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目覚め [宗教]

宗教的な心の転機として目覚めというものがあります。
キリスト教の世界では回心といったりします。
また禅では悟り体験とかといいますね。

宗教によっていろいろな表現をしますけれど、
つまるところそれらは、なにを言っているのだろう、
と考えることがあります。

大それた問題ですが、自分なりに考えると
それまでの生活を支配していた考え方や信条が、
ひっくり返ることだというふうに思います。

しかしこれだけの言葉では、よくわかりません。

ひっくり返るということが起きるためには、
元の状態があり、それを逆さにする何らかの
体験を所有しない限り、ことばの意味を成しません。
ひっくり返った世界を覗かない限り、
そうか元の生活が逆さまだったのだな
とは思わないわけです。

元の生活を規定するものはなんだろうと
考えると、それは自我を中心とした世界観、
思想なのではないかと思います。
自我中心の考え方に骨の髄まで、
染まっていたんだなという自覚です。

でも自我中心の生活だったのだなと
ふり返る視点を持たない限り、
また自我中心と表現しても、
その言葉の意味が伝わりません。

まことに厄介な話です。
したがって、この手の話は
ほとんど共感を得ることはありません。
理解されません。

ある集まりでお話させていただくことが
ありますが、それをうまく表現するすべがなく、
もどかしい思いをします。

自我中心ではない世界とはなにかといわれれば、
今生かされて生きているということに尽きるのです。
でも生かされているという意味が伝わらない。

かつては自分もそうでした。
人身受けがたし、今すでに受く(三帰依文)。
この言葉の意味がわかるのに何十年もかかりました。
いまはもうこの言葉だけでいいとさえ思います。



いよいよ今年も残すところあとわずか。
よい年をお迎えください。

(2015-12-31 SNS日記より)

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くりかえされる問い [いのち]

まったく忙しい日々となってしまいました。
定例のお店主催の絵画教室があり、
おまけに公民館の絵画教室も今週は重なって、
さらに頼まれた塾の講師の仕事も週2回あり、
昼間は画材店の営業をしている・・・

つまり昼も夜も間断なく仕事に追いまくられています。
おまけに受験生のための冬季集中講座の企画が
あって、正月休みに駆り出される予定です。
スキーなどやっていられるのか・・・
という勢いとなってきました。

ところで昨晩、久しぶりに鈴木大拙の禅の本を
本棚から取り出してぱらぱらと読みました。
そこで目に留まったのは、
釈迦は形而上学的な問いにはお答えにならなかった、
という一節です。

そこに仏教の核心があると信じていますが、
普通の感覚では、それは見過ごされていることがらでは
ないでしょうか。

人生の悩みや苦しみの大きな部分は、
この形而上学的なものに分類されると思います。
わけのわからない禅問答、ちんぷんかんぷんな
答えも、このことと関連していると感じますね。
別の言い方をすると、ほとんどが無益な問い
ということになります。

死後われわれはどうなるのか?
人生の意味はあるのか?
霊魂の存在ははたしてあるのか?
この人の目が見えないのは、
なにか祟りがあったのか?
このような不幸なことがらは、
犯した罪の報いが来たのか?

この無益な問い、と切り捨ててしまっていますが
この疑問は、ときにつらいときや苦しいときに、
心に浮かんできます。
そしてわれわれの手の届きようのない
このような問いに絡め捕られて、
しだいに雁字搦めになります。

いくどなく繰り返され、苦しめられる問いです。

釈迦はこのような問いに答えなかった。
しかし後世の仏教の発展においては、
この問いに対する答えがしだいに用意されていった
と見えることもあります。
しかし元をたどると、
お釈迦さまは問いを退けられました。

その理由は何か。
死後の世界はあるのか?
どこかの誰かがその答えを用意したとすると、
つぎに、そこはどうなっているのか?
安楽なのか?
と問いは続きます。
その安楽な場所に自分は行くのか?
どのようにすればそこへ行けるのか?
・・・
問いかけは已むことはありません。

そこへあなたは確実にいけますよ、
安心してください、間違いないですよ、
と言われて、大安心しました!となるでしょうか?
その保証はどうなっていますか?
それを保証してください・・・
問いかけは、つぎつぎと先へ先へと進みます。
自分自身はいまのままで、問いだけが進みます。

