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慕う人 パスカル [思想]

これまでの人生の中で、機会あるごとに手にして紐解いたのは、
パスカルのパンセ。翻訳の異なるパンセが書棚にいくつあるのかな。
若いころに傍線を引っ張りながら読んだ松波信三郎氏の翻訳は懐かしい。

パスカルは、物理学者、数学者として名が知られているが、
思想家、哲学者、そしてキリスト者でもあって、
その人物像に尽きない魅力を感じる。

その魅力の深層を探ってみると、理性的な精神を持ちながら、
宗教という理性を超えた世界にも敬意を持ち続けたこと。
理性の限界と、それを超越する世界の存在を感じ続けたということだ。

味わい深い短い言葉を二つ。

「理性と行き過ぎ:
  二つの行き過ぎ、
  理性を排除すること、理性しか認めないこと」

「理性と宗教:
  もしすべてを理性に従わせるとしたら、
  わたしたちの宗教には神秘的なところも
  超自然的なところもなくなってしまうだろう。
  もし理性の原理に反するならば、
  わたしたちの宗教は不条理で滑稽なものと
  なるだろう。」


(SNS日記より 2016年9月3日)
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慕う気持ちになる人 [禅]

三十年余りずっと持ち続けている書があります。
本の題名は『信心銘』という禅書の解説書。
昔の製本だから紙は黄ばみ、閉じ部分もバラバラに
なってきたので綴じ直して補修しました。

信心銘を著したのは中国禅の第三祖、僧燦
(そうさん、正しくは燦の火へんが王へん)という方。
この僧燦という方に、昔からなぜか親しみを
覚えて仕方ありません。

この僧燦;は西暦540年ころに、第二祖の慧可にあい
出家しました。慧可に出会ったとき、僧燦は42歳だったと
言われています。かなり遅く中年オヤジになってから出家したわけです。
しかし、この方がいなかったら中国の禅の広まりはありませんでした。

そもそも僧燦;が慧可に教えを乞うたのは、
次のような事情だったといわれてます。
「私は体中業病にまとわれています。
どうか和尚、罪を清めてください。」
この業病とはライ病だったという話があります。

慧可は言います。
「その罪をここに持って来い。
そうしたら祓い清めてやろう。」
しばし無言の後、
「罪をつかまえられません」
慧可は、
「お前は自分に罪はないと本当にわかったのだな。
これでお前の罪を祓い清めたことになる。
これからは仏法僧の三宝に帰依して
生活しなさい。」

仏法僧とは何ですか、という質問に対し、
慧可は教えます。そして、
「この業病の原因と思っていた罪性は、
内にも外にも中間にもない。不可得の空で、
心の本体も同じく空である。」
このような説法で、僧燦は悟ってしまったとのこと。

このとき慧可は喜んで、
「深くこれを器とす。
これ我が宝なり、
よろしく僧燦と名づくべし。」

燦とは、美しい玉の意味で、
玉の光りかがやくさまを燦々とも言います。
いかに慧可が喜んだかということが伝わります。

この僧燦は110歳あまりで、大樹のもとで
立ったまま合掌して亡くなったとあります。

信心銘の書き出しは、あまりにも有名な句です。
「至道は無難、ただ揀択を嫌う」

この意味は、宗教的な真理を体得することは
わけもないことだ。それを妨げるのは、
選り好みをするという相対観を持つことだ。
(ちなみに白隠禅師の師匠の師匠は至道無難という方。)

このような対句が73出てきますが、一貫して
この分別心による差別や区別、蒙昧の見方、あり方を
指摘します。

そういう意味では極めてシンプルな教え。
しかし体得は難しいです。


(SNS日記より 2016年8月31日)
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夜にうつらうつらと想う [思想]

