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不生不滅を思う [仏教]

バリバリ理系人間の自分にとって、仏教で述べられた真理の数々が、
不思議と納得のいくものであることを、まず告白しなければならない。
これほどの深い内容を、2500年も昔の仏陀が悟ったことが驚きなのだ。

ティク・ナット・ハン師は、一枚の紙の中には雲が見えると語った。

一枚の紙が目の前にあるということは、その材料のパルプが
なければならない。パルプが手に入るためには、そのもとの樹木が
山に育っていなければならない。樹木が育つためには水が必要だ。
そして水は、雨という形で山林に降り注いだ結果である。
雨が降るためには、雲の生まれる必要がある。
したがって、あなたの手にある紙がここに存在するということは、
多くの連鎖をへて、雲があったということである。

これはぜんぜん詭弁ではなくて、世の実相を語ったということである。

以前の日記に記したことだが、ボクたちの体をめぐって栄養と酸素を
各組織に送り届けている血液。これが生まれるためには、
宇宙の果ての超新星の爆発が関わっていることがわかっている。

太陽系の惑星の地球に住む生命体は、その体を構成する物質を
太陽の素材からは調達できない。太陽は、きわめて単純ともいえる
構成要素からなっていて、最も軽い元素の水素の塊だ。
水素と水素が超高温、超高圧下で核融合反応をおこしてヘリウムとなり、
そのさいにエネルギーを撒き散らしている。

人体の構成元素は、水素が半分以上で60.3%、次いで酸素が25.5%、
炭素が10.5%、窒素が2.4%で、この4種類の元素で98.7%になる。
これらはタンパク質、糖質、脂質の原料ともいえるもの。

では血液の重要な構成要素である鉄は、どこからやってきたのかというと、
太陽のような恒星が寿命をむかえて、次第に圧縮してさらに超高圧、
超高圧の条件から合成された重金属が元である。ある条件下にある
星の最期として、爆発して周りの宇宙空間へその構成要素を撒き散らす。

このようにばら撒かれた元素類が、太陽の引力が引き寄せられ、
かき集め凝縮される中で、惑星の構成要素となった。
地球に集められた鉄などを、生命の不可思議な過程なのだが、
酸素を体中に運搬する要素として利用し、血液のヘモグロビンという形
になった。だから血の一滴には、はるか宇宙の果てで、
何億年前の超新星爆発の姿が宿っている。

当たり前のことだが、物質は消滅できない。
ロウソクを燃やしてやがて無くなったかのように見えても、
二酸化炭素と水と、熱と光になって周囲の空間に撒き散らされている。
その二酸化炭素は、森で木や草が呼吸して緑を作り出し、酸素を吐き出す。
水は雲になり雨となって地を潤す。熱と光は、ボクたちの体を温めたり、
夜を照らす火に利用されたりする。

元素が結合する形態を変えながらも、その元素自体は消滅しない。
呼吸している酸素は、地球のどこかの森や草が生み出したものが、
気流に乗ってやってきたものだろう。

この宇宙空間から飛び出すことができないように、物質の要素は
消滅したり新たに生まれたりすることはできない。変転しているだけなのだ。
新しく生まれることはできない、また無くなることもできない。
釈迦は、変転流転するこの世の真理のひとつとして、無常を説いた。

(2016-06-02 SNS コラム記事より)

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言葉と体験、そのあいだに横たわる溝 [思想]

昨年から、お付き合いいただくようになった元大学教授の瀬田さん(仮名)
という方がおられる。
瀬田さんは若い頃より人生の問題、とりわけ死の問題について
宗教を訪ね、また臨死体験などの調査を重ねられて、
どうしたら死の克服という課題に、解決が得られるのかを
真摯に追求されてきた。

先日、瀬田さんとお話する機会があって、その場で、
いまの仏教のあり方に対して批判的な見解を語られていた。
それはこのようなことだった。

瀬田さんは、禅仏教で言う悟りの状態が会得できるならば、
死を前にして泰然自若とした態度が取れるにちがいない
という想定を立てて、禅寺の住職さんを訪ねては、
悟りとは何かを問い続けてきたそうである。
また坐禅会にも若い頃より足を運んだそうである。
それこそ何十年と追求を続けたそうだ。

