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見るということ(1) [脳]

このところ、見るという行為や、目や脳で起きていること、
その知覚について考えていた。しかし考えがまとまらない内に時間が過ぎた。
まあ、怠惰に暮らしていた面も否めない。
そもそも「見る」ということについては、
奥が深くて簡単にまとまるようなものではなかった。

まず不思議に思う簡単なことがらを書いておきたい。

まず眼球の形状のことだ。
目玉は頭の運動に加えて、哺乳類などは目玉自体が回転運動が可能なように
仕組まれている。当たり前だが、このような要請に適合する形は
球体以外にはない。

その球体の一番奥に(後頭部に近い側)に網膜という視覚を検知する
細胞の並ぶ膜がある。とうぜん網膜も球面状の形状を持つ。

この形状はとてもうまく出来ていると思う。それは虹彩で絞られて
目玉に入った光は、網膜面の上に焦点を結び外界の画像が結像される。
完全ではないにせよ絞りである虹彩から、網膜の中央部への距離も、
端部への距離も等しい形状となっている。

なぜうまく出来ていると感じるのかは、カメラの構造を思う浮かべるとわかる。
カメラのレンズは眼球のレンズとほぼ同じ働きをしているが、
カメラの結像部、つまりCCDの置かれる面は平面である。
むかしはフィルムだったが、これとて平面形状である。
もちろん平面であることは作りやすさから言って
これしかないだろう。しかしそのデメリットも発生した。

写真をやる方はご存知だろうが、撮影した画像は、基本的に四隅が暗い。
この現象をビネットとかトンネル効果と呼んでいる、
ケラれると表現することもある。
この現象は結像部が平面でありことがら起因する。
つまりレンズから結像部までの距離に関して、中央では近く、
端部では遠いからだ。距離が遠くなれば、距離の2乗分の一で光量は減る。

また平面結像部の欠点は、端部の像の歪みだ。端部へ入射する光はどうしても
結像部に対して斜めに入射する。したがって、端部へ行くほど
像が拡大されてしまう。先日TVで、集合写真を撮る際に、
端にいる人の顔が太って写ってしまうのを
回避する裏技を紹介していた。これも平面結像部の持つ欠点である。

え?裏技を教えてほしい?
集合写真を撮る際に、対象者から離れ、そして小さく写っている画像を
拡大する。これで平面結像部への入射角を直角に近づけることができる。

本題に戻ると、目玉は球体網膜への結像だから、画像の周辺部のケラレが無い。
むしろ眼球の構造図を思い浮かべると、周辺部ほど網膜に近くて
明るいかもしれない。

何が不思議なのかというと、われわれはものを見るとき、
球面上の投影された像を目で検知しているのだが、部屋の柱や電柱は
真っ直ぐなのに、網膜上の像は円弧なのである。
それをわれわれはなんとも知覚していない。
円弧状の柱などの画像を目玉に写しているのに、
視覚としては直交空間的な(デカルト座標的な)画像に感じている。

その円弧状の画像の情報は、脳への神経束を介して送られる。
この段階で電柱の画像情報は、バラバラに分解されて、視交叉を経て、
脳の中で再構築される。ここでわれわれはまっすぐな電柱と認識する。
目の端に見えていようが、中央に見えていようが、
おなじ形状の電柱だと認識している。
おそらく網膜に投影された画像は、微妙に変化していると思うのだが。

したがって目玉は光の量や色彩を検知するセンサーではあるが、
見るということの本質は、脳の働きということになる。
そしてこの脳の中で行っている作業はよくわからない・・・
(続きが書けたらまた書くことにする)


(SNS日記より 2016年10月19日)
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いくどでも、いつでも [宗教]

ボクたちはいつでも目覚めているわけではない。
ときに妄想し、空想の中で遊んでしまう。
そのたびに足元がふらついて、自分がどこにいるのか
わからなくなる。青い鳥を見つけたと興奮して、
「今」からさ迷いでてしまう。

それら迷いまみれのことがらは、むかしから
多くの人がやってきたことがらだ。
それが失敗だったと気がついても、気がついたことへ
気持ちがさ迷っていく。気がついたという思いが
新たな迷いの種子となる。