夜、書斎に上がって、本を読むでもなく、何かをするでもなく、
ただ何時間も何ごとかを考え詰めている、という時間を過ごすことが多い。

先程から、どこかの本で読んだ文章が気になって、
ふたたびその文章を読みたいと思うのだが、
どの本であったか思い出そうとしても出典がわからない。

うろ覚えの文章とは、こんな内容だった。
ハイデッガー(ドイツの哲学者)が、死を前にしてか不明だが、
禅仏教のことを知り、とても残念がって、もし若い頃に禅を知っていれば
自分の哲学はかなり変わっていたことだろう。
そんな述懐が記されていたのだ。

若いころに、ハイデッガーを理解しようとして苦闘した記憶がある。
当時、キルケゴールという哲学者の著作をかなり読んでいて、
ハイデッガーはその後継者とみなされていたので、どのような
つながりがあるのだろうという関心があった。
それにハイデッガーの主著『存在と時間』があるが、
哲学の根本問題に真正面に取り組む姿勢が魅惑的だった。

しかしハイデッガーの著作には、ドイツ語ならではの造語に似た
新しい用語が使われていて、ドイツ語で読まないと本来の意味が
見出せないことがなんとなく感じられて、理解を断念してしまった。

思い出せないある本の文章によると、実存哲学の最後の巨人と
言われているハイデッガーが、禅で述べている哲学と言うか思想に
収束しようとするものを直感したとするならば、
ハイデッガーが追い求めたものは、意外に自分にとっても親しみやすいもの
だったのかもしれないと思えてくる。

ハイデッガーの試みはこうだ。
存在というものの秘密を解く鍵は、人間にある。
そこで人間存在の本質を追求することで、存在の秘密が明らかになる。
「ある」ということはなにを意味するのか、
その通路として人間の在り方を調べていくという手法なのだ。

では人間の存在とはなにか。それを端的に表現する言葉として、
「現存在」といういい方をするのだが、まあ実存という言い方の方が親しみやすい。
そして現存在の本質とは何かと問うわけなのだけれど、
ハイデッガーは、投げられた存在なのだという。
この投げられた存在という言葉が、若い頃はどのような背景から
出てくるのかわからなかった。

しかし今思えばそれは、人間は「自分の力で」生きている存在ではなく、
「なにものかにより」生かされていることだ、という意味ではなかったかと気づく。
もちろん人間は、おのれの将来を決めるべく将来像を作って
それに向かって努力するということがあるだろう。
しかしなんといっても人間の存在の始まりは、投げ出された存在、
気がついたらそこにあった、という存在形態なのではないか。

主著『存在と時間』は完成を見ないまま、前半部分で終わっていて、
後半に当たる部分は、講演会などで語られているようだ。
禅を知っていればといった後悔の念というのは、
この語りの中に出てきたものかもしれない。

自分という存在が投げ出されたものと規定するのならば、
その投げ出したものは何か、投げ出される場所とな何かと
問われないければならない。
それはまさに禅が追求していく自分自身というものと
無縁ではありえないと思われる。


(SNS日記より 2016年8月29日)
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アンビバレントな感情 [いのち]

人間の意識には思っているほど主体性がなく、むしろ無意識に始まる動作や感情の
後追いになっていることが、リベットの実験によって明らかになってしまいました。

とはいっても意思や気持ちというものを、自分たちしっかりは持っていると
感じています。意思や感情は、自分で決めていると思っています。

無意識に感じたこと、行動したことと、意識化された自分の気持ちや行動の
この2重構造は、事態を複雑にする要素を持ちます。
いろいろと厄介な問題を生み出しているのではないかと思います。

たとえば本当は嫌悪する人間が、立場の上で上司であるので、
上手くやっていかなければならない。
あるいは、嫌いな感情jしか持ち得ない酷い親でも、付き合わざるを得ないとか
場合によっては世話をしなければならない。

われわれは自分の行動を合理化してしまう天才です。いや脳はそのような働きを
する存在です。道徳や世間体やもろもろの制約のもとで、原初の感情や行動を
抑制しながら生きることを選びます。そしていつしか、原初に感じたものを
無いものにしてしまう。存在すら無いことになってしまう。
そして嫌いな人間を好きだと思い込んだり、この親は大切な存在なのだと
信じるようになります。

