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いくどでも、いつでも [宗教]

ボクたちはいつでも目覚めているわけではない。
ときに妄想し、空想の中で遊んでしまう。
そのたびに足元がふらついて、自分がどこにいるのか
わからなくなる。青い鳥を見つけたと興奮して、
「今」からさ迷いでてしまう。

それら迷いまみれのことがらは、むかしから
多くの人がやってきたことがらだ。
それが失敗だったと気がついても、気がついたことへ
気持ちがさ迷っていく。気がついたという思いが
新たな迷いの種子となる。

こうしてわけも分からず自分が何をしているのかも
わからず時間が過ぎていく。死の床まで同じだ。

死の淵へ行く体験などによって、いかに自分が
生の側にいて安心しきっていたことに気がつく。
身近な人が亡くなる、死病をする、重大な事故や
災害に遭遇する。

人はこんなに簡単に死んでしまう。あるいは自分も
あっさりと死んでしまうのだろう。
死の淵に揺られているいかだの上で、酔って騒いでいる
自分に姿に気がつく。いかだの上の気晴らしだった、
要するにそうして、人生の時間を費やしていたと気づく。

いく度でも、いつでもこの気付きに戻らねばならない。
この原点に戻るときに、このいまの生の現実に、
向き合い、真実に向き合う。そしてそれが
大いなる恵みなのだと。

偉大な宗祖はみなこのことがらを口にしていない。
言葉を飲んでしまった。口にすれば誤解され、
あやまった理解がされるのみだから。
かすかにその地点に到達するものへの暗示を残した。


(SNS日記より 2016年10月7日)
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