こうしてわけも分からず自分が何をしているのかも
わからず時間が過ぎていく。死の床まで同じだ。

死の淵へ行く体験などによって、いかに自分が
生の側にいて安心しきっていたことに気がつく。
身近な人が亡くなる、死病をする、重大な事故や
災害に遭遇する。

人はこんなに簡単に死んでしまう。あるいは自分も
あっさりと死んでしまうのだろう。
死の淵に揺られているいかだの上で、酔って騒いでいる
自分に姿に気がつく。いかだの上の気晴らしだった、
要するにそうして、人生の時間を費やしていたと気づく。

いく度でも、いつでもこの気付きに戻らねばならない。
この原点に戻るときに、このいまの生の現実に、
向き合い、真実に向き合う。そしてそれが
大いなる恵みなのだと。

偉大な宗祖はみなこのことがらを口にしていない。
言葉を飲んでしまった。口にすれば誤解され、
あやまった理解がされるのみだから。
かすかにその地点に到達するものへの暗示を残した。


(SNS日記より 2016年10月7日)
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おのずとそこにある節度 [科学・技術]

科学技術の発展により、微小の世界から宇宙の起源まで、さまざまな知見が
容易に知りうるようになった。この世のことがらの全ては科学的な見地から、
やがて解明されてしまうだろうと思う考え方も出てきていると思う。

2045年問題として知られる高度な発展を遂げた人工知能が、
全人類の知能の総和よりも高い知能を有するようになり、
その後の人類の歴史は予測がつかない、つまり人工知能に支配される歴史を
歩むのだという説を唱える人もいる。

その素朴な信仰にも似た思い込みが、出てくる傾向のあることは自分にもわかる。
声高にそれを叫ぶがごとくの人たちにも遭遇する。いわく宗教などそのような曖昧な
ことがらを信仰するなど、古くて凝り固まった考え方だと。

しかし科学技術は、無を科学することは出来ない。
何もないところから科学による探求をすることは出来ない。
まず現象があり、物質と物質の関係や関わり、その間に成り立つ法則を確認しながら
進歩してきたもので、その原初の部分に関して推測はできても、
法則や原理というものを打ち立てることは不可能だと考える。

その観点からいえば、科学の方法論というものは、すでに物の存在を前提にして、
その物の変化とか運動や、他のものとの働き合いを調べるものだ。
いわばプロセスの解明である。

玉ねぎの皮むきではないが、原因を調べて調べて、調べ尽くして、
最後は第一原因というものに突き当たることがあるかもしれない。
しかし、その第一原因を科学することはできなくなるだろう。
無からそれらが生み出されたことがらを言及したり調べたりすることは、
もうすでに科学の範囲を超えている。
なぜなら第一原因を分解したり要素への分解を試みることは出来ない。
それはただ在る。

基礎生物学の江口吾朗先生の言葉が示唆に富む。
NHKより出版された「驚異の小宇宙・人体」のなかで、
アナウンサーの山根基世さんと対談している。

江口「・・・ときどきどうしてこんなヘンな脳を神様はくれたのかなぁと
悩ましく思うこともあるんだけど。」
山根「・・・いま神様とおっしゃいましたが、先生は科学者でいらっしゃるけど、
私なんかと同じように、「やっぱり神様はいるんだ」と
お思いになることがありますか。」
江口「僕は、科学者にある種の信仰がなくなったら耐えられんと思っています。
さっきもお話したように、僕らがやっていることはプロセスを
つまびらかにすることであって、真理なんて絶対明らかにできないと思っている。
プロセスを明らかにしていっても、それは事実であって真理ではない。
プロセスをずっと突き詰めていってもいきつくところは要素というか、
モノの存在ですね。だから僕は真理が解けるなんて、
傲慢なことは思っていないです。」

「驚異の小宇宙・人体・生命誕生」より

もともと科学技術の発展の歴史の中では、それが神の存在を否定するような
類のものではなかった。むしろ神の創ったこの世界の謎を解明したいという、
好奇心的な関心が原動力になっていた。
微生物の発生に関して、牧師と牧師が激しく論争していたりした時代もあったくらいだ。

むろん歴史的には科学技術による解明が、神の権威や聖書の言及を
否定することにつながると、異端裁判などが行われたこともある。
天動説を否定する書を発行したということで、ガリレオが裁判にかけられて、
それ以降350年にもわたり、その名誉が回復されなかったということもある。

それらの不幸な出来事を差し引いても、科学的な実験や検証により、
なぜおおもとの存在の否定になるのか、科学と宗教とが、なぜ二律背反のように
両立しないと捉えられるのか不思議なことだ。
科学主義というひとつの信仰になっていて、領域を超えて原初の存在の否定を
行うなどは行き過ぎであろう。
プロセスを明らかにするという科学技術的な姿勢には、節度というものがある。