このような相反する感情を同時に持つことを、アンビバレントな感情と
言ったりします。

そして問題化するのは、上から蓋をした規律やら道徳やら、経済的な制約が、
破綻して用をなさなくなった時です。無意識領域まで押し込めていた感情や行動が、
吹き上がってきます。自分でも理解し難いくらいの激しい怒りや、
憎悪などがいっきに湧き起こるというようなことがあると思うのです。
犯罪が行われる際には、このようなネガティブな感情や行動が、
開放されるという面があるのではないかと推察します。

ドストエフスキーの「罪と罰」に、主人公のラスコーリニコフが金貸しの老婆を、
斧で惨殺する場面が出てきます。
この描写は自分のなかで強い印象で記憶されています。

ラスコーリニコフが最初の一撃を加えるとき、迷いながらゆるゆると
斧を振り下ろすのですが、いちど行動を始めてしまうと、
次からは憎悪がこもったようにやり遂げるのです。
最初の一撃は、世の中の制約や道徳に逆らうかたちで行動したのでしょう。
しかし2回目からは封印されていた感情が爆発するのです。

それほど劇的な事象でなくとも、ふと湧く嫌悪感や怒りというものの背景には、
このような封印されたものがあるのではないかと思います。
普段の平静な自分からは想像もつかないものを発見するとき、
驚きをもって見つめますが、やがて封印されて普通の生活に戻ります。
そしてじわじわとなにかが荒廃していくのです。

なぜこのようなことを書くのかといえば、親との確執に何十年と苦しみ、
まさにこの道をずっと辿ってきた自分の経験から、
原初の感情をしっかり見つめていくことがいかに重要かと思うからです。
おのれの中にある悪人の存在を知ること、自分を善人だとはおもわないこと、
自分を誇らないこと、親鸞聖人の言葉の端々からうかがえる事柄は
このようなメッセージです。


(SNS日記より 2016年8月25日)
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早撃ちガンマンがどうしても撃てない [脳]

むかし不思議な世界を紹介する番組があって、いまだに印象に残っている技が紹介されていました。

それは早撃ちのガンマンが登場して、目の前にいる武術家を撃つという企画です。
ガンマンと武術家は至近距離で向かい合います。好きなタイミングで早撃ちガンマンは
撃っていいのですが、何度試みても武術家を撃てません。
正確に言えば、撃つどころかガンホルダーから、銃を抜く動作すらできません。
抜こうとすると武術家が、その手を抑えこんでしまうからです。

早撃ちガンマンは、0.2秒ほどで銃を抜き撃つことができるようです。
武術家はガンマンの手が銃に伸びた瞬間をとらえ、次の行動を起こすはずです。
人間の目で認識した内容を脳に伝える時間、それから銃を制止する動作を
起こす時間を加算すると、0.2秒程度はかかるのではないでしょうか。

ちなみに、100mの短距離走では、スタートの合図より0.1秒以下の体の動きは、
フライング、つまり山を張ってスタートしたとみなされます。
人間の反応として0.2秒程度の時間を要するということでしょう。

ガンマンが手を動かし始めて弾を撃つ0.2秒位の時刻に、ようやく武術家は
それを止めようと手を伸ばすというのが、ふつう考えるストーリです。
ところがガンマンは銃をホルダーから抜けません。
ガンマンより早く制止動作を行っているということです。

その番組では、実験後にガンマンに尋ねていました。なぜ撃てないのですか、と。
するとガンマンの答えは、ちょっと意外なものでした。
撃とうと思った瞬間に、何かがわっとやってきて動作を止められてしまう。
とうてい撃てる感じがしない、と。

似た話は別のことでも聞いたことがあります。
居合道の名人に、素人さんが襲いかかるという設定で、襲撃を試すのです。
結果は、襲撃の瞬間に名人は気合の声を発して、襲撃者は腰砕けになってしまうのです。
立っていられなくてしゃがみ込んでしまうのですね。
見た印象では、襲撃者の意思を打ち砕くという風に見えます。