その中で、己の姿が浮き彫りになってきます。
要するに、いまのまま楽にしてほしい、
このままでずっと安楽な生活を続けたい、
死んでもずっと楽に、苦しみのない生活が
続いてほしい、
いまのこの現状を手放したくない、
握りしめたものを捨てたくない、
諦めたくない・・・

そんな己の姿がぼんやりと見えてくることで、
この問いの構造が見えてきます。
自我がほしいものを握り締めている姿です。
そして満足のいく答えは、どうもありえないな・・・
というふうに気がつくのです。

(2015-12-12 SNS日記より)

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言葉そのものには力はない・・・(自分のためのメモ) [思想]

久しぶりにこころの高まりを覚えながら本を読んでいます。
福島智さんという東大教授の先生が著された『ぼくの命は言葉とともに
ある』という書です。福島さんは、9歳で失明、18歳で聴力を失い、
盲聾者として生活をされています。

書の言葉のあちこちに啓発を受けたり、新しい知見を得たりしていますが、
取り上げてみたいのは、表題にある「言葉そのものには力はない」と
書かれている文章です。

福島さんは盲聾者のため周囲の会話の声とか、
身振りやしぐさが示しているボディメッセージを受け取ることはできません。
点字板から読み取る言葉だけが、唯一のコミュニケーションの通路です。
そうであるがゆえに、言葉自体には力はないのだと言われます。

たとえば「愛している」という言葉が点字で伝えられても、
その言葉自体には愛はない。意味がないだけでなく、
力もないというのです。ちょうど真空の虚空のなかに、
ポッと「愛している」という記号が浮かんでいる、
そんなイメージだといいます。

誰が誰に対して、どんな状況で真剣に言っているのか、
ふざけているのか、その言葉の周辺の事情が見えない限り、
意味が伝わらない。

さらに、意味がわかったとしてもそれだけでは力を持ち得ないと言われます。
愛しているという言葉に相応した具体的な行動が伴っていなければ、
その言葉に力はないということです。
愛しているといいながら、不実な態度で居続ける人であるならば、
その言葉には人を動かす力はなく、少しも愛されているとは感じないし、
影響を受けることも無いということでしょう。

したがって言葉は、意味と、行動という二重構造になっているのだ
と福島さんは書かれています。

ドストエフスキーのカラマーゾフの兄弟の一節を
引用されています。
ある貴婦人が長老に悩みを打ち明けます。
自分は人類愛は強いが、来世というものを信じることはできない、
何によって証明できるのでしょう、という内容です。
対して長老は、こう答えます。
「実行的な愛を積むことによってです。
自分の身近な人たちを、あくことなく、行動によって
愛するように努めてごらんなさい。・・・
実行的な愛は、空想の愛にくらべて、こわくなるほど
峻烈なものですよ。」

この引用のあとに福島さんはこのように書かれています。

『つまり、人間は博愛主義者にはすぐなれるのです。
「全人類のために」という言葉は誰でも言うことができます。
でもすぐそばにいる人の困っていることに対しては、
案外冷淡になるのです。あるいは同じ屋根の下に
暮らしていても、なかなか愛し合えないことがあります。
だからこそ、イエスは「汝の隣人を愛せ」と言ったのかも
しれませんそれが実行の難しいことだからです。』
                    p.98

記号でしかない愛という言葉にいのちを与え、
人を動かす力を持つようにするためには、
それにふさわしい行動を伴わなければならない、
・・・これは実に難しいことです。

ボクたちはえてして、きれいな概念、きれいな言葉を、
自分の身にまとい、それを自分が実行できており、
その言葉が自分であると錯覚し、自分は優れた人間、
善人になったつもりでいることがあります。

しかし、突かれてみればその実態はじつに醜いもの。
そのことを鋭く自覚した人は、自分は悪人で、
どうしようもない人間、地獄行きは必定だと理解します。
ついでに言えば、これが宗教への入り口ともなると考えています。

(2015-12-05 SNS日記より)

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前日記への感想に対して [キリスト教]

前日記のボクの語り口に対して、ある方が感想を寄せられました。
(それは日記へのコメントに書かれてはいません。)

その内容とは、日記の記述がペトロに対して可哀想だというものでした。
酷といってもいいくらい、ペトロや弟子たちの行動を追った文章を読み、
そのように感じられたのかもしれません。
日記に記した内容は、すべてマタイ福音書、ルカ福音書の記述に
したがっているものです。(フランシスコ会聖書研究所訳注)

