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山上憶良の歌 [文学]

歌人の中では、万葉集に登場する山上憶良(やまのうえのおくら)が、
情感豊かで、親しみやすくて好きだ。

憶良の歌は、いわゆる相聞歌に属する歌が多い。
相聞歌というのは、人と人の心の通い合いを歌った一群の歌を
さしているが、のちに男女の恋愛の歌というとらえ方になっていった。
しかし、憶良の場合は、こどもや妻に対する情感を歌ったものが
ほとんどである。

子供の愛おしさをうたった下の歌はとくに有名だ。

○銀も金も玉も 何せむに まされる宝 子にしかめやも

 <銀(しろがね)も金(こがね)も宝玉も、いったい何になろう
 これにまさる宝といえば、子以上の宝があろうか、
 ありはしない>

この歌は旋頭歌(せどうか)という長歌の後を受けてうたわれた反歌で、
長歌の要約文みたいなもの。
このもともとの長歌も、子供の影像を思い浮かべていて趣が深い。

○瓜食めば 子ども思ほゆ 栗食めば まして偲はゆ
いづくより 来たりしものぞ
まなかひに もとなかかりて 安寐し(やすいし)寝さぬ(なさぬ)

 <瓜を食べれば子のことが思われる 栗を食べればさらにいっそう思われる
 子どもはいったいどこから来たものか
 面影が目の前にむやみにちらついて 安眠もできない>

このとき憶良は単身赴任でもしていたのだろうか。
あるいは旅先の枕で、子供らを思い浮かべたのだろうか。

憶良は生涯で、妻も子も亡くすような辛い体験もしていて、
はたしてこの歌の詠まれた時期がどのシチュエーションに
あたるのかは不明だ。
しかしいずれにせよ、子どもや妻にたいする情愛がふかい、
心優しい人物であったのだろうと偲ばれる。

もっとも憶良らしい歌だなと感じるのは次の歌。
自分としてはけっこう好きな部類の歌だ。

○憶良らは 今は罷らむ(まからむ) 子泣くらむ
それその母も 我を待つらむぞ

 <わたくしめ、憶良はもう失礼いたしましょう。
 今ころは子供が泣いているでしょう。
 それ その母もわたしをまっているでしょうから。>

おそらく大伴旅人の家で酒席が開かれていて、
そろそろ自分は失礼して家に帰ります、という思いを
歌にしたものだ。

大伴旅人は、九州大宰府の長官として赴任してきたが、
やはり万葉集の代表的な歌人。この地で旅人を中心に
山上憶良などの文化人が集まり、
文学サロンが形成されていたようだ。
だから旅人と憶良は、歌のやり取りを頻繁にしている。

おそらく楽しい文学談義や、歌のやり取りをして
夜も更けたのだろう。そろそろ失礼しますというこの歌、
よく読むと微妙な言葉使いがされていて、奥ゆかしい。
憶良らの「ら」は、自分につける謙遜語であるが、
それ、その母も、といったのはじつは憶良の妻のことだ。

妻も私を待っていることでしょう、というと
なにか直接的な露わな感じがする。
子供をダシにしたわけではないけれど、ついでという感じで
子供の母も待っているでしょうから、と言葉を選んだ。
いや本当のところは、妻恋の気持ちの方が優ったのかもと
勝手な想像をしてみる。

(2016-06-15 SNS コラム記事より)

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久しぶりに触れたヘッセの言葉は心にしみた [文学]

先日、書店で『超訳 ヘッセの言葉』という本に出会い、
パラパラめくる内に、詩心にあふれた言葉の数々に魅了されてしまった。

むかし、『車輪の下』、『デミアン』を読んだはずだったが、
おぼろげな記憶しかない。それに『デミアン』に述べられた思想は、
当時の自分には、むつかしい事柄が述べられていると、
受け取ったような気がする。

断片的ではあるけれど、いまそれらの小説の言葉を読むと、
これほど深く、輝く言葉が迸っていたのかと思う。
愚鈍な自分は、ヘッセを受け取れるようになるまで、
何十年もかかったということだ。

