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生と死 (自分のためのメモ) [いのち]

海恵宏樹著『仏の智慧に生きる』に、自殺した江藤淳氏のことが論じられている。
江藤淳氏は、著名な評論家で、小林秀雄なきあとの文芸評論の第一人者とも
いわれていたようだ。
長年連れ添った妻を病気で亡くし、自身が翌年には脳梗塞に見舞われ自死した。
残された遺書は、このようなものだった。

「心身の不自由化は進み、病苦は堪え難し。去る六月十日、
脳梗塞の発作に遭いし以来の江藤 淳は形骸に過ぎず。
自ら処決して形骸を断ずる所以なり。
乞う、諸君よ、これを諒とせられよ。」

海恵氏によれば、この江藤氏の自殺に対して識者たちはおしなべて、
自殺礼賛に言葉を費やしたとある。
江藤氏が賢明であるという論調で、石原慎太郎氏、瀬戸内寂聴氏、
浅利慶太氏などの名前が連なっている。

赤間要氏はそれに対して反論している。
「(氏の寂しさを)こころから労わったり、氏の夫婦愛をたたえたりすることと、
その寂しさや愛情の深さに起因すると思われる自殺を、
同列に論ずることは本質的に違うはずだ。
ところが、先のコメントは(識者たちの賛美コメント)は、
無批判にこの二つを混同している。」

浄土真宗の僧侶である海恵氏は、このような指摘を書かれている。
「江藤氏も、その自殺を讃える人々も、ともに江藤氏のいのちを
江藤氏自身のものであるという暗黙の理解のうえに成り立っているわけです。
江藤氏のいのちをいのちたらしめている「いのち」、
については全く考え及んでいない、
と言わなければなりません。」 
    同書 p.14

前日記で成功哲学のことに触れたが、江藤氏はじめその死を礼賛した
著名な識者たちも、この成功哲学と同じく、生は生のみであるという視点でしか、
生きるということを受け止めていないと感ずる。
つまり死を排除した生命観という立場である。
生きているうちが花であり、生きているうちに
できるだけ成功していい思いをしておこうという人生観だ。

そこからアンチエージングという考え方や健康志向というものも生まれてくる。
できるだけ老病死から離れた距離を取ることが、
快適な生活を送る要件であると言うわけである。
そして死や病気との距離が限りなくゼロになってきたときに、
江藤氏はおのれの状態を、
ただ形骸を晒しているという許しがたい姿と見るしかなかった。

ボクには、この耐え難いという感覚が理解できなくもないが、
それ以前に、江藤氏を苦しめたものは、
生と死の分離により必然となる錯覚によるものではないかという思いが強い。

生まれたときも自覚なく生み出されてきた。
どんな容姿で生まれるのか、どのような病気に見舞われるのか、
そして死ぬときも、どのような形でいつそれを迎えるのかはわからない。

いのちをはぐくんでいる広大な世界において、
生と死は一体となってうねりながら繰り返されてきた海のようなドラマだと思う。
自分はそのうちの生の一部分をいただいた。
いや自分という不確かなものが生の上に生じただけだ。
突き詰めると、生は死に支えられている。死を想わないと、
生は考えがたい。

もしその世界から、死という忌まわしいものをスパッと切り離して、
輝く生というものだけがあるのだ、と考えることは
本当の意味で困難を感じる。

生は、とつぜん闇の中から出現すると考えなければならない。
いやそもそも闇は無いという立場からすると,
生はどのようにして出現することが可能なのだろうか。


(2016-03-06 SNS日記より)

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後ろから見る眼 (自分のためのメモ) [いのち]

福島智さんの著書に引用されている、吉本隆明さんの言葉。

吉本さんは、雑誌の特集で、「幸せになる秘訣があれば、
お聞きしたいと思いまして・・・」と問われたとき、
「そんなものがあるなら、僕が聞きたいよ」
と言ってから、こう述べた、とある。

「わたしたちは前を向いて生きているんですが、
幸福というのは、近い将来を見つめる視線に
あるのではなく、どこか現在自分がいきていることを
うしろから見ている視線のなかに
ふくまれるような気がするんです。」
  朝日新聞社『アエラ』 2005年1月17日号 p.14

この発言に対して福島さんはこう述べている。
「したがって、自分の姿を見る、それも後ろから見るということは、
仮想的に自身の視線を体から分離させて「後ろ」に
持っていくしかないということです。
ところがそもそも視線というものは、「見る方向」のことですから、
それ自身には実体がない。
だから、視線を生み出すもの、すなわち「目」が後ろに存在しないと
いけないわけですが、もちろんそんなものはない・・・」

