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アンビバレントな感情 [いのち]

人間の意識には思っているほど主体性がなく、むしろ無意識に始まる動作や感情の
後追いになっていることが、リベットの実験によって明らかになってしまいました。

とはいっても意思や気持ちというものを、自分たちしっかりは持っていると
感じています。意思や感情は、自分で決めていると思っています。

無意識に感じたこと、行動したことと、意識化された自分の気持ちや行動の
この2重構造は、事態を複雑にする要素を持ちます。
いろいろと厄介な問題を生み出しているのではないかと思います。

たとえば本当は嫌悪する人間が、立場の上で上司であるので、
上手くやっていかなければならない。
あるいは、嫌いな感情jしか持ち得ない酷い親でも、付き合わざるを得ないとか
場合によっては世話をしなければならない。

われわれは自分の行動を合理化してしまう天才です。いや脳はそのような働きを
する存在です。道徳や世間体やもろもろの制約のもとで、原初の感情や行動を
抑制しながら生きることを選びます。そしていつしか、原初に感じたものを
無いものにしてしまう。存在すら無いことになってしまう。
そして嫌いな人間を好きだと思い込んだり、この親は大切な存在なのだと
信じるようになります。

このような相反する感情を同時に持つことを、アンビバレントな感情と
言ったりします。

そして問題化するのは、上から蓋をした規律やら道徳やら、経済的な制約が、
破綻して用をなさなくなった時です。無意識領域まで押し込めていた感情や行動が、
吹き上がってきます。自分でも理解し難いくらいの激しい怒りや、
憎悪などがいっきに湧き起こるというようなことがあると思うのです。
犯罪が行われる際には、このようなネガティブな感情や行動が、
開放されるという面があるのではないかと推察します。

ドストエフスキーの「罪と罰」に、主人公のラスコーリニコフが金貸しの老婆を、
斧で惨殺する場面が出てきます。
この描写は自分のなかで強い印象で記憶されています。

ラスコーリニコフが最初の一撃を加えるとき、迷いながらゆるゆると
斧を振り下ろすのですが、いちど行動を始めてしまうと、
次からは憎悪がこもったようにやり遂げるのです。
最初の一撃は、世の中の制約や道徳に逆らうかたちで行動したのでしょう。
しかし2回目からは封印されていた感情が爆発するのです。

それほど劇的な事象でなくとも、ふと湧く嫌悪感や怒りというものの背景には、
このような封印されたものがあるのではないかと思います。
普段の平静な自分からは想像もつかないものを発見するとき、
驚きをもって見つめますが、やがて封印されて普通の生活に戻ります。
そしてじわじわとなにかが荒廃していくのです。

なぜこのようなことを書くのかといえば、親との確執に何十年と苦しみ、
まさにこの道をずっと辿ってきた自分の経験から、
原初の感情をしっかり見つめていくことがいかに重要かと思うからです。
おのれの中にある悪人の存在を知ること、自分を善人だとはおもわないこと、
自分を誇らないこと、親鸞聖人の言葉の端々からうかがえる事柄は
このようなメッセージです。


(SNS日記より 2016年8月25日)
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断想 (自分のためのメモ) [いのち]

ある日、天から一枚の請求書が舞おりてきた。
あなたの生命はあとXX日と、締め日が近づきました。
ついてはこれまであなたの吸ってきた
空気代(酸素料金)を概算請求いたします。

みると、
あなたの呼吸量一日3m3、
1年で1,095m3、60年で65,7000m3
空気代金は、1Lあたり1円。
したがって、請求金額は6,570万となります。
至急お支払いください。

