SSブログ

出口無し (自分のためのメモ) [宗教]

「煩悩をなくそう、いや、なくなるはずだとする道徳の道は、
人間に対する理解が甘いといわなければなりません。
それは自分の体を持ち上げようとするようなもので、
人間に不可能を強いることではないでしょうか。」

    竹下哲『いのちに出会う旅』より

ここに述べられたことが、道徳と宗教を分かつ分岐点
になっているように思える。

道徳は、善というものを想定し、その善なるものに
近づこうと努力する。この前提になっているのは、
善とは何かが自分はわかっているという思いと、
自分の力で善に近づき、善になりうるという思いだ。

煩悩という側面から言うならば、自らの力で煩悩は
克服できると信じているということだ。
竹下さんは、それは人間には不可能、
きっぱりとノーだという。

こんなことが起きてくる。
煩悩を克服できたという思いが、また新たな煩悩を生み出す。
自分はそれを達成したという自認の気持ちが、
いまだ達成していない(哀れな)人々への差別意識を生む。
驕りと差別を生む元となるのだ。

これは禅でいう悟りについても同様だ。
悟ったという自認の気持ちが高慢を生み、
その人を天狗にしてしまう。
そして野孤禅に堕していくのだ。
若き白隠禅師も悟ったと鼻高々になってしまったが、
やがて正受老人に嫌というほど鼻をへし折られる。

自分の努力で、自分がえらくなった、
オレはこんなに努力してすばらしい人間になった、
という思いが、異臭を放つのである。
鼻持ちならない人物、いわゆる臭みのある人物となる。
口には美しい言葉を語るが、
こころの中は高慢と差別感に満ちている。

その根本は、自分の認識と努力を頼んでいる
という点にある。人間の認識と努力など
たかが知れているのに、
それを絶対だと自ら誇っている思いが臭うのだ。

少しはましになったかなという思いは、
自慢していいかなといっているに等しい。
こう考えていくと、自力の努力には出口が無い。
前進したという思いが、後退していることでもある。
ましになったのか、悪くなったのかわからない。
まさに助けてくれ、と叫ぶところだ。

親鸞聖人は若くしてこの絶望に陥ったと思われる。
いや己の欺瞞のこころに気づいてしまったのだ。
もはや救いなしの状況にいることが、
誤魔化しようもなくわかってしまった。
そして高野山を下山したと言われている。

(2016-04-02 SNS日記より)

にほんブログ村 哲学・思想ブログへ
にほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 仏教へ
にほんブログ村

ブログランキング・にほんブログ村へ
にほんブログ村

nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 

nice! 0

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

トラックバック 0

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。