武術家の達人たちは、どうも銃撃や襲撃が行われるその意思が発生した瞬間に、
反撃動作を開始しています。そうしないと間に合いません。
この推論は、前日記で紹介したリベットの実験結果と符合します。
意識に上るより0.3秒位前に、無意識な行動がスタートしていることが
脳の電位変化からわかったわけですが、まさにこの無意識の領域を
使っているということです。

武術家を襲うということがいかに難しいことかわかりますが、
殺気を感じるというのも相手の意思が生まれていることを検知したのかもしれません。

無意識の領域の行動を鍛錬し、自然な動きを実現するところに武道の奥義が
あるのだと思われますが、じつに深いものです。
また意識の作用しない領域のなかで、どのようなやり取りを
瞬時に行っているのか興味深いところです。


(SNS日記より 2016年8月24日)
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深く理解し納得する [悟る]

真実の言葉というものは、平明で、かつ大した意味を持たないように感じてしまう。
しかし、それは言葉を受け取る器が小さいためで、その深さがこぼれ落ちている、
ということがある。

昔読んだ本が、新鮮な驚きで蘇るという経験は、じっさい長年生きてくると起きる。
繰り返し読まれる書は、こちらが経験を積むほどに、真実に触れていたのだと
気がつくことが多い。

おそらく宗教の書に現れる言葉は、どこまで心境が深まっても読み尽くせない淵を
持っている。

同じことが人物に対しても言える。その人物の深さというものは、
外見や容姿などから容易に推察できるものではない。
偉大な人物が傍らを通りすぎても、目の暗い人にはそれを感知することができない。

般若心経のなかで、数多く呼びかけられている舎利子(シャーリプトラ)という方。
釈迦の弟子になる前は、250人の弟子を抱える大きか教団の主催者であったらしい。
そのシャーリプトラが、ある日端正な振るまいと静かな歩みで道を進む若者に、
惹きつけられた。

その若者は釈迦の教えを聞いて日の浅いアッサジという弟子だった。
シャーリプトラはこの若者に問いかける。
あなたはどのような教えにしたがっておられるのかと。

するとアッサジは答えて、釈迦という方の弟子になったばかりで、
すべてを存じているわけではないが、と釈迦の教えを語った。

このときにシャーリプトラは悟りを得たと書かれている。
そして250人の弟子とともに釈迦に帰依した。

この話は誇張して作られた物語でなく、おそらく本当だろうと考える。
真実への目が開くぎりぎり直前に、アッサジに出会い、
その言葉によって、一気に理解と納得に至った。そういう風に感じる。

何を理解し、何を納得するのか、という話があると思う。
縁起で成り立つこの世の成り立ちと自我ということに尽きると思う。
このなかに生死の問題や、諸々の事柄が関連する。


(SNS日記より 2016年8月23日)
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リベットの実験 その2 [脳]

(前日記のつづきです)

リベットの行った2番目の実験の結果について記します。
こちらの実験結果も、ある意味でかなり衝撃的なものでした。
この実験では、人間の意思というものがうまれ、
それが体の運動になっていくプロセスを、時間的な推移を追って
調べたものです。

脳の電位を計測しながら、被験者にボタンをしてもらいます。
ボタンを押そうという意思が決まった時刻を計測するために、
被験者は目の前の時計の針に注目します。
押そうと思ったときの針の位置を記憶します。
そして実際に手が動いて、ボタンが押された瞬間も計測します。

押す意思が決まってから、だいたい0.2秒ほどの時間が経過して、
実際のボタンが押される結果が出ました。
このくらいの遅れはあるものでしょう。

しかし驚くことは、ボタンが押される0.5秒前に、
手を動かす脳電位には変化が生じており、
手を動かす動作が開始されているという事実でした。
ボタンが押される0.5秒前というのは、変な結果です。
なぜならボタンを押そうという意思が固まる0.2秒前より、
さらに0,3秒も前の時刻だからです。

