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夜にうつらうつらと想う [思想]

夜、書斎に上がって、本を読むでもなく、何かをするでもなく、
ただ何時間も何ごとかを考え詰めている、という時間を過ごすことが多い。

先程から、どこかの本で読んだ文章が気になって、
ふたたびその文章を読みたいと思うのだが、
どの本であったか思い出そうとしても出典がわからない。

うろ覚えの文章とは、こんな内容だった。
ハイデッガー(ドイツの哲学者)が、死を前にしてか不明だが、
禅仏教のことを知り、とても残念がって、もし若い頃に禅を知っていれば
自分の哲学はかなり変わっていたことだろう。
そんな述懐が記されていたのだ。

若いころに、ハイデッガーを理解しようとして苦闘した記憶がある。
当時、キルケゴールという哲学者の著作をかなり読んでいて、
ハイデッガーはその後継者とみなされていたので、どのような
つながりがあるのだろうという関心があった。
それにハイデッガーの主著『存在と時間』があるが、
哲学の根本問題に真正面に取り組む姿勢が魅惑的だった。

しかしハイデッガーの著作には、ドイツ語ならではの造語に似た
新しい用語が使われていて、ドイツ語で読まないと本来の意味が
見出せないことがなんとなく感じられて、理解を断念してしまった。

思い出せないある本の文章によると、実存哲学の最後の巨人と
言われているハイデッガーが、禅で述べている哲学と言うか思想に
収束しようとするものを直感したとするならば、
ハイデッガーが追い求めたものは、意外に自分にとっても親しみやすいもの
だったのかもしれないと思えてくる。

ハイデッガーの試みはこうだ。
存在というものの秘密を解く鍵は、人間にある。
そこで人間存在の本質を追求することで、存在の秘密が明らかになる。
「ある」ということはなにを意味するのか、
その通路として人間の在り方を調べていくという手法なのだ。

では人間の存在とはなにか。それを端的に表現する言葉として、
「現存在」といういい方をするのだが、まあ実存という言い方の方が親しみやすい。
そして現存在の本質とは何かと問うわけなのだけれど、
ハイデッガーは、投げられた存在なのだという。
この投げられた存在という言葉が、若い頃はどのような背景から
出てくるのかわからなかった。

しかし今思えばそれは、人間は「自分の力で」生きている存在ではなく、
「なにものかにより」生かされていることだ、という意味ではなかったかと気づく。
もちろん人間は、おのれの将来を決めるべく将来像を作って
それに向かって努力するということがあるだろう。
しかしなんといっても人間の存在の始まりは、投げ出された存在、
気がついたらそこにあった、という存在形態なのではないか。

主著『存在と時間』は完成を見ないまま、前半部分で終わっていて、
後半に当たる部分は、講演会などで語られているようだ。
禅を知っていればといった後悔の念というのは、
この語りの中に出てきたものかもしれない。

自分という存在が投げ出されたものと規定するのならば、
その投げ出したものは何か、投げ出される場所とな何かと
問われないければならない。
それはまさに禅が追求していく自分自身というものと
無縁ではありえないと思われる。


(SNS日記より 2016年8月29日)
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