そのように感じられるだろうというリスクは、うすうす感じていました。
克明に事実として何が起きたのかを冷静に記述することは、
科学技術の職業に長年籍を置いていた自分としては自然なことです。

しかし、おそらくそうではない方々には、
なぜそこまでするのかという反応があるのは予想されることでした。
つまりは冷静に起きた事実を見つめる行為の前、
あるいは見つめていく過程で、
可哀想だとかいう情緒に流されてしまう反応です。

でも、まずわかる限りの事実を明らかにしなければ、
福音書に記述されたドラマを理解することはできないと考えます。

そして情緒的な反応について言えば、
ほんとうに可哀想だったのはイエス自身であるという気持ちが
まず浮かび上がります。同情すべきなのは、
捕らえられ無実の罪を着せられ処刑されたイエスの方でした。

ペトロや弟子たちはイエスを捨て逃げてしまうことで、
身の安全を確保しました。イエスの仲間だった事実を、
ウソをついてまで否定して自分の身を守りました。

ではペトロたちを、お前は非難するのかと言われそうですが、
ボク自身もやはりペトロだったろうと感じています。
人間は弱い。身に危険が迫れば、その弱さを露呈してしまいます。
悲しいまでの弱さです。それが人間の現実であり、
いくら誓いを立てていても場面によっては
守ることができないという現実があります。

さるべき業縁のもよほさば、いかなるふるまひもすべし
(人間は誰でも、目に見えぬ業のちからがはたらけば、
どんなことでもなしうるものなのだ)
『歎異抄 十三条』
という親鸞の言葉も思い浮かべます。

しかしペトロたちは逃げてしまい、
身にふりかかる危険を回避することはできましたが、
こころの安寧を完全に失っただろうと思われます。
どんなことでも、弱さゆえにしてしまうものだと、
魂の深いレベルで自覚したことだろうと想像するのです。

ヨハネ福音書には、姦淫の現場に引きずり出された女に、
石うちの刑をおこなう場面が出てきます。
モーセの律法ではこのような女は石打ちの刑で殺さねばならない。
さあどうするのかと迫る律法学者やパリサイ人に対して、
イエスが発した言葉は、あなたがたのうちで、
罪を犯したことの無い人が、この女に石を投げなさいと言います。

人間は弱い。そして罪を犯す。
その弱さを、あなた方は自覚しているのかと、
イエスは問いかけています。
人を裁いたりする罪の自覚、
何でもしてしまう弱い自分への自覚、
イエスの言葉は、つねにその部分に問いかけています。

(2015-11-29 SNS日記より)

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弟子たちは・・・ その2 [キリスト教]

イエスは不幸な主宰者だったという思いをぬぐえない。
磔刑になるまでの生きている間に、弟子たちと心の通った
会話をしたのだろうか。
あるいは師弟の間で教えの核心について
それこそ肝胆相照らすというような交流があったのだろうか。
前日記で記したように、それらの疑問に対しては、
いずれも否といわざるを得ない。

イエスの教えが福音書としてまとめられるのは、
イエスの死(AD30年ころ)から、40年以上経過した後の
AD70年から90年頃と言われている。
この40年という年数が意味するものは、
イエスの言葉を直接聴いた弟子たちが、やがて世を去る頃に符合している。
じきじきにイエスの言葉を聴いた弟子たちが存命中は、
口による伝承で、イエスの教えが伝えられたはずだ。

おそらく直接イエスの死を体験した弟子たちが高齢となり、
口伝による伝承が危うくなった頃、福音書が編纂された。
孫弟子に当たる人物たちが記録としてまとめたのだろうと想像する。

冒頭で書いたように、師弟間で問答する教えの核心部分について
言葉が欠落しているがゆえに、キリスト教の真髄の部分が、
イエスの口からこぼれることがなかったと見る。
存命中は、パリサイ人と論争、揶揄雑言の中での
孤軍奮闘という姿しか思い浮かばない。
そして弟子たちはイエスの死に際しては
みな逃亡してしまったのだ。