意思を固めた時刻の計測方法に、疑問が呈されました。
しかし視覚処理の時間、神経の伝達時間など考慮しても、
0.3秒という時間は長すぎるということで、
これらの批判はその後否定されています。

この結果は、人間が動作を開始しようとする意思や意識が生まれるよりも、
かなり前の時間に脳の電位は動き始めていて、
それを自意識では意識していないことを意味します。
手を動かそうと思った時には、すでに手は動き始めているということです。

自由意志というものが果たして人間は持っているのかという議論が
なされているようですが、まだ結論は出ていません。

しかしこの結果は、日常の経験からは納得いく部分もあると気が付きます。
感情が昂ぶったあまり思わず子どもを打っていたとか、
思いもしない言葉を吐いてしまったとか、
自制心とは別に「無意識の行動」を起こす仕組みがあって、
何かの折にそれが噴出するように現れる、あるいはやってしまう。

人間の行動には、自分では意識しない部分で行動をすでに
始めているのではないか、という感覚です。
すると理性的な人間といっても、それは自分の行動を自分で意識できる
時刻以降のことがらであって、意識する前の行動に、理性の抑制は利きません。
つまり気が付かないうちにやってしまうのです。

この自由意志がないのかも知れないという実験結果は、
人間の本質に迫るものを秘めていて、奥深いものです。
前日記にも記しましたが、人間の行動は、体や無意識で働く回路によって
引き起こされていて、意識はそれを後追いしている存在に過ぎないということです。

話は突然飛躍しますが、親鸞聖人の言葉を思い浮かべます。
「さるべき業縁のもよほさば、いかなるふるまいもすべし」とは
歎異抄十三条の言葉です。自分が善人であるという自認は、
おかれた環境や働きにより何の力も持たないのだという事実を
示していると思います。自力の限界を示しています。

偽善者はなぜ偽善と呼ばれるのか、それは自分の力で
自分は善人でありうると固く信じているからです。
しかしリベットの実験は、その思いを打ち砕きます。
自分が善人だ、だから悪いことは犯さないという意識が生まれる前に、
すでに何らかの行動を起こし、あるいは何らかの感情を持つわけですから。

自分は悪人なのだ、地獄行きは間違いないと明言する親鸞聖人には、
この内面のこころの動きを直覚していたのだろうと思います。


2,016年8月20日 SNS日記より
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既成概念を変えてしまう実験 [脳]

最近出た本を読んでいますが、じつにねじれた気持ちを持ちました。
と同時にやっぱりそうなんだという納得の気持ちもありました。(注)

その本の著者はこのように書いています。
「今人間は、自分たちのもう一つの特別さ・プライドを捨てねばならない局面を
迎えていると私は思う。
私たちは自由意志など持たず、クモや雲と同じで、環境の作用をただただ受け入れて、
行動が必然的に決定しているだけの存在であることを受け入れる、
そんな局面を迎えているのだ。」

そのことを明らかにした実験とは、ベンジャミン・リベットという
米国の神経科学者が行ったもの。2つの種類の実験がありますが、
ここでご紹介するのはそのうちの一つです。

開頭手術が必要な患者の脳に、直接電気刺激を与えます。
上腕部の皮膚に触られている感覚をつかさどる部位に、刺激を加えると、
患者は上腕部が触られているという意識を得ます。これは当然な結果です。
リベットは、その時間的な経過を調べました。
驚くことに、0.5秒以上の時間、電気刺激が加えられないと、
意識には触られたという知覚が生まれないことを明らかにしたのです。

つまり0.5秒以上の刺激が続いたあとで、はじめて脳はその刺激を知覚する
ということです。別の脳の部位に関して同様な実験を行っても結果は同じだそうです。
われわれは、世界で起きている事象を、いろいろな感覚器官で知るにせよ、
0.5秒ほど遅れて知覚しているということになります。
いわば意識は0.5秒遅れで、ズレているということです。