しかしながら、悟りについて、その内容を住職さんたちは
明かしてくれないし、概念的にも説明すらしてくれない、
そして、ただそれは言葉にはできない、と言われるだけである。
また僧侶の著した書を読めとか、そのコピーを送ってくるだけだ
と語られた。

こちらの問いに対して、語ろうとしない態度はきわめて不誠実なものだ、
というご批判だった。そして、ついには矛先はこちらにも向いてきて、
OASIMさんも、やはり言葉ではいえないといって、
少しも語ってくれないですねと、なんだか不満を述べられた。

そこで・・・
自分は悟ったわけではありませんが、とまず断わった上で、
こんな例をお話した。

『蒸し暑い日、かんかん照りの道を歩いて、
喉がカラカラになったけれど、しかし周りに水らしいものがない、
そんな状態で半日ほどすごしたとしましょう。

この喉が渇いたつらい体験を人にどのように伝えますか?
またさいわいお水を手に入れて、喉の渇きを癒したときに
「ああ、うまい!」という感覚を言葉で表現できますか?

言葉で伝えられる範囲は、つまりこういうことではないでしょうか。
自分は喉が渇いている、そしてようやく水が飲めたときに、
水とはこんなにうまいものだとは思わなかった、
という概念的なことがら(つまり情報)ではないでしょうか。

つまりその話を聴いた人が、ああそうなんですねと、
他人事として聴いたきりで、話は終わってしまいませんか。
言葉を聴いた人が、喉の渇きを体験してくれるわけでは無いし、
ましてその水のうまさを実感してくれるわけではないです。

もし、その聴いた人が深く共感してくれるとすれば、
その人にも同様な体験があり、水がこんなにもうまかったのだと、
感じる体験をした場合ではないでしょうか。』


なんとなくはぐらかしたような答えではある。
しかし言葉は、その体験につけた符号のような呼び名であるために、
体験を共有できていない人には、言葉の概念しか伝わらない。

悟りについても同様で、悟りを理解した人同士ならば、
少しのヒントや言葉で互いに体験を理解でき、共感できる。
しかし悟っていない人に、どれだけ説明してもその人が悟りを
得るわけではない。

よくあるたとえ話であるが・・・
あのきれいな月を見てと指差したら、
相手は月を見ないで、指の方ばかり見ている。
月が見えていない人にとっては、見ろと言われた先には指の姿しかない。
だからいくら言葉を費やして説明しても、月のことは伝わらない。

月が見えるようになった時、
初めて指差した先の月に気づくことができ、
その月の美しさに感動できる。

悟りを、幸福というものに置き換えても同じだ。
いまある生活が恵まれており、生きていられるだけで幸せなんですよ、
救われているじゃないですか、そのことを味わい喜びましょう、
と言っても、その幸せがいまの生活に見い出せない人には、
何のことかわからない。へんなことを言う奴だなと、
訝しがられるだけである。

宗教者がついには、学問や書を捨てて、
修行に打ち込んだという話は多い。
いつまでも、概念の世界で格闘していても、
救いはやってこないのだと絶望するのだろう。

(2016-05-30 SNS コラム記事より)

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余計なおせっかいだが、宗教のことをすこし書いてみる [宗教]

宗教に近づくのは、若いころと老年を意識し始めたころだ。
若いころは、まだ知らぬ深遠な世界があるのではと思って接近する。
年老いてからは、死が近づいてきてこの先がわからなくなった頃だ。

信仰のあり方や、そもそも宗教と何ぞやという議論がまま起きて、
必ずといっていいほど提出される意見がある。

ひとつは「鰯の頭も信心から」という言葉に代表される、
得体の知れないあやふやで未知のものを信じる姿を批判するもの。
おもに科学的見地を強調、あるいは絶対化する立場からだ。

もう一つは、ニーチェに代表される批判で、弱者の怨念や
寄る辺なさから神や超越者への信仰が形作られるというもの。
つまり弱者の立場から宗教が生まれるとするものだ。
そして、この二つは一緒と見られることも多い。