はたして、イエスは救いについて、どのような内容を
語っただろうか。弟子の信仰に関する悩みを聴いて、
イエスは穏やかな表情で、ペトロよ、それはこうなのだよ
とやさしく諭したことだろう。
しかしその内容はついに語られることはなかった。
イエスの言葉を耳にしたかったと願う。

(2015-11-27 SNS日記より)

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弟子たちは、みな散りぢりになった [キリスト教]

イエスが近づく死を予見して、弟子たちに、
今夜あなた方はみな私のことで躓くだろうと言ったとき、
ペトロは、わたくしは断じて躓くことはありませんと言った。

今夜、鶏が鳴く前に、あなたは三度私のことを知らない
と言うだろうとイエスが予言めいたことを口にしたとき、
ペトロは、たとえあなたと一緒に死ななければならないとしても、
決してあなたを知らないとは言いませんと誓った。
他の弟子たちも同じように誓った。

イエスの一行がゲッセマネに着いて、
イエスは自分が向こうに行って祈っている間、
ここに据わって待つように弟子たちに言った。
そしてペトロとゼベダイの二人の子だけを連れて進んだ。

やがて、イエスは、わたしは悲しみのあまり
死ぬほどだと吐露し、ペトロたちにここで目を覚まして
ここで待つようにと言い残し、少しはなれたところで祈りをささげた。

イエスが戻ると、ペトロたちは眠っていた。
あなたたちは一時間も目ざめていることができないのか、
心ははやっていても肉体は弱いものだと言われた。

ふたたびイエスが祈りの言葉をささげた後、
戻ってみるとまた、またもや弟子たちが眠っているのを見た。

こののちイエスは逮捕され、裁判にかけられることになる。
このときには、弟子たちはみなイエスを置き去りにして逃げてしまった。
やがて裁判の結果、イエスは死に値する罪人として裁かれる。
この騒ぎの間、ペトロだけは遠巻きに様子を伺っていたようである。
しかし周囲のものがこの男はイエスとともにいた仲間だと
騒ぎ立てると、わたしは何のことかわからないと
しらを切る。けっきょく、3回イエスのことは知らないと否認する。
(この場面はバッハのマタイ受難曲のクライマックスの場面である。)

イエスがゴルゴダの丘で、磔になったとき、
それを見ていたのは母マリア、母の姉妹、クロバの妻のマリア、
ヤコブとヨセフの母マリア、ゼベタイの子の母など、
イエスの行動に付き従っていた女性たちである。

磔の梁の上のイエスの目に映るのは、
教えを垂れてきた弟子たちではなく、
遠くから怯えるような眼差しの女性たち。
一緒に死ぬと誓った弟子たちはその場には、
一人もいなかった。
見捨てられて、結末が孤独の死である。

しかしながら、一筋の光を感じるのは、
同時に磔にされた盗賊のひとりの存在である。

ルカの福音書にしか記述が現れず、名前も分からないのだが、
この男は、磔になり死の苦悶の中にいながら、イエスに帰依した。
あなたがみ国に入られるとき、わたしを思い出してください、
と言ったと記述されている。
イエスは、あなたはわたくしとともに楽園にいるであろうと言葉を与えた。

この男こそいちばん近くにイエスに寄り添い、
本当の弟子となった人物といえるのではなかろうかと、
思えてならない。

(イエスの言動等は、マタイによる福音書、ルカによる福音書によった)


(2015-11-23 SNS日記より)

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アングリマーラへの説法 (自分のためのメモ) [仏教]

超多忙な日々がようやく去って、今日はいちにち
気ままに過ごしました。

アングリマーラという殺人鬼を弟子にした、
お釈迦様の話を思い起こしています。

アングリマーラは優れた能力を持つ青年でしたが、
讒言によりあらぬ疑いを掛けられ、殺人鬼となって
しまいます。

一説には100人の人間の指を首飾りにするという
願を立てて人を殺しては指を奪っていたということですが、
これは後からついた尾ひれかもしれません。

ともかく満願成就の100人目の対象者として、
お釈迦様がアングリマーラの前を通られた。

彼はお釈迦様を後ろから追いかけるのに、
不思議なことに、追いつくことができなかったそうです。

そこでアングリマーラは、お釈迦様に向かって命じます。
「止まれ!」
すると応えて、言います。
「わたしは止まっている、殺人鬼よ。
お前こそ止まるがよい。」

「お前は今歩いているのに止まっていると言い、
わたしは止まっているのに動いているというのか。」

お釈迦様は応えた。
「アングリマーラよ、わたしは止まっている。
生きとし生けるものに害する心を持っていない。
だから心は動いていない。
しかし、お前は生きものへの不殺生の自制心を
失っている。だから心は動き乱れているのだ。
動いているのはお前だ、殺人鬼よ。」

