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久しぶりに触れたヘッセの言葉は心にしみた [文学]

先日、書店で『超訳 ヘッセの言葉』という本に出会い、
パラパラめくる内に、詩心にあふれた言葉の数々に魅了されてしまった。

むかし、『車輪の下』、『デミアン』を読んだはずだったが、
おぼろげな記憶しかない。それに『デミアン』に述べられた思想は、
当時の自分には、むつかしい事柄が述べられていると、
受け取ったような気がする。

断片的ではあるけれど、いまそれらの小説の言葉を読むと、
これほど深く、輝く言葉が迸っていたのかと思う。
愚鈍な自分は、ヘッセを受け取れるようになるまで、
何十年もかかったということだ。

ひときわ惹きつけられた言葉を引用したい。
表題は「一人の人間の中には全人類の魂がある」という
やや大きな題がついている。

「他のみんなと明らかにちがう点に、わたしたちは自分の個性や
人格の特徴があると思いがちだ。そういう思いがあると、
みんなとは異なった点のみが自分だと狭く制限してしまいやすい。
しかし、どうだろう。人というのは、これまで全世界の
構成要素から成立しているのではないだろうか。
自分の魂に、これまでの全人類の魂が含まれているのではないだろうか。
そういうふうに考えれば、わたしたちはあらゆる可能性を
手にしていると思えてくるのではないだろうか。」
   ヘルマン・ヘッセ、白取春彦訳『超訳 ヘッセの言葉』 p.118

ここに述べられた考え方は、西欧流の個人主義の思想とは異なる、
東洋的な味わいを感じさせる。どこか仏教の教えすら思い起こす。

自分自身、若いころに感じていた世界観は、個人は一人で生まれ、
自分を主張し、人とは異なる個性を発揮して、おのれの夢を
実現していくものであるという捉え方だったように思う。

したがって個人の成功への努力が礼賛され、それが断たれたり、
夢が破れたときは絶望しかないという方向へ行くしかなかった。
成功者は一握りでしかない、おのずと多数の失敗者や破綻者が
うまれてしまう仕組みを信じた。多くの諦めと疲弊が生まれるような
社会を形成してきた。
それは本当に正しいのだろうか?

東洋的な思想、とくに仏教では、個人という存在に重点を置かない。
あらゆる存在は、周りとの関連の中で生まれ消滅するあり方を
繰り返していると観る。人間もその例外ではない。

あらゆるつながりから自分たちは影響を受け、考え方や生き方を
形成してきている。「自分独自の」とか「自分だけのもの」というものは
もともと虚妄なんだと教える。もっと大きな存在のなかで生かされ、
さまざまな縁のもとで変転してきたと観る。

一枚の紙の中に雲を見る、おのれの中に敵と同じ心を見る、
あるいは敵に中に自分がいることを見る。
宇宙の中で、宇宙ともに存在している自分の姿を見る。

もうひとつ引用。
たまたま隣のページに掲載された言葉にこんなものがある。

『差別や争いはすべて人間の心から出てきた』

「世界を満たしているはなはだしい差別、ヘイト、排斥、
価値の上下の決めつけ、中毒、放蕩、困窮、傲慢、
ひとたびも鎮められない苦悩、絶えざる諍い、
血みどろの戦争、あらゆる恐怖・・・
これらのものはどれもこれもみな、われわれ人間の心から
出てきたものなのだ。」
   ヘルマン・ヘッセ、白取春彦訳『超訳 ヘッセの言葉』 p.119


(2016-06-09 SNS コラム記事より)

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