自分はそのどちらにも組しないが、かといって宗教とは無縁かというと、
間違いなくその正反対の方だろう。日々、宗教に関する本や経典を読まぬ
日は無いし、宗教をテーマとする集まりでお話させていただいている。
そういうと自分の立場を明確にせよと、お叱りを受けそうだが、
基本的に、お釈迦様が説いた仏教に帰依している。

自分の学んだバックグラウンドは科学技術にあって、専門分野は
量子力学、半導体工学、マイクロ加工技術、センシング技術だ。
現役時代は、主に研究開発や製品開発の現場に籍を置いた。
合理的なことがらに馴染み、実験や推論を重ねてきたいわば理系人間である。

だから不合理なことがらを、「鰯の頭を信じる」ようなことはさらさらない。
ただ自分は思う。
科学技術の進歩により、わかってきた知見が増えるのは事実だが、
おなじか、それに倍加して、新たに分からないことがら、謎や疑問、課題が
増えて来る。

科学技術の進歩により、人類が知り得た知識の量が増えて、
そのことにより未知の世界が狭くなり、やがて無くなるだろうと
考えるのは正しいとは思えない。

この世にあり得る知識や情報の量が一定で変化しないと考えるのは、
妄想では無いだろうか。知らない世界のことは知識が無い。
だから単純化してそれを考えるしかないのだ。

ひとたび未知の世界の扉の端緒が開かれるたびに、
多くの疑問が噴出してくるものだ。そして研究課題が増える。

火星の軌道を観察することしかできなかった時代にくらべ、
そこへ探査機を送り込んで観測をするようになった現代は、
火星に関する知見が増えた分、未知のことがら、疑問は
はるかに増えているのである。

宇宙に関する新しい知見が得られるたびに、このすばらしい法則を、
作り出したものは偶然なのだろうか、生体の機能の新しい発見が
なされるたびに、このような精緻な仕組みがどのようにして
生まれたのだろうと、感嘆することも増える。

ニュートンは自分自身のことを、真理の海の浜辺で新しい貝を見つけては
喜んでいる子供に過ぎない、真理の海は人知でははかり知れない
深いものだという趣旨のこと述べていたと記憶する。

またアインシュタインの次の言葉にも共感する。
『自然の真の探求者なら、だれでも一種の宗教的畏敬の念がある。
というのも、自分のさまざまな知覚を結びつけるきわめて繊細な糸を
考え抜いたのは自分が最初だ、と想像するのは不可能だと感じるからです。』

知の地平を新たに開拓した巨人ならではの言葉であるが、
その知の限界を知るがゆえに、その先のものへの畏敬の念が、
おのずと生ずるのであろうと想像する。
すべて知り得た、すべて克服した、と奢るような気持ちは
微塵も感じられない。むしろますます謙虚になるように感じる。

人知を超えた世界のことは語りようがないが、畏敬の念を持つことはできる。
宗教が語られる素地というのはそれを基にしていると考える。

禅者のことばに、釈迦が悟りを開いたとき、もし釈迦の姿を傍から見たら
大きな疑問符だけがそこにあることが分かるだろう、というものがある。
大いなる疑問符、宗教はそこに関わる。

(2016-05-25 SNS コラム記事より)

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タイムマシンに乗って、生を考える [人生]

なにやらSFっぽい表題なのだが、最初はタイムかマシンに乗って、
愛を考える、にしようと思った。
内容はきわめてまじめな(?)仏教的な話。

ベトナム人の禅僧ティク・ナット・ハン氏の著書のいくつかは、
日本語にも翻訳されていて、愛読書になっている。
ハン氏は、日本の禅僧の趣とはことなり、仏教の根本的な真髄を
まっすぐ語って已まないところが魅力。その内容は直裁的で鋭い。
しかし、わかりやすいかというと、そうではない。
禅書に見られる難解さに出会うことも多い。

