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棺を覆いて事定まる [人生]

その人の棺桶の蓋をしめるときに、その人物の評価が定まるとの意だ。
生きている内に軽々と人を評価するなという意味にも取れる。

ある知り合いの死に向き合って、その言葉が思い浮かんだ。
詳細は述べないが、生前、人前でに語っていたことや行っていたことが、
じつは私生活では正反対であることが遺族とのやりとりで明らかとなってしまった。
その何とも言えない不快さ、疲労感は、いまだ心に残る。
日本には、晩節を汚すという言葉もある。

ある書に、こんな言葉があった。
いちばん幸せな人とは何か、という問答だ。

紀元前6世紀ころ、栄華を極めていたリディア国の王、クロイソスは、
アテネの政治家ソロンと対談した。
この世の幸せを独り占めしたかのようなクロイソスは、ソロンに、
「あなたが会った中で、いちばん幸せな者は誰か?」
と聞いた。
むろん眼の前の王です、という答えを期待していたのは言うまでもない。
ソロンは、名もなく富もない人の名をあげた。
クロイソスは、ムッとしたのか、再び問い詰める。
「私自身の幸せには価値が無いと思われたのか?」
ソロンの答え。
「人生は偶然である。今運に恵まれているからと言って、
それが一生続くとは限らない。
人間は、生きている間『幸運な人』とは呼んでも、
『幸福な人』と呼ぶのは差し控えなければならない。」
幸運な人は、幸福な人とは限らない。
見事な死に方をした人こそ幸福な人である、
という意味の答えをした。

この後、リディア国はペルシアとの戦に破れ、
クロイソスは国を失い、火炙りの刑に処せられたとある。

この話は、古代ギリシャの歴史家ヘロドトスの歴史書にある話らしい。
「幸福問答」と呼ばれている。


(SNS日記より 2016年10月1日)
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人として恥ずかしいこと [人生]

曽野綾子さんが新聞コラムに書かれた小さな文章があります。最近出た書籍で知りましたが、まさにひざを叩くというか、同感の思いでした。

辛口の表題が付いていますが、『人間として恥ずかしい他者への「三つの要求」』という文です。
この世で人間が他者に要求してはいけないものが三つあり、
1.自分を尊敬しろ
2.人権を要求する
3.自分に謝れ

いちばん始めに掲げられた「自分を尊敬しろ」という要求は、そこまで露骨に言うことはまれでしょうが、心の中に潜伏していろいろな形に変形して現れているようにも思います。

信仰にからむことがらをふと思いました。
自分の信じているものと、ことなる宗教を信じる人について、あれこれと言わない、批判しない、立ち入らないというのが、大人の節度というものではないかと考えます。

しかし実際には、この手の勧誘はじつに多くて、自分の考えの強要の姿になっていることが多いですね。
おのれの信心を称えるあまり人に勧めたり、布教しようとしたり、信者を増やそうとするのは、明らかに度を越えて迷惑な行為です。

また、趣旨から外れたコメントを書き込み、しきりに自説を唱える人がいますよね。あるいは自分の信念に合致しないものを否定してかかる。しかも懲りずに。
お前は間違っている、オレが正しい、オレを敬えという鬱屈した「しこり」を抱いた人なんだと感じます。

人は人、元気に過ごしているのなら、だまって見守るだけです。
またそれに関連しますが、真実はひとつなのだという考えは、やはり偏狭な考え方ではないかと。この真実のところを神と置き換えても同じです。真実は人の数ほどあると考えるのがほんとうのこの世の真実ではないかと考えます。

しょせんわれわれのような凡人に、真実があますところなく理解できるものか、と感じますね。

ある人にとってすばらしい教えであっても、隣の人にとっては何の価値もないということはありえます。人から相談されたり問われたら、自分の考えとして述べればいいのです。

(2016-08-12 SNS日記より)
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不安に対処しないという対処 (自分のためのメモ) [人生]

不安というものは嫌なものです。
不安のネタがあるときはそのことへの関心が頭を占めますし、
嫌な気分に苛まれます。

それに厄介なことに、不安のネタがない時でも、
やはり不安というものは同じように湧くのです。
体質が過敏になると、不安がないことが不安のネタになります。
これは冗談でなく、本当に起きる現象です。

改善意欲の強い人や、完全にこだわる人は、
この不安を何とか無くす努力をします。
生活感情のなかから「不安」の文字を消し去ろうと努めます。
こんなものがあっては堪らないとばかりに。

しかし不安と闘っても、勝ち目はありません。
湧いてくる不安というものは理屈で生じているのではなくて、
ほぼ感情に近いものですからね。
だからいろいろな無くす努力は通用しないのです。
なくなったと思ってもそんなものは一時しのぎに過ぎず、
また湧いてきます。

中国禅の第二祖に慧可という方がいて、
達磨大師に師事しその法を嗣ぎました。
慧可が達磨大師に弟子入りするときに、
不安で不安で堪らない、
どうか師よ、自分をお救いくださいと懇願します。

達磨は、その不安の心をここに差し出してみよと命じます。
何年か何ヶ月か分かりませんが、
慧可は追求の努力を重ねたと思いますが、
終いに、その不安の心をとらえることはできない!
と絶望して達磨に訴えます。

このとき達磨の言ったことで、慧可は問題を解決します。
達磨は「お前の不安を取り除いてやったぞ」というのです。
なんだか拍子抜けするような言葉ですが、
じつに深い言葉であると反芻します。
またこの師弟が向かい合う心の状態があまりにも対照的です。

慧可はすっかり絶望の淵にいるのに対し、
達磨はそれが救いだ、
それで安心だ、と言っているのですから。

不安はわれわれを苦しめます。苛みます。
それにたいして解決の道は無いに等しいです。
どうしたらいいのかと問い続けます。
ついにはどうしようもなくなって絶望してしまいます。
そのときに、その課題解決!とは。

不安とは、未来を感じて先取りする気分です。
それはここには無いものです。
過去のことがらに不安は感じません。
また現在のことがらにも(恐怖や脅威はあるにしても)不安はありません。
未来の影です。

したがってそれの存在を否定はできないです。
不安が無いとすることはできない。
自分は未来を持つと考えるかぎり、不安はあります。
しかし不安を生み出す本体は現在には無いものです。
つまり頭で未来の影を先取りして苦しむのです。

その構造が納得できてしまうと、
不安はなくならないことが分かると同時に、
その本体はここにはなく、
現在に生きる自分には対応の方法も無いのだとわかります。
なので、放っておくしかないということになります。

森田療法では、作業を通じて不安に固着した心のクセを離脱させようと試みます。
いや離そうとする自力努力は、ますます固着させてしまう方向に作用しますので、
放っておくのです。
不安は現在には関係していないのですから。

(2016-07-25 SNS コラム記事より)

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