この言葉によってアングリマーラは正気に戻り、
凶器を捨て、お釈迦さまの弟子となります。

        南伝 中部経典 八十六より

なんだ、それだけのことで改心するものかと
若いころは思ってしまいましたが、
歳を重ねるごとに、こういうことはあるのではと
その真実味に打たれます。

殺人を犯していた頃のアングリマーラのこころは、
どれだけ荒んで動揺していたことだろうと思うからです。
そして100人目の満願成就のときに、お釈迦様に出会い、
お前の心は、動いていると、図星のところを突かれます。

人間は後ろめたい部分や気にしている部分を、
ズバリ突かれると、腰砕けになるものです。
(これは合気道の極意でもあるようです。)

アングリマーラのこころには、殺人を犯している己への
後悔の念が49%あり、いや俺はこのまま殺人を
犯していくのだという気持ちが51%あって、かろうじて
悪の道への意思が勝っていたと思うのです。

それが一突きで逆転してしまう。
人のこころはそんな微妙なバランスで
成り立っているように思います。

強がりを言ってもこころは本当のことをうすうすと
知っている。ただ妄想たくさんであったり、
意地を張っていたりすると、
その気持ちが行方不明になる。
で、望んでもいないことがらを、
し続けたりするのです。

余談ですが、イエスはパリサイ人や律法学者たちから、
怒りを買い憎まれる言動をおこない、
ついには磔に遭ってしまうわけです。
お釈迦様の場合は、人の心に一突きして、
相手の心を奪ってしまう。
この凄みがあります。

(2015-11-22 SNS日記より)

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地獄行き (自分のためのメモ) [浄土真宗]

親鸞聖人の言葉には、つよい決意と意味が含まれていて、
ボンヤリ生きている自分は、はっとさせられる。
いつも頭に張りついて忘れられない言葉がある。

「いずれの行もおよびがたき身なれば、
とても地獄は一定すみかぞかし
                  歎異抄第2章」

***人間はどんな修行も完璧にはやり遂げられない
  身なのだから、地獄こそわたしの住む場所です。

だれでも地獄には落ちたくない、極楽に行きたいと願う。
それを自分の住処は地獄がふさわしい、という。
自分は地獄行きは間違いないと、はっきりと理解した。
ハラが据わった。言い逃れはしない。
ジタバタしても、そんなことはお見通しなのだと、
わかっている。

いい子になろうとか、エエ格好しようとか、
そんな気持ちは微塵も無い。
地獄行き決定。すべてをお任せしよう。

地獄といえば、白隠禅師の言葉も愉快である。
檀家の人か誰かが、白隠禅師に訊いた。

名和尚といわれる白隠さんですから、
きっといずれは極楽に行かれるのでしょうね。
すると、わしは地獄へ行く、との答え。

えっ、どうしてですか。
白隠は答える。
わしは地獄へ先に行って、
皆が落ちてくるのを救ってやらねばならん。

地獄へ行こうが極楽だろうが、
そんな自分のことなど、
どうでも構わないということか。

(2015-11-18 SNS日記より)

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慈しみのこと (自分のためのメモ) [人生]

ある僧侶の方が著された本に掲載されていた話です。
法話のあと、一人の男性が相談に訪れたとのこと。
その男性は会社を経営していて大変忙しかった日常を
過ごしていたらしい。

相談とは、今は亡き母親に不幸なことをしてしまったと、
悔いているというのです。
母親は毎日お勤めのお経をあげる信心深い方だった
らしい。
ある日、母親が一度でいいから手を合わせて
お勤めをしてほしいと、息子に強く嘆願したそうです。

そのとき男性は、仕事に出かける間際で、
いまは忙しいから、落ち着いたらゆっくりと
座ることにするよ、と出かけてしまった。
しかし母親はそのあと一週間後に亡くなられたそうです。

なぜ母の望みをその時叶えてあげれなかったのかと、
悔いて悔いて仕方ないと涙を流されたということです。
母親はなにかを感じて、その日、息子に、
日頃思っていた願いを口にしたのかもしれません。