ハン氏のこんな文章がある。
『私たちが腹を立てたときにはどのような反応をするだろうか。
ふつう喚いたり叫んだり、金切り声を上げたり、自分の問題なのに
他人を責めたりするが、無常の目で怒りを見つめたら、立ち止まって、
呼吸に戻ることができる。究極の次元でおたがいに腹を立てながら、
目を閉じて深く見つめる。三百年後の未来を思い描いてみる。
・・・
未来に目を向けると、自分にとって相手はとても貴重な存在だとわかる。
いつ相手を失うかもしれないと気づけば、もう腹など立たない。相手を
抱きしめて、こう言いたくなるだろう。
「なんてすばらしいことだろう。きみはまだ生きている!
どうしてきみに腹など立てたのかな。私たちはいつか死んでいかなければ
ならないのだ。こうして一緒に生きているあいだは、たがいに腹を立てる
なんてばからしいじゃないか。」
私たちが自分を苦しめ、相手を苦しめるほどに愚かなのは、ふたりが
無常だということを忘れているからだ。いつかふたりが死を迎えるとき、
持ち物のすべてを失う。力も家族もすべて。いまここに持っている自由、
平和、喜びだけが、私たちのもっとも大切なものだ。しっかり目覚めて
無常を理解しなければ、幸せになることはできない。』

      ティク・ナット・ハン著『死もなく、怖れもなく』p.52

ボクたちは、あまりにも現在のごたごたに気をとられてしまい、
怒ったり貶したり、悲観したり、バタバタやっているのだが、
そんなボクらに向かって、ハン氏は、タイムマシンに乗って、
三百年も後の世界に行ってみたまえと言う。
そしていまを振り返ってみたまえと。

一週間もすれば、ごたごたしたことを忘れてしまう記憶喪失の自分たちだ。
三百年もたったら、自分という存在すら想いだされるのかあやふやだ。
そして相手の存在も。

三百年前に、このふたりがけんかしていがみ合っているとのことだが、
はるか過去のことで、このふたりは二つのゴマ粒みたいなちっちゃなものだ。
じつは、出会って縁があったのではないか、仲がよかったのではないか、
そんな風にも思えるだろう。

**********

ボクは最近理解したことがあって、家内に対して寛容になる、気恥ずかしい
表現をすれば愛するコツを会得した感じがしている。
くるまで出かけたときに、ハンドル握るのはたいていボクなのだが、
助手席の家内は、やれ道を間違ったとか、こっちの道を行くほうが
近いのに、とかこまごまと言う。ハンドル権を持っているのは自分なので、
いちいちうるさい奴だなと思うのが常だ。

で、あるときに気づいた。
ああ、あのときにうるさい奴だと腹立たしく思って、ハンドルを握っていた
けれど、その瞬間は、二人で仲良く車で出かけているあの時間は、
とてつもなく大切で貴重な幸福な時間だった、それは二度と来ないのだと。
それを思い返している自分がいる。

ハン氏がいう、三百年のタイムトラベルは必要なかった。
いまという時間が輝ける幸福の時間なのだ、ということが腹のそこに、
ストンと落ちた瞬間だった。

(2016-05-18 SNS日記より)

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人を幸せにするもの [人生]

先日NHKのスーパープレゼンテーション番組で、
「人を幸せにするものは何?、最も長期にわたる研究から」
を視聴した。

この研究がスタートしたのは1930年代で、
いまだ続けられており70年を超える。
プレゼンはロバート・ウォールディンガーという研究リーダーで、
彼で4代目だそうである。

研究手法はこうだ。
10代の研究対象となる人物を700人あまり選定する。
半分は上流に属するハーバード大学の学生を、
残りの半分は貧民街に暮らす10代の若者だ。

アンケートとインタビューを2年おきに実施して、幸福と感じる体験や、
何が幸福に関係しているか、その考えを調査する。
いまや初代の対象者は90歳代となり、考え方も変わり人生観も変わる。
それを追跡していくという手法である。

対象者の親族や友人など、対象者はますます増えて、
膨大なデータが蓄積された。
その中から人生の幸せとは何かを抽出した。

プレゼンテーションは15分ほどの短いものだったが、
結論は明確で、かつシンプルなものだった。

1.いい人間関係が幸福に関係している。
 パートナーや、ごく親しい友人とのいい人間関係を
 築けている人が幸福を感じる。
 とくに、いざというときに頼りになる人の存在。
 いい人間関係は、脳を守る働きもする。
 友人の数が多いと幸せかというとそうではなかった。
2.富、名声、仕事の達成感などは、幸福とは関係が
 なかった。
3.孤独な人は幸福度が最も低い。
 脳機能も低下しやすい。 
 うらみを持つことはその人自身へのダメージが大きい。
4.退職後、いい遊び仲間を作った人は幸福度が高い。
5.人生の残り時間が少なくなるほど、
 義理の付き合いや、ムダな事柄を切り捨てて、
 幸福に関係する部分に費やす時間を増やす傾向がある。