   福島智著『ぼくの命は言葉とともにある』 p.227

もちろん常識的な見方では、後ろから見る視線などというものは、
存在しない。眼は前方を見るようにしかできていない。
しかしひとたび宗教的な(霊性的な)観点から、
この話を受け取るならば、これはきわめてまともで、
人生の真実を突いた言葉といわざるを得ない。

常識的には幸福というものは、われわれが実現すべき目標として
受け取られている。つまりこれから先に実現される好ましい状態ということだ。
幸福のことを考えるということは、
今は幸福ではないことの裏返しである。
真に幸福なひとは、さらに幸福を求めはしないだろう。
さらに求めるならば、幸福とはいえないだろう。

そして前方にある幸福のイメージは、永遠に手にすることはないだろう。
たとえ手にできたとしても、手にしたものが、ふわっと自分を包み込み、
幸福な状態にしてくれるような魔術が起きるだろうか。
幸福の実感とは不思議なものだ。
欲しいものが手に入った瞬間、手に入ったという興奮が訪れる。
しかし、それは持続しない。

所有することで、自分が幸福に包まれるというのは幻想に近い。
何かを自分の所有物にすることで、あるいは何かのステージに自分が立つことで、
自分の状態が化学変化し、幸福状態に変化するだろうというのは、
昔立てた予想である。
イメージした幸福の中に自分が入れば、
幸福の実感がやってくるにちがいないという、
以前抱いた予想にすぎない。

実際のところ、そのイメージが実現したときに、
自分は何も変化していないことに気がつく。
なぜなら幸福とはどういうこと状態なのかが判っていないからである。
どうなれば幸福と感じるのだろうか。

後ろから見る視線とは、自分の姿をいいこと悪いこと、
丸ごと見てしまう視線であろう。
自分が如何に生まれ、如何に育ったか、そして如何に周囲のものに
支えられて生存し得ているか、自覚するしないにかかわらず、
孤独でなくつねに関係性の中で生き得ている、
そのあらわな姿を照らしだす光の存在であると思われる。

福島さんは、後ろから見る目というものはもちろんないわけですが・・・
と書かれている。それは後ろにあるものを自分の目とみなしてしまうからである。

後ろの目はしっかりと存在する。それがなければ、誰も生きていけない。
ただそれは自分の目ではない。
自分の存在を包み込んでいる大いなる目、
かつて自分が生まれ、やがて自分が死んでいくドラマを見ている目である。
その目の前で生きるわれわれは、注がれた視線を浴び祝福されている。


(2016-02-16 SNS日記より)

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ふたたび著書を読んでみる [いのち]

何十年も昔に買って手元にある神谷美恵子さんの本を、ふたたびぱらぱらと読む。

こんな言葉に目が留まった。
「他人が自分をけなしても、それで自分の価値が下がるわけでもなく、
褒めても自分の価値が上がるわけでもない。
そもそも自分の価値のあるなしすら、わからないのが人間ではないだろうか、
ただ自分は自分でしかないのだ。」
        『人間を見つめて ~人間をとりまくもの~ p.102

さらりと書かれているが、この言葉の意味は深い。

変人のボクはいろいろな想像をする。

人が自分をけなす言辞を発する。
このときこの言辞は理解可能な言葉として発せられるわけだが、
その言葉が自分の耳に到着したときに、自分の価値が下がるのであろうか。
あるいは、けなす言葉がその人の心に生じたときに、
すでに自分の価値は下がるのだろうか。
あるいはけなす言葉の意味が了解され、
それは確かに正しいと自分が判断したために、
自分の価値が下がるのだろうか。

よく考えると、この何れもおかしい。論理的に理屈が通らない。
発せられた言葉により、自分の価値が決められるとは、
どうもねじれた考え方だと思わざるを得ない。

大いなる存在により生かされている自分の価値は、
生かしめている大いなるものの価値と同等のものである。
なぜなら自分を作ったものは自分では無いから。

したがって自分の価値を貶める言葉というのは、
自分には責任のないことがらとなる。
また大いなる存在は、けなす言葉を発した者すら生み出したものだから、
じつは自分自身をけなしていると見ることも出来るだろう。
するといったい何をしているのか、理解が出来なくなる。

けなす者もけなされる者も、おなじ土俵にいる存在なのだから、
価値が下がるならば両方とも下がり、下がらないならば両方下がらない。
神谷さんは、そもそも人間の価値などについて、
何もいえないのではないかと問いかける。

(2016-01-11 SNS日記より)

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