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ペンフィールドの結論 [科学・技術]

カナダ人神経外科医ペンフィールドは、モントリオール神経学研究所の初代所長になった頃は、唯物論者だった。
精神とは、脳の活動が生み出したものに過ぎない、という見解に立っていた。

彼は脳のマッピングというものを作った。脳地図とも呼ばれるこの図は、脳の各部位が身体のどこを制御しているものかを描き表したものだ。よく脳の表面に手や目などのイラストが描かれた図をご覧になった方もおられるだろう。

てんかん患者の脳のあちこちを電極を用いて刺激して、身体のどこに変化が現れるかを、詳細に調べたのだ。こんな調査を数十年行ったというから、その徹底振りは並ではない。

その中で、電極刺激によって反射的な肉体反応が現れたり、感覚が生じた。幻覚作用も引き起こされ映像を観ることもあったようである。脳には痛感というものがないため、患者は覚醒したまま、マッピングの調査を受ける。

最も興味深く思うのは、その調査の過程で、患者はいつもはっきりと自覚していたそうである。電気刺激で身体が動いたりすると、今のは外部の刺激で動いたのだと。
自分の意思で動かす場合と、外部刺激で動かす場合が、はっきりと区別できたと告げたということなのだ。

ペンフィールドは、研究を締めくくるにあたり、こう述べた。
「意識、論理的思考、想像力、意志力といった高次の精神機能は脳が生み出したものではない。精神とは脳と相互作用する、非物質的な現象なのである。」

もし脳という器官が、精神を生み出しているとするならば、電気刺激を受けて動きだした脳は、その起動した原因を自覚できない。外部からの刺激だろうが自発的な意思であろうが、脳の中でおきる電気パルスの行き交うさまは、まったく同じものであるはず。
唯物論の立場では、電気パルスの交錯するプロセス以外は、脳内には何も無い立場だから。

外部刺激ではなく自分の意思で身体を動かしたり、考えたりする世界(つまり精神と呼ぶもの)が、明確に自分のなかに内在しているという自覚、つまり自己の存在というもの、ここにポイントがある。自己はどこにあるのだろうか。

唯物論者として脳の機能を解明するという大きな仕事に取り組んだペンフィールドが、晩年に得たもの、それはまことに皮肉にも、その正反対の結論だった。

(2014-02-28 SNS日記より)

あくなき探究心こそ上達の源 [科学・技術]

上達の技術の続々編です。

何ごとでも、やる気があるかどうかが大事ですが、
脳の中の神経回路に、このやる気に関連する回路が
2つあるのだそうです。
A6回路とA10回路というのだそうですが、
それぞれ「やる気のハイウェイ」、「快感のハイウェイ」とも
呼ばれています。

A6回路は、大脳の広い範囲にまたがって走っている神経で、
好奇心、創造性、集中力に関係していて、ここが失調するとうつや神経症になるとか。

普通の神経回路は、それが興奮するモードになると、
沈静化する別の神経回路があって、興奮を抑制するという拮抗する仕組みが
出来ているのに対して、面白いことにこのA6回路には、抑制する神経がないということ。
つまり興奮しっぱなしで、止まらない。

なんとなく納得の方もいらっしゃるのではないでしょうか。
(自分の場合、この止まらない感じはわかります)

A10回路の方は、人に限らず動物も持っている快感の神経回路ですが、
人の場合はA6回路の好奇心と結びつくことで、劇的に進化してきたとのこと。
つまり創造的なことがらや、好奇心などを働かせるときに、
強くそれが快いと感じる仕組みなんですね。

この好奇心というものを働かせ、特定のテーマに集中させ、
深く突き詰めて考えるのが探究心で、この探究心を絶えず燃やし続けているのが、
イチローなどの一流選手だそうです。

つまり、好奇心から探究心が生まれ、そこから創造性が発揮されると、
快感物質(ドーパミン)が放出される。
そのドーパミンがまた好奇心を駆り立てるというサイクルがあって、
これが回りつつ上達していくということみたいですね。
探求していく姿勢が、上達の鍵ということでしょうか。

こうしてみると、どうも能力とか才能とかの要素は、
あまり入ってこないですね。
こだわり続け、探究心を燃やし続けられる能力が、
才能の正体なのかもしれません。

(2014-02-07 SNS日記より)

上達の技術 その2 [科学・技術]

先の日記の続編です。

面白いデータがあるそうです。
運動など、最初からうまくこなしてしまう人がいますが、
じつは器用な人は意外に伸びないというデータがあるのです。

不器用な人がたゆまぬ努力をして上達するスタイルが
後半戦で伸びていくということらしいのです。

前書にも、
『チャンピョンは、案外不器用な晩成型のアスリートが多いのです。
もっといえば、才能は少々不足していた方が大成できると私は考えています。・・・
              児玉光雄著「上達の技術」p.39 』

凡人としては、とても勇気づけられるお話なのですが、
それはなんとなく納得いくところがあります。

家内は昔から書道教室を開いていて、
お子さんたちを教えている経験が豊富です。
そんな彼女があるときこんなことを言ったことがありました。

「始めたばかりなのに、器用にさらさら書いてしまう子がいる。
最初とてもすごい子だなと見ているのだけれど、そのうち伸び悩み、
頭打ちになってしまうことが多い。
本当にうまくなる子は、こういうタイプではない・・・」

考えてみると、器用な人は、いろいろなことが満遍なくできるので、
技のレパートリーが最初からたくさんあります。
新しいスポーツに取り組む際に、
その引き出しからいろいろな使えそうな技を持ってくるのではと推察します。

つまり本当は練習によって手に入れなければいけない技を、
別の間に合わせで持ってきた技術みたいなもので、こなしてしまう。
そんな気がします。

でも、進んだ段階になると、付け焼刃的な技術では間に合わなくなってくる。
食い違いがでてくる。そしてほんらいの技術を
練習しなくてはいけないわけですが、
それがなかなか出来なくて停滞する、そんなイメージです。

スポーツには基本動作というものがあって、
それは無意識でも出来なければいけないと思います。

不器用な人は、それに真っ向勝負している感じがあって、
なかなかクリアできません。間に合わせの別の技を持っていないので、
いつまでもモタモタしていて上達しない感じがあるのです。格好悪いのですね。

でもひとたびそれを習得したとき、その基本技術の上に、
次々と上の技術が積み重ねができ、応用も広がるので、
急速に上達するのではと思うのです。

基本の技術や動作の大切さを思うわけですが、
練習はそこに焦点をあわせなければいけませんね。
小技やしのぎ技でごまかしていると、いずれ伸び悩んでしまうということです。

ふたたび家内の言葉ですが、
「最初からうまく器用に書く子は、観察していると真似がうまい。
人のものを見てそっくりに書く技術、つまり物まねがうまい感じがするのね・・・」

なるほどの言葉です。
だてに長年教えているわけじゃないねぇ・・・

(2014-02-06 SNS日記より)

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