人生にむつかしいことはいらない、そんな平凡な事柄を思った。

(2016-05-14 SNS日記より)

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おおいなる誤解 (自分のためのメモ) [仏教]

仏教が正しく理解されていない理由のひとつとして、
自己の存在に対する誤解があると思う。

近年の個人主義の高まりによって、個人が大切であり、
思う存分、個性を発揮することに価値があって、
それを妨げないように社会や国の仕組みも
構築されるべきであるということになっている。

いわば個人という存在は、すべての価値観に先立って
尊重されるべき存在、アプリオリに価値を持つ存在という
ふうに祭り上げられている。
しかし、その論旨を裏付けるものは無く、
ただ無条件に個人は尊いということになっている。

このような考え方は、釈尊が説いた仏教の基本とは、
まったく相容れない考え方といわざるを得ない。
したがって、いま仏教が正しく理解されていないと思うし、
社会において力を失っている状況だ。

そもそもこの個人至上主義の思想を、
あらためて考えてみると、見逃している不思議な
ことがらがある。

『なぜ個人が尊いのですか?
この怠けやすく怠惰で、できるだけ楽しようとしている
この個人のどこに尊さがあるのですか?
誘拐犯罪や、薬物による犯罪、税逃れのさまざまな
悪智慧、家庭では虐待やネグレクト、DVなど
こんなことをする個人のどこに尊厳と価値と
尊さがあるのですか?
その根拠はなにですか?
(自分自身を含めて)いい加減でずるがしこい、
こんな人間の、どこに尊さが潜んでいるのですか?』

これらに対するつよい答えは聞いたことがない。
それもそのはずで、その根拠などないから。

仏陀は、自己には実体がないということを説いた。
自己はあるように見えて、はっきりした実体がなく、
さまざまな縁によりたまたま現在がありえているもの
であると。

犯罪を犯す縁に見舞われれば、恐ろしい犯罪に手を染める。
自分はそんなことはしないはずだと思っていても、
事故を起こしてしまう。
社会の規範を守っている立派な人間だと思っていても、
人を傷つける。

自分に善人の因子があるので、立場を保ちえていると
思っていても、それはさまざまな偶然や支えや運などに
よってかろうじて今があり得ている。
それを自分の努力とか自分の成果とか、
己を誇るようなことがらに帰している。

それはある意味、滑稽な話で、お笑いでもある。
その見方は甘いと言わざるをえない。
頭はいろいろと自分に都合のよいことを考え出すものである。
妄想を膨らませるものである。

そんな尊い存在の自己が、いよいよ死ぬとなったときに、
どのようにその事態を受け入れるのだろうか。
尊いのならば、ほんらい死ぬのはおかしく(死ぬはずもなく)、
なぜ自分が消滅しなければならないのかと
苦悶するするのではないだろうか。
あるいは、その日まで考えても仕方ない、
考えないようにしようと目隠しするのだろうか。

仏陀は明確に宣言した。
自分は生死を越えた、不死の法を得たと。
不老長寿になる方法を見出したという意味ではない。
生病老死のわずらいの苦しみの生まれ来る根本を悟り、
それらと無縁となったと宣言したということである。

縁によって成り立つ自己は、縁が崩壊すれば消滅する。
自分の存在において、なにかしっかりとした実体が
あるのでなく、それは条件しだいで生まれたり
滅したりする。そんな明滅する存在のあり方が
自己の存在の本質であったということである。
自己の存在が永続すべきであるという「べき論」もなく、
ただは波間に揺られている小舟のような頼りない存在。
そのことを見通したということである。



