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いまを基準に考えると霊魂にいきつく [思想]

釈迦の弟子で、マールンクヤープトラという人が、
人間が死んだらどうなるかを、釈迦に尋ねた。
そのとき釈迦は、何も応えなかった。

思いつめた弟子は、また別の日に釈迦に尋ねた。
今日こそ答を聞きたいのです。
お答えしてくれないならばこの教団を去ることに
なるでしょう。

そのとき釈迦は、毒矢のたとえを言った。
毒矢に射られた人が、この毒矢は誰が射たもので、
いかなる弓により射られたものか、それらが
明らかにならないうちはこの矢を抜いてはならぬ、
といっていたら、それらが解明されないうちに
男は死ぬであろう。

マールンクヤープトラよ、霊魂があるのか、
来世があるのか、死後の世界があるのかどうか、
それらの問題に答えたところで、
われらの苦の人生の解決にはならない。
われらがすべきは、この苦なる人生の克服である。
私の説かないことは説かないままに受持するがよい。
また私が説いたことは、説いたままに受持するがよい。

+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++

先日、H先生にお会いしたとき、先生はふたたび
霊魂が存在して死後の世界があるのだと考える方が、
死の苦しみが減る、あるいは和らげられる
というような趣旨のことを言われていた。

死の不安に対して、死後の世界があって幸福なまま
(つまり天国のような幸福な世界が待ち構えていて)、
その世に移行できると考えることで、安心感が増すという
捉え方だった。

しかしその説を聞くたびに、ボクは居心地が悪い。
いまの死への不安の解決のために、
来世があるとか無いとかの信仰が決定付けられるのは、
順番が逆。
来世があると信じられるから、安心立命できる、
というのが本来の順番というものだろう。

釈迦の言われた言葉通りであると、ボクは思う。
来世があるのかどうかなどはわからない。
むしろ死の不安というものが、何故に生まれて
くるのかを解明することが先であると思う。

それにH先生の心の中に、驕りのかおりを
感じとってしまう。
いまの生活を基準に(いまの幸せな生活を基準に)
死というものを考えると、いまの生活の放棄、崩壊、
大いなる減額というふうに必然的になる。
なぜなら今が普通で当たり前の生活とみなしているために
死はすべての喪失とならざるを得ない。
現在が、平凡だけれど普通のゼロの状態としてしまえば、
死とはマイナスの極地であろう。

霊魂を想定するのは、死んだあとでも今のような
恵まれた普通の生活が欲しいという欲望なのだ。
今を手放さない、死後までも手放さないのである。

ボクはいつの頃からか、それは違うと考えるようになった。
いまの生活は大いなる祝福されたものである。
生きとし生けるものは、いのちを与えられ祝福されている。
今が恵まれて、ありがたいものだと受け取るようになった。
そして死ぬことは、その恵まれたものをお返しする儀式
というふうに考えるようになった。

死ぬとは、恵みを捨ててゼロになることである。
この死のゼロの状態が、普通で当たり前である。
(ほんとうはこの状態こそが、すべてを育んでくれる
大いなる世界なのだが)

死の不安を解消しようとして、あれこれと捜し求めて
フラフラとさまようこと。それは十分に祝福され
与えられているいのちを喜んでいる姿勢ではない。
そのことに気がつかないで、
どこかに喜べるものがあるのではと捜し求めている。
しかしもうすでに、それを手にしているのに、
まだ追い求めている貪りを感じてしまう。

白隠禅師が、座禅和讃で謳っている。
・・・
衆生近きを知らずして
遠く求むるはかなさよ
譬えば水の中に居て
渇を叫ぶが如くなり
長者の家の子となりて
貧里に迷うに異ならず
・・・

もうすでに救われている。
救いを求める必要は無い。
救われていることを知るだけでよい。
現に祝福されているのだから・・・
霊魂があろうがなかろうが、それは左右しない。
そんなことを、心の中でつぶやいたわけだが・・・

(2015-09-22 SNS日記より)

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