(SNS日記より 2016年10月6日)
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棺を覆いて事定まる [人生]

その人の棺桶の蓋をしめるときに、その人物の評価が定まるとの意だ。
生きている内に軽々と人を評価するなという意味にも取れる。

ある知り合いの死に向き合って、その言葉が思い浮かんだ。
詳細は述べないが、生前、人前でに語っていたことや行っていたことが、
じつは私生活では正反対であることが遺族とのやりとりで明らかとなってしまった。
その何とも言えない不快さ、疲労感は、いまだ心に残る。
日本には、晩節を汚すという言葉もある。

ある書に、こんな言葉があった。
いちばん幸せな人とは何か、という問答だ。

紀元前6世紀ころ、栄華を極めていたリディア国の王、クロイソスは、
アテネの政治家ソロンと対談した。
この世の幸せを独り占めしたかのようなクロイソスは、ソロンに、
「あなたが会った中で、いちばん幸せな者は誰か?」
と聞いた。
むろん眼の前の王です、という答えを期待していたのは言うまでもない。
ソロンは、名もなく富もない人の名をあげた。
クロイソスは、ムッとしたのか、再び問い詰める。
「私自身の幸せには価値が無いと思われたのか?」
ソロンの答え。
「人生は偶然である。今運に恵まれているからと言って、
それが一生続くとは限らない。
人間は、生きている間『幸運な人』とは呼んでも、
『幸福な人』と呼ぶのは差し控えなければならない。」
幸運な人は、幸福な人とは限らない。
見事な死に方をした人こそ幸福な人である、
という意味の答えをした。

この後、リディア国はペルシアとの戦に破れ、
クロイソスは国を失い、火炙りの刑に処せられたとある。

この話は、古代ギリシャの歴史家ヘロドトスの歴史書にある話らしい。
「幸福問答」と呼ばれている。


(SNS日記より 2016年10月1日)
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歎異抄を学ぶ [浄土真宗]

南信の山間の小さな集落にある介護施設の広間で、ほそぼそと続けられてきた
「生と死を考える会」。おもに宗教に関係した教えを学んだり、
死の問題などを調べ語り合うという趣旨の会であるが、
今年7月にこの会の主催者であり代表者であったH先生が急逝された。

8月の集まりは先生を偲ぶ話し合いとなったが、また今後の会の運営について
話し合いを持った。その結果、代表者は自分(saborich)が引き継ぎ、
今後も活動を継続していくことでメンバーの意思がまとまった。
会の名称も「阿吽の会」と改称した。

そこでメンバーの方から、浄土真宗の代表的な文献である歎異抄を、
深く学びたいという希望が出てきたので、歎異抄の朗読会と討議や話し合いを
当面の方針とすることとした。大まかな目安としては、毎月、歎異抄の一つの条を
輪読し話し合うということにした。

参加者は、それぞれ様々な人生を経験された方々だが、宗教の本質とは何かという
熱い探究心を持たれた方たちだ。歎異抄を読みながら、
ついそれぞれの経験や思いを披露するような進行になってしまうが、
それがまた貴重に感じている。

この会のなかで話し合われたことがらや出てきた問題点、疑問点、
それに対する考えなどの内容を、ささやかながら記録しておきたい。

++++++++++++++++++++++++++++++++

前回の8月の話題で、こんなことを冒頭お話した。
歎異抄の第一条には歎異抄全体を貫く考え方がまとまって出てきていて、
重要な序章であると思う。ある意味で、この冒頭部分が理解できるならば
浄土真宗のエッセンスがわかると言っていいだろう。
それがひいては宗教の本質につながるものと信じている、というような内容だ。

さて、この第一条であるが、現在主流の解釈の仕方に、自分はどうも引っかかるところを
感じていて、素直に文章が入ってこない。それを少し記しておきたい。

第一条の書き出しの一文は、次の通りである。
「弥陀の誓願不思議にたすけられまいらせて、往生をばとぐるなりと信じて、
念仏もうさんとおもいたつこころのおこるとき、
すなわち摂取不捨の利益にあずけしめたまうなり。」

意味の概略は、阿弥陀如来の誓願(みなを救うぞとの誓願)の不思議な働きによって、
われわれが救われると信じて、念仏を称えようと思う気持ちが起こるときに、
救いの瞬間がやってくる、といういう言明だ。
たいていの解説書には、このような現代語訳が出ていると思う。
本願寺出版の歎異抄の訳文もだいたいこのようなことがらが書かれている。

