだが、ある書に詩が引用されていて、
とても惹かれた。

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 回心
       浅田正作

自分が可愛い
ただそれだけのことで
生きていた

それが 深い悲しみとなったとき
ちがった世界が
ひらけて来た

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前半の自分が可愛いだけの世界は、
畢竟、地獄へ通じる道であるだろうと思う。

それがあるとき、おのれの浅ましい姿が
照らし出され、その姿に悲しみと絶望を覚えるとき、
さらに深いほんとうのことがらが見えてくる。

深い悲しみを覚えるとき、それは自分可愛いという
世界の延長線上にある気持ちではない。
その気持ちがどこからやってくるのか・・・
それが了解されてくる。


榎本栄一さんの詩から。

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だいじな地獄
              榎本栄一

地獄へおちるたび
私のこころの眼が
すこしひらくようで
ほんに地獄は
私の だいじなところ

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自分にとって地獄は一定すみかである、
という親鸞さんの言葉を髣髴とさせる。

地獄がなければ救いは生まれないので、
とてもだいじなことなのだという。
落ちるたびに、自分の至らなさやさもしさや
浅ましさがわかってくる。
と同時にまことに不思議なことだが、
救いが実行されていることがより確信されてくる。

(2016-04-07 SNS日記より)

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