翌日には、別の請求書がひらひらと
舞おりてきた。こんどは日照代とある。
こちらは、8,540万円。

こんなことになって困る。
こんな請求書が次々とやってくるのだろうか。

でも少なくとも食べてきた食料代は
自前で払ってきた。
これまで食べた豚、牛、鳥、
お米にキャベツなどの野菜代。

でも良く考えたら食料代は、
牛を捕まえて「お肉」にして売ってくれた人に
払った。肉になってくれた牛に
支払ったわけではなかった。

牛を捕まえた人は、牛の代金を牛に払っていなかった。
それを肉にする人に、売ってお金を得た。
いわばいのちを奪ってきて自分のものとみなして、
それをお金に換えた。

牛のお肉を食べた自分は、
売ってくれた人にお金は払ったけれど、
やはり牛には払ったことはなかった。
ただモクモクと肉になってくれた牛は
何にももらっていない。

人生を締めくくるに当たり、
今度、牛からの清算書が舞いおりてきたら、
どれだけの請求額になるのだろう。


(2016-03-27 SNS日記より)

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いくたび考えても不思議 (自分のためのメモ) [いのち]

江藤淳氏の自殺に関して、海恵氏は著書の中で、このように記述している。
「江藤氏も、その自殺を讃える人々も、ともに江藤氏のいのちを
江藤氏自身のものであるという暗黙の理解のうえにたって考えているわけです。
江藤氏のいのちをいのちたらしめている「いのち」、
については全く考え及んでいない、と言わざるを得ません。」

         海恵宏樹著『仏の智慧に生きる』 p.14

この部分に、宗教の核心があると考えている。
そしていくたび考え直しても、このいのちの不思議さにうたれ、
また生かされているという現実をあらためて想い起こす。

先日、市街地で暴走事故が発生し、死傷者が出たというニュースに触れた。
運転者は心筋梗塞などの体調不良ににより意識を失っていた可能性が指摘された。
本人はいたって健康であり、むしろ平均以上に堅強な体をもって
運動をしていたと報じられた。この運転者は、おそらく自分がその加害者に
なるなどとは到底考えていなかっただろう。

今日も自分は車を運転して家内と買い物に出かけた。
そして無事に家にもどり今こうしてPCに向かっているのだが・・・
ハンドルを握って運転した自分も、そんな事故などは想定して運転などしていない。

もし自分が安全に運転していたとしても、対向車がこちらに突っ込んできたら、
たちまち事故になる。対向車の運転者が意識を失ったり、
何かのきっかけでよそ見をしたりして、それは容易におきてしまう。
家に戻った自分と、事故に遭遇する自分とのその差は、
いかほどのものなのだろうか。おそらく紙一重なのかもしれないと思う。

暗黙のうちに明日もあると暮らしているが、
その中には明日の来ない人だっていると考えなければならない。
朝目覚めるとき、ああ今日も目が開いたと思う。
就寝中の夜間は意識がなく、そして明日は来ないのかもしれないのだから、
目が覚めたときに、ああ生きていたと思う。

この寝ている間もきちんと呼吸をして息を吸い、また息を吐き、
心臓は適正な心拍数で全身に血を送っている。
体内では風邪の菌や進入するウィルスに対して白血球の攻撃や
防御反応が行われていることだろう。
これはもはや自分の意識できる領域のはなしではない。
なんだかわからないが、全てを制御して健康体を保つように、
何かが作用して自分の身体を維持してくれている。

この生きよと働きかけ、生きる意思を持ち続けるものを、
いのちという名で呼ぶしかない。これはなんと不思議な作用なのだろう。

よくよく考えれば、自分という意識の存在は、
この身体の上に、物心ついた頃に、ポッと生まれただけのものだ。
自分という意識をもつはるか以前の時間より、
自分になるべき身体は鼓動を始め血液を流し、
成長しようと働き続けた。
まだ名前すら付けられていない生命体が生きていたのだ。

自分というものは、後からやってきた新参者にしか過ぎない。
いわば身体を借りてきて、これを自分であると宣言しただけのことである。
あるいは親に名づけられただけのことである。
そしていつしか、自分という存在こそ、
このいのちの最も中心的主体であると信じるに至った。
その先に、江藤氏のような自殺ということが起きる。
いのちが自分により殺されてしまう本末転倒な出来事だ。


(2016-03-07 SNS日記より)

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