いくら後悔しても、その気持ちを伝え、受け止めてくれる
相手はもうこの世にいないので、気持ちは宙ぶらりんに
なったままです。

亡くなった人には何も伝えられないのです。
そのわだかまりはどれほどのものか。

人の気持ちというものは不思議なものですね。
亡くなるまえに、ひと言、感謝なりの言葉を伝え、
望みを叶えてあげた場合。
いっぽう、そうしなかった自分がいる場合。
何が変わるのだろうかとずっと考えます。

母親を安心させてあげた場合と、
親不孝な状態のまま死別してしまった場合とは、
いったい何が変わるのだろうかと。

ふとネアンデルタール人の墓の話を思い起こします。
シャニダール遺跡というところに、
ネアンデルタール人の墓が見つかっています。
死者の周辺ぐるりと、大量の花粉が発見されています。
つまりネアンデルタール人は死者を弔うのに花を集め、
埋め尽くして埋葬したらしいとわかっています。

原始的な人類としてややもすると下に見る傾向が、
あるかもしれません。しかし彼らは、死者を尊厳をもって
埋葬していたということを示しています。
ならば生きている間も、慈しみあって生きていたという
可能性も大きいです。母親が大事にされ、
老人が大切にされていたのかもしれません。

(2015-11-10 SNS日記より)

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今日の言葉 ~道元・普勧坐禅儀~ [禅]

じつは道元の普勧坐禅儀という書を
あまり読み込んでいない。
ただこの書にある有名な言葉がよく引用され、
その言葉がこころの隅に引っかかっていて気になる。
まあ、いい加減な読み方である。

「所以に須らく尋言逐語の解行を休すべし、
須らく回光返照の退歩を学すべし。」

「・・・というわけですから、何がなんでも、
言語のせんさくから理解しようとするのをおやめなさい。
何がなんでも外に向かって物を逐う心のはたらきの
方向をかえて、自己の正体を照らし出す坐禅修行を
すべきです。」  (玉城康四郎氏 訳)

言葉の解釈をあれこれとひねくり回して、
つじつまあわせの作業を積み重ねていくやり方は、
徒労ばかりだということを主張している。

誰がこう言った、こう解釈したということがらを
いくらたくさん収集しても、そこから何かが
立ちあがってくることはないのだということなのだろう。

所詮はそれらはひとの言葉であり、ひとつの記号で
しかない。言葉自体の中に、何かすごいものがすでに
潜んでいると思うのは、思い込みだろう。

むしろその言葉の中に、自分の体験から得た何かが
盛り込まれているのか、どうかなのであって、
それでこそ、その言葉はいのちを得たといえる。

内的な体験の裏づけの無い言葉は、
単なる器であって空疎なものだ。
このことがなかなか判らず、言葉に何かがあるはずと
推察して、それは何かと質問したり、尋ねたりする。

しかし言葉の意味は、本人の体験で肉付けされるもの。
もし、その人の体験が空疎なものであれば、
彼にいくら善意で言葉を尽くしても、ていねいに説明
しても、それは失敗に終わる。
彼は受け取れる器ではなかった事実を証明するだけだ。

まして説明が曖昧だったとか、ぼかしているとか、
矛盾しているという類の批判はあたらない。
発言者の体験内容の深みまで降りて来い、
という言うしかない。

さて道元の言葉の後半。
「回光返照の退歩を学すべし。」
これは難解な表現だが、注目するのは「退歩」という
言葉である。

ボクはこの退歩という言葉をシンプルにこう考えている。
上で述べた自分の内的体験から会得した言葉の意味、
あるいはそれを会得する行為というふうにとらえる。
それは内面に沈下していくことでしか得られない。
外に何かがあり、それを自分が獲得する類ではない。

「回光返照」という言葉はむつかしいが、
自我の方からではなくて、他から(仏の方から)、
おのずと照らし出されることによって
退歩が導かれる(内的な体験が会得される)という
意味にとらえる。

なお正法眼蔵にも、同意の言葉がある。
こちらは有名な言葉。
「自己をはこびて万法を修証するを迷とす。
万法すすみて自己を修証するはさとりなり」
         正法眼蔵 現成公案 より

(2015-10-12 SNS日記より)

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