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人として恥ずかしいこと [人生]

曽野綾子さんが新聞コラムに書かれた小さな文章があります。最近出た書籍で知りましたが、まさにひざを叩くというか、同感の思いでした。

辛口の表題が付いていますが、『人間として恥ずかしい他者への「三つの要求」』という文です。
この世で人間が他者に要求してはいけないものが三つあり、
1.自分を尊敬しろ
2.人権を要求する
3.自分に謝れ

いちばん始めに掲げられた「自分を尊敬しろ」という要求は、そこまで露骨に言うことはまれでしょうが、心の中に潜伏していろいろな形に変形して現れているようにも思います。

信仰にからむことがらをふと思いました。
自分の信じているものと、ことなる宗教を信じる人について、あれこれと言わない、批判しない、立ち入らないというのが、大人の節度というものではないかと考えます。

しかし実際には、この手の勧誘はじつに多くて、自分の考えの強要の姿になっていることが多いですね。
おのれの信心を称えるあまり人に勧めたり、布教しようとしたり、信者を増やそうとするのは、明らかに度を越えて迷惑な行為です。

また、趣旨から外れたコメントを書き込み、しきりに自説を唱える人がいますよね。あるいは自分の信念に合致しないものを否定してかかる。しかも懲りずに。
お前は間違っている、オレが正しい、オレを敬えという鬱屈した「しこり」を抱いた人なんだと感じます。

人は人、元気に過ごしているのなら、だまって見守るだけです。
またそれに関連しますが、真実はひとつなのだという考えは、やはり偏狭な考え方ではないかと。この真実のところを神と置き換えても同じです。真実は人の数ほどあると考えるのがほんとうのこの世の真実ではないかと考えます。

しょせんわれわれのような凡人に、真実があますところなく理解できるものか、と感じますね。

ある人にとってすばらしい教えであっても、隣の人にとっては何の価値もないということはありえます。人から相談されたり問われたら、自分の考えとして述べればいいのです。

(2016-08-12 SNS日記より)
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ゆるすとは、そしてゆるされるとは? [キリスト教]

前日記に登場した、罪深い女のゆるしに関する考察です。

イエスにより、「あなたの罪は、ゆるされている」と明確に宣言されたわけですが、では「この女はいつどのようなことにより、罪がゆるされたのでしょうか。

素朴に考えるならば、誰の助けも借りずにたったひとりで信仰を得て、救われていると確信したはずです。イエスの言葉にも、「あなたの信仰があなたを救ったのだ。」とあります。

イエスにまみえる前に、ゆるされていたということなので、罪深き女は、その前にゆるされる瞬間を体験したはずなのです。

それはどういうことが起きたのでしょうか?

二つのことがあるかと思います。
ひとつ目は、周囲から罪深い人間と呼ばれ、自分自身の中でも自分という疎ましい存在に感じたはずの絶望的な状況があると思われます。いわばズタズタでボロボロの絶望的な状況です。自分を誇ることなど到底できない、友人もなく孤立して、人が集まるところへは顔も出せない自分の姿。

そしてもうひとつのことがら。

それほど罪深い人間ならば、天罰が下りてきて滅ぼされてしまって当然であるはずです。罰が当たって即座に息絶えても仕方ないということになります。
刑法の考えのように、罪を犯した人間は当然、その報いを受けなければならないことになります。

しかし絶望と滅亡の淵にいるはずなのに、それでも自分は空を飛ぶ鳥や、野の花のように生きている。それはどのようなことなのか。どう考えたらいいのか。この世の仕組みはどうなっているのか。神は沈黙しているのか。
そんな思考回路が働いたと思います。

これは大きな矛盾ですね。宗教の重大な局面では、このような相克が介在しているように思います。
この矛盾はどのようにして回避されるのかが問題です。

これは個人的な見解として述べますが、絶望や滅亡の状況は、頭で紡ぎだしたことがらで、その先に出口がないのです。

しかし体は生きています。体はいつも与えられた命を生きようと働いているのですが、それは自分の考えでそうしているわけではありません。頭の考えとは独立に体はいのちを生きていて、息を吸ったりしてこの世界とつながっています。

空の鳥や野の花は、そのように与えられたいのちを、そのままいただいて生きています。なぜ自分はそうではないのか?なにがその苦しみや絶望を生んでいるのか?

そしておそらく爆発的に真実というものをつかむのです。爆発的というのは適切でないなら、直裁に世界の成り立ちを直感するのですね。そこからあらゆる理解がやってきます。確信が生まれるのです。罪深い女の心に起きたことがらは、そういうことではないかと理解しています。

(2016-08-10 SNS日記より)
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気になる言葉、そして誤解 [キリスト教]

ルカの福音書7章に、罪深い女をゆるすという話が出てきます。
イエスがファイサイ人の家に滞在し、食卓についたとき、町では有名な罪深い女がつかつかとイエスのもとに現れます。香油の入った小瓶を抱えて、泣きながらイエスの後ろから足元に近寄り、涙でイエスの足をぬらし、自分の髪の毛で拭き、そして足に接吻して香油を塗ったという話です。

周りの人々はこれは罪深い女なのだと非難するような視線を向けています。イエスはこの雰囲気を感じ取って、弟子のシモンに言うのです。

「あなたに言う。彼女が多くの罪がゆるされたのは、彼女が多くを愛したことでわかる。少しだけゆるされる者は少ししか愛さない。」
イエスは女に向かって、
「あなたの罪はゆるされている」
「あなたの信仰があなたを救ったのだ。安心して行きなさい。」

人々は、罪をゆるすこの人は、いったい何者だろうと、心の中でつぶやいた。

(以上 ルカ福音書7章 フランシスコ会聖書研究所訳注より)

気になるのは、周囲の人はイエスが罪をゆるしたと見ているわけですが、イエスはそのようなことはいっさい言っていない、ということです。
イエスが語ったのは、「罪がゆるされている」という宣言であって、その女をゆるすとはひとことも言っていないことです。

このフランシスコ会の訳では、この節の表題に「イエズス、罪深い女をゆるされる」と付いていますが、これも誤りです。残念なことですが誤訳で、イエスは罪をゆるすとは語っていません。(注)

この部分はとても重要なポイントと感じますが、大多数の人はこれを誤解しているのではないかと思われます。

その違いですが、新約聖書を通じてイエスは罪深い人に対してそれをゆるすという言葉を、はたして投げかけているのだろうかと疑念を抱いています。もしそうならば、イエスはその力があるということになり、神に等しい立場にいるということになります。

イエスによる救いとか、ゆるしということが、よく語られているのを見聞きしますが、それはイエスを神に同一視する見方です。イエスのパワーにそのような力があって、それが作用したのだという見方になります。

しかし、イエスがこの食卓の前で語ったのは、その人の深い信仰がその人を救っているのだということ、多くの愛を示したことが、罪がゆるされていることに示した、という表明です。つまり本人の信仰によるものであって、イエスはそれを認定した形です。

それはどのような時間的な経過になるのでしょうか。
イエスが語っているのは、深い信仰や愛をもちえたときに、すでに罪はほどけてゆるされているという時間的な順番です。

けっして最初に罪深い女が、ゆるしてくださいという嘆願をイエスに向かってしたわけではないということ、そのお願いの見返りにイエスがゆるしたという訳ではないのです。女は深い信仰を示しただけです。

このルカ書のこの部分の記述は、信仰の本質を示していると思われます。

(注)2011年4月24日刊行の「聖書 原文校訂による口語訳 フランシスコ会聖書研究所訳注」では、以下の表題に改定された。
「罪深い女の赦し」

(2016-08-09 SNS日記より)

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