異を唱えるわけではないが、誓願により救われると信じられて、
その結果念仏を称えるという行為が起きる順番になっている。
どうも自分はこの順番が本当のように思われないこと、
それに弥陀の誓願が信じることにより、という言葉に引っかかりを覚えてしまう。

たいていの訳文は以上のとおりで、梅原猛氏の訳もこの路線だし、
五木寛之氏の私訳では、「その大きな願いにみをゆだねるとき」となっている。

いっぽう次のような訳文があり、自分の思いとぴったりすると感じている。

「阿弥陀如来の誓願の不思議な働きにたすけられて必ず浄土に生まれる人生を、
自分は今現に生きていたのだと気付いて、念仏を称えようと思い立つ心が起きた時、
その瞬間に、阿弥陀如来の、すべての存在を摂め取ってすてない利益を
いただくのであります。」
    池田勇諦、中西智海監修
   『傍訳 原典で知る 歎異抄・正信偈・和讃』

ここには信じるという言葉が出てこない。そのかわり救われている現在に
気づく時となっている。信じるというこちら側の何らかの行為によって、
救いの扉が開く、ということではないということである。
その反対は、信じなければ救われないよ、という意味になってしまう。
これは変だ。
信仰は自分が救われてあることの発見、気付きのはずである。
こちらの前提や条件のことを論議する前にそうなのだ。

また山崎龍明氏が、このように自分は理解していますと語る文章も、
素晴らしいと思う。
曰く、
「幸せとは地位、教養、財産、健康などにあると思っていた私ですが、
自分が考えもしなかったアミダ仏の法に触れてみると、
まったくそれが誤りであるという世界が開かれてきました。
この教えにしかとうなづき、感謝の念仏をしようと思いたったとき、
もうすでにアミダ仏の大いなる世界に生かされている(救い)ことに
気づいたのです。」

    山崎龍明著『歎異抄を生きる』より

なお念仏とは本来、呪文のように称えるものではなくて、
自分を生かしめている大いなる存在への気付きと感謝の意を表すものである。


(SNS日記より 2016年9月26日)
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宇宙のはて、そしてあの世 [宇宙]

宇宙の果てと聞くと、何かエキセントリックで、すごいことを考えている気分になる。
しかしこれは言葉の綾で、宇宙の果てというものを見たり観測したりすることは
できないだろう。

背理法という証明法がある。いちおうこれが正しいとして話を進めることにする。
(背理法が成り立たないこともあることを、ゲーデルは証明したのだが)

もし宇宙の果てを見たり観測できたとすると、それは境界が認識できたことになる。
その境界は、こちらは宇宙であり、向こうは宇宙でないものの境目だ。
しかし宇宙でないものを、原理的に知ることはできない。

もし宇宙でないものが、ガラス越しに外の景色を見たように見えたとすると、
そこはまだ宇宙の内になるだろう。何らかの信号なり電磁波なりが
そこからやってくるということになる。これは宇宙の内側の世界のできごとだ。

したがって宇宙の果ては、わからないということになる。
観測にはかからない。宇宙の体積が有限であり、それ以上の広がりはない
という間接的な証明により、宇宙は無限ではないということしか言えないだろう。

このことはボクたちが2次元の生物で、面の中で生活していると仮定すれば、
そのアナロジーでなんとなく分る。
この2次元の面の構造が、真っ平らでとこまでも広がっているならば、
もちろん果てはない。曲率が負の曲面でも同様だ。曲率がプラスの、
たとえば球面の中にいる場合はどうだろう。
この場合は、世界の体積は(面積は)有限であるにも関わらず、
どこまでも進んでいくとぐるりと回ってしまいもとへ戻る
というようなこともあるだろう。

球面のような場合にも、その宇宙が有限ではあるけれど、
やはり果てというものを見出すことはできない。
世界でないところと世界との境界線は見いだせないのだ。
このことは3次元のボクたちの宇宙でも同様だろう。

話は急に変わるのだが、臨死体験とか死の世界を見たと言うような話を
熱心に調べている方がいる。この生と死の境界というものが果たして、
認識にのぼるものだろうか。宇宙の果ての話と酷似しているように
思えてならない。

