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これで救われるんですよね? (自分のためのメモ) [浄土真宗]

歎異抄の第2章は、親鸞さんの心の動きが感じられるようで、
特別な感慨を持つ章だ。

関東からはるばる京都まで旅をして親鸞を訪ねた念仏者との
やり取りがなまなましく記録されていると思う。

命がけで旅をしてきた人たちを前に、その労をねぎらうと共に、
親鸞さんは念仏者をがっかりさせるかのようなことばを発する。

「念仏以外になにか極楽往生の道があって、
それを親鸞が知っているのではと、はるばる来られたようだが、
率直に申し上げるが、それは大きな間違いです。」

「わたしたちが救われて極楽浄土へ導かれる道は、
ただ念仏する以外にはありえません。」

「特別な秘法があるのではと思うのならば、
奈良や比叡山に学者がたくさんいるから、そこで聞くがよかろう・・・
そこでさまざまな奥義を訊いてみられてはいかが?」

ここまで親鸞さんがいうからには、
いかにしつこくこの人々が秘法を訊いたのかが想像される。

「この親鸞は、ただ念仏して、阿弥陀仏にお任せせよという
法然上人のおことばをそのまま愚直に信じているだけです。」

さらに驚く言葉が親鸞さんの口からこぼれる。

「念仏がほんとうに浄土に生まれる道なのか、
それとも地獄へ落ちる行いなのか、
そんなことは私は知らないし、
それはどうでもいいことです。」

念仏をとなえれば救われるという、
浄土真宗の教えの教祖のであるはずの親鸞さんが、
念仏したから救われるとか地獄へ行くとか、
そんなもの知ったことか、
どっちでもいいことだ、というのである。

この激しく感情的とも思えるこの親鸞さんの言葉の語気が、
じつは自分は好きである。

なにか、あり難いことをすれば、救われる
しなければ地獄へ落ちる、
これで救われますよね?
と訊く信者に向かって、そんなことが救いと
何の関係があるのか、と叱っているのだ。
このような思考法の先もにある世界に、
浄土はないと言っているのだ。

いい事を集めて、嫌なことを排除して作り上げた生活の先に、
救いは展開してこない。
取捨選択していいものだけを集めて、
どんどん自分を肥えさせるようなことを続けていて、
その先に浄土が開けますか、と問いかけているのである。

それでは信仰の名前を語った財産つくりと同じなのだ。
自分が肥えて行き、どうだこんなに自分はすごいぞ、
他の人は褒めなさい、他を見下して悦に入る図に
なるのが落ちなのである。
宗教のなかで起きる自分教、そして増長慢地獄、
自家中毒症状を見るのだ。

どれだけ自分が優れたものになったかという認識の先に、
救いという世界は、どうも思い浮かばない。

(2016-01-30 SNS日記より)

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コメント 2

めい

親鸞君、もしも現代に生まれたらこの世を見て何をおっしゃるのでしょうか?

そして浄土の教えに帰依されたのでしょうか?
by めい (2016-06-18 13:55) 

saborich

ご訪問とコメントありがとうございます。

親鸞の生きていた時代と比較して、
現代は、生活が便利になったり、科学技術の進歩で
いろいろな道具が増えたりしていますが、
こころのありようはあまり変化がないと思われますね。
進歩がないというべきでしょうか。
道具が増えた分、こころの闇がより拡大しているかもしれません。
親鸞が説いた教えは、時代を問わず意義あるものと考えています。
by saborich (2016-06-18 22:20) 

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