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問題を、問題視するとき (自分のためのメモ) [禅]

人生において、問題は次々と起きるものだ、
という言い方をする。それで判った気になる。
しかし問題とは、いったい何だろうか。
どのような構造を持っているのだろう。

問題を問題視するときに、そこで問題が発生する。
つまり、これは問題だ!と叫んだときに、
問題が生まれるのだ。

どういうことかというと、
問題は問題を作る人がいる、
問題視する人がいる、
その人がいなければ、何も起こらない、
とういことなのだ。

つぎつぎと問題が起きるというとき、
つぎつぎと問題視する人がいるということだ。

問題に客観性はない。
人に依存しているから普遍性はない。
たいていは大多数の人が問題だと言っているから
問題とされるだけだ。

人生の実体はなんら変わることは無い。
ただ頭の中で問題だと叫んでいるということである。
問題と感じない人には、そもそも何も起きていない。

不安で仕方ないという人がいる。
不安があることが問題で、それを克服することが
課題なのです、という人がいる。
でもそれは、その人が不安であることは問題だ!
と叫んでしまったからである。

同じ世の中に暮らして、不安を問題視しない人もいる。
不安が問題なのか、そうでないのかについては、
客観性はどこにも無い。

だから不安の解決は、すごく易しくもあり、難しくもある。
問題視しなくなったときが解決のときである。
問題視し続けて、不安の解消の手段を外に求め続ける限り、
解決はやってこない。
なぜなら解決の無い道に解決を求めて、努力しているだけだからだ。

達磨禅師は、慧可に不安をここに持って来いと命じた。
そうしたら安心を与えよう、と言った。
慧可は真面目に不安を探し回った。
不安というものが実体として、
どこかにあると思っていたのだ。

しかし自分が問題だとしていた不安は、
自分の断定により、自分の頭の中に生まれたものに過ぎなかった。
不安であることは問題であると決めつけた本人が、
その不安を探す。

自分が問題視して取り上げた不安を、
自分が不安と感じなくしたいという。
問題を解消としたいという。
問題を作った本人が問題を無くしたい。
自分の足を、自分で踏んでいるのに、
痛い痛いと直りたいという。

不安はあるだろう。
いつの世でも、心配ごとはあるだろう。
それが世の中の実態であるだろう。
問題視している自分がいることに気付くこと。

(2015-01-16 SNS日記より)

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ネイティブアメリカンの言葉 (自分のためのメモ) [いのち]

前日記で記した辻秀一さん著『禅脳思考』に、
ネイティブアメリカン、スー族首長ルーサー・スタンディング・ベア氏の
言葉が紹介されている。

「昔は小石の1つ一つが私にとって大切であった。
成長する木々の1本1本が、崇敬の対象であった。
金銭的価値とは違うところに価値があったのだ。」

この言葉の根底に流れているものは、
仏教でいう、
「山川草木、悉有(しつう)仏性」
そのものだとボクは思った。
山や川や、草木のすべてに仏性が備わっている、
この考え方は深く日本人のこころに染み付いた
世界観であったと思う。

しかしながら、ベア氏の言う金銭的価値などが、
主要的価値の座を占めることが当たり前となったいま、
日本人にこのような石ころや草木の価値を説いても、
かえって変な目で見られるか、変わり者とされるように
なってしまった。

まさに日記において、
宗教的なことがらをつぶやくときにさえ、
それは人間のつくったまがい物、
作り物と揶揄されまでになったと思う。
ほんとうのことがらが見えなくなってしまったのだと残念に思う。

日本人は、古来、針供養のように、
世話になった日常のものたちへの愛惜の念を持っていたはずである。
正月飾りについてもしかり、使い古した道具たちへの感謝の念を持っていた。
山川草木ばかりでなく、日常の道具たちへの崇敬の念すら抱いていた。

その根底には、自分たちは縁あって生を受け、回りのいろいろなことがら、
もののおかげでこれまでやってこれたのだという認識がある。

けっして自分の努力や、実力、個性の発露だけで、
ここまでやったのだと、胸を張ることはなかったはずだ。

髪の毛一本もままならない存在であるのに、
なし得たことは自分の実力で、失敗は環境がよくなかったとか、
そんな理屈に埋没している。

自我の発露というものは、外から奪うことばかりである。
自分の取り分を減らすことなど、考えようも無い。
まして自分を放棄することなど思いもよらない。
自我と自我のぶつかり合いで争いごとばかりしているのが
ボクたちの実態なのだ。
残念だけれど。

自我が出来ないことを列記してみる。
与えること、共感すること、泣くこと。

(2015-01-06 SNS日記より)

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ポジティブ思考に思う [思想]