ひときわ惹きつけられた言葉を引用したい。
表題は「一人の人間の中には全人類の魂がある」という
やや大きな題がついている。

「他のみんなと明らかにちがう点に、わたしたちは自分の個性や
人格の特徴があると思いがちだ。そういう思いがあると、
みんなとは異なった点のみが自分だと狭く制限してしまいやすい。
しかし、どうだろう。人というのは、これまで全世界の
構成要素から成立しているのではないだろうか。
自分の魂に、これまでの全人類の魂が含まれているのではないだろうか。
そういうふうに考えれば、わたしたちはあらゆる可能性を
手にしていると思えてくるのではないだろうか。」
   ヘルマン・ヘッセ、白取春彦訳『超訳 ヘッセの言葉』 p.118

ここに述べられた考え方は、西欧流の個人主義の思想とは異なる、
東洋的な味わいを感じさせる。どこか仏教の教えすら思い起こす。

自分自身、若いころに感じていた世界観は、個人は一人で生まれ、
自分を主張し、人とは異なる個性を発揮して、おのれの夢を
実現していくものであるという捉え方だったように思う。

したがって個人の成功への努力が礼賛され、それが断たれたり、
夢が破れたときは絶望しかないという方向へ行くしかなかった。
成功者は一握りでしかない、おのずと多数の失敗者や破綻者が
うまれてしまう仕組みを信じた。多くの諦めと疲弊が生まれるような
社会を形成してきた。
それは本当に正しいのだろうか?

東洋的な思想、とくに仏教では、個人という存在に重点を置かない。
あらゆる存在は、周りとの関連の中で生まれ消滅するあり方を
繰り返していると観る。人間もその例外ではない。

あらゆるつながりから自分たちは影響を受け、考え方や生き方を
形成してきている。「自分独自の」とか「自分だけのもの」というものは
もともと虚妄なんだと教える。もっと大きな存在のなかで生かされ、
さまざまな縁のもとで変転してきたと観る。

一枚の紙の中に雲を見る、おのれの中に敵と同じ心を見る、
あるいは敵に中に自分がいることを見る。
宇宙の中で、宇宙ともに存在している自分の姿を見る。

もうひとつ引用。
たまたま隣のページに掲載された言葉にこんなものがある。

『差別や争いはすべて人間の心から出てきた』

「世界を満たしているはなはだしい差別、ヘイト、排斥、
価値の上下の決めつけ、中毒、放蕩、困窮、傲慢、
ひとたびも鎮められない苦悩、絶えざる諍い、
血みどろの戦争、あらゆる恐怖・・・
これらのものはどれもこれもみな、われわれ人間の心から
出てきたものなのだ。」
   ヘルマン・ヘッセ、白取春彦訳『超訳 ヘッセの言葉』 p.119


(2016-06-09 SNS コラム記事より)

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自分だまし (自分のためのメモ) [文学]

人間は(とくに日本人は)、
タテマエで考える習慣がついていて、
それを自分の本心だと思っていることが多い。

アナタのやりたいことは何ですか?
と人から聞かれ、
エエカッコしたい気持ちもあって、
家族のために生きますとか、子供のためとか
社会の何とか、かんとかのためと言ってしまう。

でも長年人生を生きていると、
人生の酸いも甘いも噛み分けた(?)ためだろうか、
こういうタテマエ回答を耳にすると、
嘘っぱちとは言わないまでも、ウソウソと感じて、
歯の浮く思いがしてしまう。

こうなってしまう背景として、
本当にやりたいことを普段、
まじめに考えてこなかったために
ついタテマエ回答が思い浮かぶのだろう。

また普段考えてこなかったので、
自分のタテマエ回答を、本心からの願いだと
勘違いしてそれを人生の目標にしてしまったりする。

こういうのは自己だましだ。
昨今、よく蔓延している。

ボクは思う。
イチローのような人に
アナタのやりたいことは何ですかと聞いたら、
もうコンマ何秒の間をおかずに、
メジャーリーグへ行き、打率何割を
達成したい、とか即答するだろうな。

常日頃からしっかりと自分の目標や使命を
心に刻んでいる人は、質問に戸惑うことなど
ありえない。

えーと、目標は・・・と、
タテマエ回答が出てしまうというのは、
普段何も考えていない証拠だ。
気をつけねばなるまい・・・

(2015-04-11 SNS日記より)

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