生は生の世界で閉じている。いちおう生と死は両立しない反対の概念だとすると、
境界がわかるときは、死の世界の何かのことがらが、
生の方に滲み出ているということになる。
しかし死の世界のことがらは、死の世界であって、生の世界とは関わらない。
滲み出ているとすればそれは生の世界の出来事であろう。
あるいは向こう側を想像しこちらから腕を伸ばしたその腕のことだろう。

あの世を信じる人は多い。
しかし死は生を失った状態だとすれば、生のない世界、
いわば無の世界から一体何がやって来るのだろう。
生の世界で通用する手段を用いて、無の世界とどのようにして
交流するのであろう。
あの世のことはわからない、無関係のものではないだろうか。


(SNS日記より 2016年9月25日)
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池田晶子さんの言葉をめぐって [死]

若くして亡くなった哲学者池田晶子さんの言葉を、折にふれて紐解く。
思考するということの力強さを、いつも感じさせてくれて思いを新たにする。
また真実にも。

今日はこのような言葉を味わった。
「そもそも私たちは、自分の決断で生まれたわけではなく、
自分の決断で死ぬのでもない。生まれて死ぬという、
人生のこの根本的な事態において、私たちの意志は全然関与していない。
気がついたら、どういうわけだか、こういう事態にさらされていたわけです。
・・・(略)
人間が自分の意志でできることなんか、たかが知れているのです。
人生は自分の意志を超えているのです。」
      『死とは何か』より

このことはもっとも単純、わかりきったことだなのが、日々の暮らしの中で、
自分の意志とか意識とかがもっとも優越していて、
この世の中や宇宙でさえもそれに膝まづかねばならないと思ってしまう。
このノーテンキでお調子者の自分たちは、どうしようもない存在だと思う。

認識という作用自体が、そのような構造を含んでいると考えられている。
主観があって、その向こうに対象がある、ということは常識となっている。
主観と客観とを分けてしまったために、その関連がわからなくなる。

この構造のベースにして、宗教を考えてしまうから、余計ややこしくなる。
こちらに自分がいて、向こう側に神がいるのかいないのかという
議論になってしまう。信じるとか信じない、あるいはいるとかいないとか。

池田さんの言葉をそのまま持ってくれば、神はあなた自身も含んだものです、
あなたの存在、あなたの思考それらもろもろをすべて包み込んだものです、
ということになろうか。

生み出されたのが自分であって、自分が信じるとか信じないで
神が向こう側に生まれたり消えたりするのではない、ということなのだが、
自分意識優越の立場から脱却できないから、
この単純な理屈すらわからなくなる。
孫悟空のひとっ飛びが、たかがお釈迦様の手のひらの中の話だった
というのに似ている。

池田さんの次の言葉も好きだ。
「奇跡とは、何か変わった特別の出来事をいうのではなくて、
いつも当たり前に思っていたことが、じつはすごいことだったと気づく、
そういうことなのです。
この奇跡に対する驚きの感情が、感謝という感情の基礎にあります。
自分が存在することへの感謝、それはおそらく人間にとって、
究極の感謝でしょう。」
      『死とは何か』より


(SNS日記より 2016年9月15日)
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この頃考えさせられた免疫の話 [日常]

・・・長い前置き・・・
このコラムのスタイルが終了となる、あるいは改変されるということが
アナウンスされています。その詳細はいまだ不明ですが、
日記の形式をこれまでより、機能拡張して、公開範囲も拡大される・・・
と予感がします(オマエは予想屋か・・・)。

自分はこれまで、コラムというからには、あるレベル以上の格、
あるいは質、内容を伴わなければ、記事にしてはイカンのだと固く思い込んでいたので、
そんな高レベルなものが毎日書けるわけないじゃん、とか思ってました。

でも一連のコラム騒動(?)で、参加されている方々の考え方、
スタンスというものをハダで感じることができ、じつにさまざまな考えが
あるものだと驚嘆しました。それに読者の立場からの声も聞くことができたし。

なんだ、そんな肩肘張らず行くかなと、思い直しました。
それからコメント書かせていただいたり、くだけたスタイルで書いていいのかもね、
と今頃になって姿勢を変えたような次第です。
(くだけたスタイルは本当を言うと、自分にいちばんあっているスタイルです)
・・・前置きここまで・・・

前置きが長くなりました。
じつは免疫の話なのですが、これは多田富雄さんという著名な免疫学者の方が、
著書で示されたことがらを、作家の五木寛之さんが文章にされていて、
それを読み深い衝撃を受けましたという駄文です。