それではなぜわれわれは高速道路で車を運転でき、バッティングセンターで
ボールを打つことができ、バドミントンや卓球競技ができ、
すばやい動作でスキー板を操れるのか、ということになります。

リベットの導き出した結論は、驚くべきものでした。
それはわれわれの脳は、まだ意識を伴わない0.5秒前に無意識の力で
環境変化に遅れないように、適切に対応して行動している。
そして、意識はそれを追いかけている「遅れている追従者」なのだ
という結論でした。

意識や意思というものは力を持たない存在で、意思や意識で環境を
変化させていると思っているのは、完全な誤りで、
いわば錯覚なのだという結論になります。

かなりびっくりするような結論です。
いっぽうで、スポーツにおける繰り返し練習の重要性がなぜ叫ばれるのかが、
すぐ納得いった気がしました。基本練習を繰り返すことで、
意識的に行っていた適切な運動要素を、しだいに何も考えずに
苦もなくできるようになります。無意識に体が動くらいに熟達したときに、
初心者のぎこちなさが消え、適切ですばやい運動をこなすようになります。

車の運転もそうですね。教習所で練習しているときは、左右を確認しながら、
ウィンカーを点灯させ、ギアをローに入れクラッチを徐々につなぎながら、
右折するという動作の習得に苦労しました(マニュアル運転です)。
それが、いまはいつ切り替えたのか覚えていないのにきちんと運転しています
(今はオートマになりましたが)。

技は体で覚えろ、と昔から言われています。まさにその経験を裏付けるような
実験結果です。しかし意識とか意思というものの地位が変化したのは確実です。
つまり第一番の位置から滑り落ちたのです。

(注)妹尾武治著『脳は、なぜあなたをだますのか−知覚心理学入門』 ちくま新書


2016年8月19日(金) SNS日記より
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ブログのタイトルを変えました [こころ]

旧ブログタイトル「OASIM's Memo」をあらため、「saborichのメモ」と変えました。
アクセス数を久しぶりに見たら、日々読んでいただいている様子で、
こんなものでも読んでいただけるのですね。ありがたいことです。
タイトル名を変えた経緯などを少し書きます。

もともとの「OASIM's Memoというブログは、あるSNSサイトに書いてきた
日記の中からおもに、こころに関すること、宗教に関わる日記などを抜粋して
そのまま貼り付けたようなスタイルではじめました。
そのサイトとは、趣味人倶楽部といい高齢者が中心の交流サイトです。
https://smcb.jp/

その中で自分はハンドルネームをOASIMとしていたのでそのまま、
OASIMのメモというきわめて安易な名前をつけていました。
それは自分のための日記保存フォルダーとして利用していたためです。
つまり、ひとさまに読まれることを想定していないブログでした。
しかし日々読んでいただいていることを知り、
ちょっといい加減な名前すぎるなと反省したしだいです。

なお、OASIMというイスラム系の名前から、この筆者は日本人でないのではと
思われます(また事実、イスラム圏でOASIMという方はたくさんおられるのですが)、
亡くなった母の名前みさおを逆にしたものです。
趣味人倶楽部では、OASIMとして参加しています。

とはいっても、saborichのメモというタイトルだって、相変わらずではないかと
いわれそうですね。このsaborichというハンドルネームは気に入っている理由があって、
兄貴分の「ゆっくり育て、サボテンたち!」というブログから来ています。
長年、サボテン栽培をしており、サボテンだらけという意味でsaborich。
ときどきサボるようでもあります。栽培日記ブログを書きつづけて、
けっこうなアクセス数をいただいています。
https://saborich.blog.ss-blog.jp/

余談ですが、長年詩を書いていて、詩誌に所属していたのですが、
今年になり退会しました。
ときどき書く詩を、サイトにまとめようと準備しています。
順次掲載していく予定です。
http://poemslake.jugem.jp/

長々説明しましたがタイトル名を変更いたしました。
なお趣味人倶楽部の日記からの転載と、新たに書くこころ日記風のものと
混在すると思いますが、今後ともよろしくお願いいたします。


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