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いくたび考えても不思議 (自分のためのメモ) [いのち]

江藤淳氏の自殺に関して、海恵氏は著書の中で、このように記述している。
「江藤氏も、その自殺を讃える人々も、ともに江藤氏のいのちを
江藤氏自身のものであるという暗黙の理解のうえにたって考えているわけです。
江藤氏のいのちをいのちたらしめている「いのち」、
については全く考え及んでいない、と言わざるを得ません。」

         海恵宏樹著『仏の智慧に生きる』 p.14

この部分に、宗教の核心があると考えている。
そしていくたび考え直しても、このいのちの不思議さにうたれ、
また生かされているという現実をあらためて想い起こす。

先日、市街地で暴走事故が発生し、死傷者が出たというニュースに触れた。
運転者は心筋梗塞などの体調不良ににより意識を失っていた可能性が指摘された。
本人はいたって健康であり、むしろ平均以上に堅強な体をもって
運動をしていたと報じられた。この運転者は、おそらく自分がその加害者に
なるなどとは到底考えていなかっただろう。

今日も自分は車を運転して家内と買い物に出かけた。
そして無事に家にもどり今こうしてPCに向かっているのだが・・・
ハンドルを握って運転した自分も、そんな事故などは想定して運転などしていない。

もし自分が安全に運転していたとしても、対向車がこちらに突っ込んできたら、
たちまち事故になる。対向車の運転者が意識を失ったり、
何かのきっかけでよそ見をしたりして、それは容易におきてしまう。
家に戻った自分と、事故に遭遇する自分とのその差は、
いかほどのものなのだろうか。おそらく紙一重なのかもしれないと思う。

暗黙のうちに明日もあると暮らしているが、
その中には明日の来ない人だっていると考えなければならない。
朝目覚めるとき、ああ今日も目が開いたと思う。
就寝中の夜間は意識がなく、そして明日は来ないのかもしれないのだから、
目が覚めたときに、ああ生きていたと思う。

この寝ている間もきちんと呼吸をして息を吸い、また息を吐き、
心臓は適正な心拍数で全身に血を送っている。
体内では風邪の菌や進入するウィルスに対して白血球の攻撃や
防御反応が行われていることだろう。
これはもはや自分の意識できる領域のはなしではない。
なんだかわからないが、全てを制御して健康体を保つように、
何かが作用して自分の身体を維持してくれている。

この生きよと働きかけ、生きる意思を持ち続けるものを、
いのちという名で呼ぶしかない。これはなんと不思議な作用なのだろう。

よくよく考えれば、自分という意識の存在は、
この身体の上に、物心ついた頃に、ポッと生まれただけのものだ。
自分という意識をもつはるか以前の時間より、
自分になるべき身体は鼓動を始め血液を流し、
成長しようと働き続けた。
まだ名前すら付けられていない生命体が生きていたのだ。

自分というものは、後からやってきた新参者にしか過ぎない。
いわば身体を借りてきて、これを自分であると宣言しただけのことである。
あるいは親に名づけられただけのことである。
そしていつしか、自分という存在こそ、
このいのちの最も中心的主体であると信じるに至った。
その先に、江藤氏のような自殺ということが起きる。
いのちが自分により殺されてしまう本末転倒な出来事だ。


(2016-03-07 SNS日記より)

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