一つ例を挙げると、動物には胸腺という組織があって、心臓の裏側にメッシュ状に
広がる組織だそうです。免疫機能の重要な部分を司っている部分だそうです。
この胸腺は、身体におけるあらゆる器官が、自分であるか自分でないかを
判定し続ける裁判官のような役割をします。

にわとりとうずらの受精卵を持ってきて、その神経管というあらゆる臓器を
作り出す元となる部分に実験を行います。
にわとりの将来羽になる部分を切り取り、うずらの同じ部位を移植してしまいます。
するとこのにわとりは、うずらの羽を持ったにわとりになります。
しかし胸腺の組織がゆっくりと完成して機能をはじめると、この羽根は、
本来の自分のものではないと判定して、その組織を排除します。
羽は腐り落ちてしまうのだそうです。このにわとりもやがて死にます。

もう一つの実験。
今度は、羽の部分ではなくて脳の組織についても同様の移植実験を行います。
つまりにわとりの脳になる部分を神経管から切り取り、
うずらの脳になる部分と交換してしまいます。このにわとりは、
成長してうずらの脳に従った行動をするようになります。
鳴き方とか歩き方ですね。

そして胸腺組織がゆっくりと完成して、機能を始めます。
どうなるかというと、体が麻痺し脳が腐り始め、やがて死んでしまうのです。

鳴き方歩き方など、脳という組織は、体のすべてを制御する
全能の器官というふうに捉えてしまいますがそうではなく、
胸腺という免疫組織が、脳を超越するほどの権限を持つ最高裁判事であった
ということを示しています。

脳ですら、自分のものではないと判決を下す超強力な裁判官とは・・・
これは脳の機能と思われる、意識や意思などを超越する権限を持つものですが、
免疫が行っていることは思考の世界ではない何かですね。

蛇足ですが、将来胸腺になる部分を入れ替えてしまったら、
このにわとりのあらゆる器官が、自分(うずら)ではないと
判決を下すのでしょうか。
でもゆっくりと完成する組織なので移植は不可能かもしれません。

(SNS日記より 2016年9月12日)
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こだわる僧侶 [禅]

中国唐の時代に、趙州禅師という有名な方がいました。
この方は、57歳のとき師が亡くなるまで師に仕え、3年喪に服した後、
さらに学ぼうと全国を旅して行脚を続け、80歳になって初めて小さなお寺に
住したという遅咲きの和尚さんです。

120歳までの40年間を教化に努められた。その言動録が、
趙州録として残っています。けっして易しいものではありませんが、
趙州和尚の日頃の気持ちというか、息遣いを感じることのできる貴重な書です。

「至道は無難、ただ 揀択(けんじゃく)を嫌う」という、第3祖僧燦の
信心銘の句を好んで使ったそうです。意味としては、仏教の大道の要点は、
選り好みをしないことなのだ、ということなのです。

ある僧侶が、趙州和尚に質問します。
「和尚は日頃、仏教は選り好みをしないことだ、と言われておりますが、
選り好みをしないということも、一つの選り好みなんじゃないですか?」

すごく嫌味な質問です。選り好みしないという選り好み、
そういうものに堕しているのではないかと、ひねくったことを言ったのです。

このときの和尚さんの答え、味わうほどにその素晴らしさに気付かされます。
趙州はなんと答えたかというと、
「前にね、わしにそのことを質問したものがあってなあ、
それ以来5年というもの、まだわしは答えができずにおるんだよ。」

僧侶は、おそらく言葉の矛盾を突くことで、趙州和尚をやり込めてやったと
思ったことでしょう。もし趙州和尚が、その矛盾について解説したり
弁解したりしたら、まんまと仕掛けた罠にハマり、
選り好みの極に入ってしまうのです。つまり言葉のこだわりの罠に入り、
日頃説教している境地とは、真逆のものに成り下がってしまいます。

こういう矛盾を突く人がたまにいますね。
仏教の教えの基本は、諸行無常ですと言うと、その教えも
移り変わり変化するわけですね?じつにいやらしい質問ですが、
論理的にいえばその通りです。この論理的にいえばというところ、
論理にこだわっているわけです。

趙州さんの答えは、僧が仕掛けた罠にはまって弁護するのでなく
(その論理にだわるのではなく)、その意地悪な質問を否定するのでもない
(聞くんじゃないと怒るのでもない)のです。

まだ答えが出ないんだよねと、暗にその答えなんか無いよと匂わせているのです。
このやり取りはじつに即妙というか見事に感じますね。


(SNS日記より 2016年9月5日)
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