ふと思いだすのは、宮沢賢治の詩集『春と修羅』の序にある冒頭の言葉だ。
仏教の縁起の世界を、みごとな詩的表現によって表していて、
いちど聞くと忘れがたい。



春と修羅
                  宮沢賢治



わたくしといふ現象は
假定された有機交流電燈の
ひとつの青い照明です
(あらゆる透明な幽霊の複合体)
風景やみんなといっしょに
せはしくせはしく明滅しながら
いかにもたしかにともりつづける
因果交流電燈の
ひとつの青い照明です
(ひかりはたもち、その電燈は失はれ)

これらは二十二箇月の
過去とかんずる方角から
紙と鑛質インクをつらね
(すべてわたくしと明滅し
 みんなが同時に感ずるもの)
ここまでたもちつゞけられた
かげとひかりのひとくさりづつ
そのとほりの心象スケッチです

(後略)


(2016-05-12 SNS日記より)

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小さな気づき (自分のためのメモ) [禅]

白隠禅師の坐禅和讃の教えは、原田祖岳老師の著で、
わかい頃より知っていた。

でもその述べられている意味が、分かっていたとは、
到底いえない。
なんだか古臭くて、調子よく言葉を並べている印象ばかり
めだってしまい、その指差している意味にまで、
頭がめぐっていない感じだった。

総体的に言って、ここは自分の弱点である。
表面にばかり眼が行って、その指し示していることがらに
眼を向けない。じつに愚かしい。

月を指差す、その指の形の方に気が捕われてしまい、
月そのものを自分の眼で見ようとしない愚か者。

白隠禅師の坐禅和讃のなかに、こんな文言が出てくる。

「闇路に闇路を踏みそえて
いつか生死を離るべき」

この生死を離れるとはなんなのだろう?
そんなことがありうるのだろうか。
人間である以上、いつかは死ななければならない。
それが生死を離れられるかのような言い方を
するとは、いったいどういうことなのだろう?
そんな魔法のようなことがありうるのか?

これは長年の疑問だった。
そしてこれは白隠禅師が、言葉を誇張して
大げさに言ったに違いないというふうな理解に
とどまっていた。

ああそんなものかい・・・といって終わっていた。

で、それから何十年。
あるときふと思ったのだ。

生死の問題が生ずるのは、自分がそれにこだわっているからだと。
生に執着し死を厭う気持ちがあるかぎり、生死の問題は消えることはない。

しかし、動物たちのような、生に執着して死を厭うということがない生き物たちは、
死ぬべき機運になれば死ぬだけで、そこには生死の問題はないのだと。

死が到来することを自然と受け入れて生きている人には、
生死の問題は生じていない。
そこにこだわりが断ち切れない人にとって、生死の問題は
大きな苦しみとして襲ってくる。

心の持ちようといえばそのとおりだのだが、
生死を離るるとは、こころの執着を離れることを
意味していた。

生まれたものは死ぬ。
死んだもののなかからまた生まれてくる。
これを何億年と繰り返してきた。
大きな生死のドラマの中に自分が浮かんでいる。

そこに気づくことができるか、
そして死は自然なものであり、死ぬ縁になれば
死ぬだけなのだと腹の底から理解したとき、
死の問題がもう自分を苦しめることはない。
死んだらどうなるか、死後の世界はあるのか、
霊魂は不滅なのかとかの問題は、関心事でなくなる。

これらのことがらは、じつは釈尊の教えのなかに
繰り返し、繰り返し語られていることがらなのだと、
のちになってわかった。
しかし受け取ることができないときには、
どんな貴重な言葉も、看過してしまうものなのだよね。

(2016-05-05 SNS日記より)

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ここまでくるとアホなのだ (自分のためのメモ) [浄土真宗]

因幡の源左が、日々生活の場面で見せた行動には、
常人ではうかがい知れない奇行が多い。
常識的な見地からは、なんとアホくさい奴とか、
バカバカしい念仏者とか、そのような印象を受ける。

妙好人というのは、泥臭くて、知性が感じられなくて、
念仏ばっかり称えているアホのように見えるのだ。
まったく現代的でなく、いまの時代に賞賛を浴びるような
そんな人たちではないのだ。