雨が降っている。
それでも外出しなければならないときは、
憂鬱な気分になる。濡れるのはイヤだし、寒い。
これはこころに生じた実感のそのままだ。

ところが雨が降ることはいいことだ、
なにより水不足にならずにすむとか、
涼しくて過ごしやすいのだとか、意味づけを
マイナスのものからプラスに変えていくのが、
ポジティブ思考というもの。

脳は、認知という働きで、外界のものを意味づけする。
雨が降って、外出がイヤだなと
よくないこととして意味づけしていた雨降りを、
ポジティブ思考では、
その意味付けを逆転させようとする。

でも所詮は、認知脳の行う意味づけの
変換の作業であって、認知脳は
意味から意味へと渡り歩いている。
認知脳は、外界にある対象を意味づけする思考。
その意味づけをいい方向に変えるというのが
ポジティブ思考の方法論だ。

ポジティブ思考の無理なところは、
第一義に感じた受け取り方を、
自分の都合のよい方へ意味づけを変える努力を
自分の脳に強いる点だが、
それはとりあえず、おいて置く。

認知脳のあり方とはちがう脳の思考法があると、
スポーツドクターの辻秀一さんは言う。
そのことを著書『禅脳思考』という本に
書かれているが、自分もそのことをつねづね考える。

認知脳が、対象を定めてそれの意味づけをするという
働きをするのに対して、
禅脳というのは意味づけをする以前の原始の状態へ
戻る思考である。
(思考という言葉は不適切な感じもあるがとりあえず思考と呼んでおく)
いわば自分の元の状態へ戻りながら自分の成り立ちを
理解するという方法論である。
道元禅師が退歩すべしと言われているのも、
この事情を述べていると解釈している。

この禅脳の状態にあるときに、ポジティブ思考のことを見ていくと、
認知した意味づけを、もてあそんでいるかのように見える。

たとえていえば、お金を使ってしまって、
財布に1万円しか残っていないと考える場合(ネガティブ思考)と、
まだ1万円あると考える場合(ポジティブ思考)がある。

禅脳的な見地からすれば、そのどちらの思考も、
1万円というお金に対する意味づけを、いじり回しているだけで、
1万円というお金は多くも少なくもない。ただの1万円というだけなのだ。

禅脳思考は、その自分が行っている意味づけという行為を自覚せよ、
そして意味づけにとらわれない世界を知れと促している。

さらに、自分の行っている意味づけだけでなく、
自分の内面で起きている感情の揺らぎや起伏も
見つめていくようにと促すものだ。
おのれの内面に沸き立った嫉妬心や怒り、悲しみの感情を、
しっかり受け止めるということを促すものだ。
辻秀一さんも著書で言われている。
認知脳で生きている人は、自分の感情に気づくという感性が劣化していると。

(2015-01-04 SNS日記より)

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一枚の落ち葉 (自分のためのメモ) [禅]

アメリカにおいて初めての禅院をひらき、禅の普及に努めた
鈴木俊隆という老師がいらっしゃる。

老師の法話で、落ち葉の話がとりわけ自分の
つよく心に響き、そのたとえを忘れることができない。

「君たちが1枚の落ち葉を見たら、ああ、秋が来た!というだろう。
1枚の葉はただの1枚の葉ではない。それは全体の秋を意味する。」

物理的に見れば、あるいは物質だけを見れば、
目の前に1枚の枯葉がそこに落ちている。
それだけのことだ。

しかし、これはかつて樹木の枝の先にあった。
それが落ちて道端に吹き寄せられていたかもしれない。

枯れ葉は、元の樹木を思い起こさせるだけでなく、
秋の訪れとともに、木から切り離されて落ちた。
秋という季節がやってきたことを告げる役割も担っている。

画家は1枚の枯葉の緑と赤の色彩の微妙さに、
感動するかもしれない。
絵筆をとって絵を描くかもしれない。

落ち葉を集めて落ち葉焚きをする人もいることだろう。
あるいは堆肥にしようとかき集めて持ち帰る人も
いるかもしれない。

1枚の枯れ葉は、それ単独で見ればただの枯れた葉に
過ぎない存在だが、それは秋という季節の運行と
つながりがあり、またさまざまな人の行為につながり、
人生にも関わっていく。

たった1枚の葉でさえ、この世界とのつながりと無縁ではいられない。
複雑に精妙に関わりあっていて、1枚の葉から世の中や世界との
もろもろの縁が見えてくる。

この世の中の成り立ちは、すべてこのようになっていることを、
枯葉の話からボクは瞬時に覚った。
人間の存在は、もっともっと複雑に多くの人と絡み合い、
孤独などということは、ありえないと分かった。
一人ぼっちなどということ自体がありえないことだと。

人生の意味に悩むなどということが、
なんと愚かな思いだろうと分かる。
すでに人生の場を与えられて、
その意味があるのでしょうか、などと考えることが、
どれだけ見当違いのピンボケの考え方であることか。

この世の成り立ちから、自分は生み出されてきた。
そのためにどれだけの縁が絡み合っていることだろう。
ありがたいと思う以外に無いのではないだろうか。

(2015-01-01 SNS日記より)

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あけましておめでとうございます [身辺雑記]

新年が明けました。
皆様方におかれましては、
よい年となりますようお祈り申し上げます。

昨年、年頭のある会合で述べた一年の計の言葉が
あります。じつは、その言葉のとおりの年になりました。
人前に立つことが嫌いで、いつも目ただなくひっそりと、
生きてきた自分ですが、昨年は、すこし人前に出る
一年にしたいと言いました。

すると不思議に言葉通りになり、地方のTV番組に出演したり、
また住んでいる駒ヶ根市の観光PR誌に出演する機会が巡ってきて
インタビュー記事が掲載されました。
また地元のスキー場で滑走している姿が、
ニュース映像として使われたこともありました。

自分の思いが、なにか深いところで必要なものを
引き寄せるのかもしれないと思います。
超常現象は信じない方ですが、
潜在意識の作用みたいなことがあるのでしょうか。

そして今年の年頭の計は何にしようかと思案し、
実りの年にしたいと思いました。
努力したり打ち込んできたものが
実りを迎える年にしたいと。

画像は年賀状です。
数点作成しそのうちの2点ほど掲載します。
本年もよろしくお願いいたします。

800x800-512001.jpg


800x800-512002 (1).jpg


(2015-01-01 SNS日記より)

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すでに持っている、すでに・・・ (自分のためのメモ) [禅]

中国唐代の禅僧、香厳和尚はとても頭のいい方で、
博学才英のエリートだったらしい。
しかし修行しても心境が進まない。
師匠から、お前は頭が良くて、なんでも頭で分かろうとするから
悟れないのだと言われてしまう。
そこで持っていた山のような書籍をすべて焼いてしまった。
それでも修行は進まなかったようである。

自分にはその才がなく、もう修行もやめようと絶望して、
師匠の元を去った。
そののち尊敬する忠国師の遺跡のお守りなどをしていた。
雑草をぬき枯葉を焼いて掃除をしていたとのことだ。

なぜそのようなことをしたのか諸説があるようだが、
香厳は落ちていた小石を竹やぶめがけて投げつけた。
その石は竹に当たってカチーンと音を響かせた。
そのときようやく香厳は悟りを得たということだ。

ボクは思う。
人は幸せや富を求めて、いつも外側にそれを探す。
それを見つけたと思っても、見込み違いであったり
ちがうものを捕まえてしまう。
しかもそれに気がつかない。
こんなことを繰り返すうちに一生が過ぎてしまう。

しかし大切なものは、すでに持っている。
すでに手にしている。
いや手にするというのは、
いかにもGETするような言い方で正確ではない。
それでは得る自分と得るものが分離している。
気がつけば自分がそうであったという発見なのだ。
得るべきものが得るべきものの中にすでにある。
その深い自覚なのだと思う。

香厳和尚は、外に求め続けた。
でもそれは本物とはなりえない。
得たものは、外からやってきたものでしかない。
いくら本を読んで知識を増す努力をしても、方向が違う。
道元禅師は、退歩すべしという表現をしている。
自己をならうというのも同じことだと思う。

竹の音は重要ではない。
何でもかまわない。朝日が昇ることでも、
つまづいて転んで痛い思いをするのでもいい。
それまで気がつかなかったほんとうの自分というものに
ぶつかるものならば、それは何でもいいのだ。

(2014-12-29 SNS日記より)

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仏道をならふというは自己をならふなり (自分のためのメモ) [禅]

道元禅師の正法眼蔵の現成公案の章に出てくる言葉。
「仏道をならふというは自己をならふなり」
とても深い言葉だと思う。

しかし、その意味を記した記事がネット上にあるかなと
探してみたけれど、なんだか物足りなかった。
その物足りなさの理由は、
核心部分に触れていない気がするためだ。

「自分をならう」とは何を意味するのか、
この部分を明確に理解しないと意味が無い。
しかしその言葉は誰にでも分かる類ではない。
体験が必要なので、それを欠いていては
言葉の遊びになってしまう。

道元はなぜ、自分を知ると言わなかったのだろう。
ソクラテスなら自分を知ることと言明したと思う。
しかし道元はそうではなかった。
知るとはあまりに主観と客観とが分離してしまう。
知る自分と知られる自分とに分離してしまう。
それらが対峙している。
こういう関係ではないと思う。