源左が草取りに田んぼに出かけていたら、突然夕立が
やってきた。
雨具を持っていなかったため、源左は、
ずぶぬれになってとぼとぼ帰ってきた。

その帰り道に、お寺の住職にいきあって、
「爺さん、よう濡れたのう」
と声をかけられた。すると源左は、
「ありがとうござんす、ご院家さん。
鼻が下を向いとるでありがたいぞなあ」
と言って雨の中を帰っていった。

鼻の穴が下を向いているので、雨が入らなくて
よかった。上を向いていたら雨が鼻から入って
息が出来なくなるところだった、ということらしかった。

ふつうわれわれは、なんて雨だ、突然降り出して、
すっかりずぶ濡れになっちまった、と怒りの心境で
帰り道を急いだのではなかっただろうか。

まして、住職に声をかけられたら、
「まったく!すっかり濡れてしまって、
えらい目にあった」
とぼやくのではなかろうか。

では源左は雨にずぶ濡れになったことを、
どう受け止めたのだろう。

想像するに、
雨が降れば濡れてしまう。
雨具を持っていなければ、濡れて帰るしかない。
ああ、雨がよう降るなあ・・・
と「事実を事実としてただ受け取った」
のではなかったろうか。

ボクたち凡人は、いつも心の中で、こうしたい、
こうなりたい、こんなことはイヤだというつぶやきを
繰り返している。自分の欲望を核にして、この世の
出来事を眺め、怒り、嘆き、悲しんで生きている。

意識していなくても、このようなつぶやきの中で
暮らしている。たまたま、雨に濡れてしまう事態に
遭遇して、そのつぶやきが意識に昇ってきて、
くそっ!と怒りの感情になるのだ。

雨が降らなくて日照りが続けば、農家の人は、
雨がふれふれと思っているから、雨を喜ぶ。

ボクたちの日常は、こんなことを飽きずに
ずっと(おそらく死ぬまで)繰り返している。
自我の欲望と、食い違いを見せる現実の
ハザマでいつもあれこれを思い悩んでいる。
そして、思い悩んでいるこころが生まれる構造に、
一生思い至ることはない。
道理に暗いということなんだ、残念だけれど。

事実を事実としてそのまま受け入れて、
鼻の穴が下を向いていて雨が入らなくて
よかったなあ・・・
今日も田んぼの草取りが出来てよかったなあ・・・
とぼとぼ歩いて帰れる足が健康でよかったなあ・・・
今日も息が出来てよかったなあ・・・

おそらく源左のこころのうちはこんな風だったのだろう。
アホの境地なのだろう。

(2016-04-30 SNS日記より)

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ありがたいの語源 (自分のためのメモ) [宗教]

感謝の意を示す「ありがたい」は、
あること難し、からきている。
実現する(ある)ことが難しいという意味だ。

考えてみるととても深い言葉であると気づく。
人身受け難し、という言葉が三帰依文にある。
人間に生まれたことはとても難しいことで、
めったにないことだということが第一義だが、
人間に生まれたことに感謝するという意味に
通じていく。

妙好人について書かれた梯実圓氏の著書にこんな話が
載っている。
若いころ梯実圓氏は、足利先生という方に、
「梯先生、あなたは自分の手を拝んだことがありますか。」
と聞かれた。
「ありませんな。手足は動くことが当たり前やと思っていますから、
別にようこそとも有難いとも思いませんね。」
「そりゃそうでしょうな。若いということはいいことですな。」

この足利先生という方は、そのとき心筋梗塞発作を2回起こしていて、
心臓の状態がとても悪かった。

「わたしの心臓は、いつ止まるやわかりませんのや、
寝ている間に止まるかもわかりませんのや。」

「寝る時に、明日、目が開くかなあ、どうかなあと
思いながら寝ます。けど、この世の目が開かなかったら、
お浄土のめが開くときだしなあ、まあ、どっちにしても
有難いことだ。」
といわれていたそうで、そして実際、
ある朝起きてこられず、亡くなっておられた。

「朝起きてね、寝床の中で、手をこうして動かしてみる。
手が動く。あ、今日もこちらのいのちをいただいていたなと
思うと有難いなあと思う。」
ということを言われていたと書かれている。

この足利先生という方のとおい親戚に、因幡の源左という
有名な妙好人の方がおられる。

(2016-04-29 SNS日記より)

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