自分は自分でありながら、
自分は自分ではないという面がある。
混乱を避けるために、自我は本当の自分ではないと
表現したほうがいいかもしれない。

自我が自我でありうるために
それを支えている、より広い自分というものが存在する。
より広いという時の広さは、宇宙大かもしれない。
自分なかに息づいているいのちは、
宇宙のいのちなのかもしれない。

そのいのちの息づきのなかに、
理知的な知能を使い自分を守っている自我という
存在が浮かんでいる。
そして不安や恐れや倦怠を覚えて生きている。
自分がいつか潰されてしまうのではないかと不安に思っている。
いつか死ぬときがやってくることを忘れようとする。

この範疇には救いはない。
死を以って終了する自分(自我)に、
何の救いがあるだろうか。
意識がなくなれば一巻の終わりなのだ。

でもほんとうの自己というものが支えている以上、
その上でフワフワと浮かんでいる自我のことのみを
自分だ考えているだけでは、不十分なのだ。
ほんとうの自己を了解したことにならない。
ではほんとうの自己とは何か?
道元はそれをつかめと言っている。

(2014-12-26 SNS日記より)

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こころに浮かぶ不等式 [思想]

前日の日記に記したことは、
日々強まる思いから出たものだけれど、
それを別の面から突き詰めると、
ある不等式になるように思う。

それは、

自分の(自我の)思い、考え、世界観 < ほんとうの自分、もろもろの実相の世界、宇宙

自分は世界をきちんと認識できていて、
世界にあるのは絶望だけだと考えてしまうのは妄想。
じつは恐ろしいほどの妄想なのに、
そのことに気がつかなかった。
おのれの存在はもっともっと深いし底知れない。

(2014-12-20 SNS日記より)

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手 (自分のためのメモ) [思想]

手をじっと眺めてみる。
この精妙に動く手は誰が作ったのだろう。
なぜ5本指になっているのだろう。
3本でなく、8本でもなく5本の指。
自分がこの手を作り上げたのだろうか。
いやいや、そんなことを考えたことすらない。
自分は、訓練をしたかも知れない。
しかしこの手を作ることなど、どうして出来ようか。

ボクはときどき不思議の感にとらわれる。

科学技術の進歩で、人間そっくりのロボットや
高度な作業をこなす産業用ロボットができてきた。
でも、これらは本物という感じがしない。
中身を見ると、モーターやら配線やら
半導体チップなどが所狭しと詰め込まれていて、
いかにも不細工な部品の集合体。
こんな硬い、ゴツゴツしたものが
はたして、素晴らしいのだろうか。

人間の体はどうだろう。
やわらかくやさしくて、その内部には
硬いものなど含まれていない。
緻密に複雑に動く筋肉や血管や
薄い皮膚などからなっていて、
それらがこちらの何の意識もなく
きちんとバランスをとり生きるという仕事をこなしている。
それは寝ていても、お酒を飲んでいても
いつも中立の状態を保つために
複雑な反応を制御している。

しかも驚くのは、これらの体をたった一つの卵子から
細胞分裂によって各器官を自ら形成してきたということだ。
修復機能を持ち、怪我をすればそれを直そうとする
働きが作用している。
それはまったく意識できない領域で、
気がついたら自分の体というものがあった。
こんなものを誰が作ったのだろう。
機械で実現が出来るのだろうか。
その設計図は、何億枚にもなるだろう。

気がつくと息を吸っている、そして吐く。
誰が制御しているのだこの必要にして充分な働きを?
死ぬことすらプログラムされているのだろう。
こんな素晴らしい作品を誰が作ったのか、
そしてそれが当たり前のようにそれぞれの人に
与えられている。

(2014-12-19 SNS日記より)

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劣等感について思う [人生]

年齢を重ねた今だから判ることがある。
若い頃は劣等感の塊だったけれど、その劣等感は、
人より優越したいという欲望の裏返しだった。

理由なく人を上から目線で眺めて、
優越感に浸っている輩は鼻持ちならない。
しかし、劣等感を持って自分はダメなんですというひとは、
一見、謙虚に見えて、つつましい人と感じてしまうけれど、
じつは優越感の輩とどこか同じ香りがしている。

この人たちは、いつの日か人より優越していると
思える日が来ると、「優越感の輩」と同じになってしまうのだ。
なぜなら両者は、同じ土俵に立っているのであり、
一方は勝者であり、他方は敗者という違いだけだ。
人との比較の上で自分の価値や意義を見ているということでは、
まったく同類なのだ。

したがって優越感を持って人と接することを止め、
自分に基づいて生きることができるようになると、
劣等感も消えてしまう。
優越感を捨てれば、劣等感もなくなる。

この構造は、自我意識をベースに人生を考えている限り、
気がつかない。優越感と劣等感を行き来して、
自信を持ったり、喪失したりして、
やがて人生の大半を過ごしてしまう。

(2014-12-15 SNS日記より)

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