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今日の言葉 ~道元・普勧坐禅儀~ [禅]

じつは道元の普勧坐禅儀という書を
あまり読み込んでいない。
ただこの書にある有名な言葉がよく引用され、
その言葉がこころの隅に引っかかっていて気になる。
まあ、いい加減な読み方である。

「所以に須らく尋言逐語の解行を休すべし、
須らく回光返照の退歩を学すべし。」

「・・・というわけですから、何がなんでも、
言語のせんさくから理解しようとするのをおやめなさい。
何がなんでも外に向かって物を逐う心のはたらきの
方向をかえて、自己の正体を照らし出す坐禅修行を
すべきです。」  (玉城康四郎氏 訳)

言葉の解釈をあれこれとひねくり回して、
つじつまあわせの作業を積み重ねていくやり方は、
徒労ばかりだということを主張している。

誰がこう言った、こう解釈したということがらを
いくらたくさん収集しても、そこから何かが
立ちあがってくることはないのだということなのだろう。

所詮はそれらはひとの言葉であり、ひとつの記号で
しかない。言葉自体の中に、何かすごいものがすでに
潜んでいると思うのは、思い込みだろう。

むしろその言葉の中に、自分の体験から得た何かが
盛り込まれているのか、どうかなのであって、
それでこそ、その言葉はいのちを得たといえる。

内的な体験の裏づけの無い言葉は、
単なる器であって空疎なものだ。
このことがなかなか判らず、言葉に何かがあるはずと
推察して、それは何かと質問したり、尋ねたりする。

しかし言葉の意味は、本人の体験で肉付けされるもの。
もし、その人の体験が空疎なものであれば、
彼にいくら善意で言葉を尽くしても、ていねいに説明
しても、それは失敗に終わる。
彼は受け取れる器ではなかった事実を証明するだけだ。

まして説明が曖昧だったとか、ぼかしているとか、
矛盾しているという類の批判はあたらない。
発言者の体験内容の深みまで降りて来い、
という言うしかない。

さて道元の言葉の後半。
「回光返照の退歩を学すべし。」
これは難解な表現だが、注目するのは「退歩」という
言葉である。

ボクはこの退歩という言葉をシンプルにこう考えている。
上で述べた自分の内的体験から会得した言葉の意味、
あるいはそれを会得する行為というふうにとらえる。
それは内面に沈下していくことでしか得られない。
外に何かがあり、それを自分が獲得する類ではない。

「回光返照」という言葉はむつかしいが、
自我の方からではなくて、他から(仏の方から)、
おのずと照らし出されることによって
退歩が導かれる(内的な体験が会得される)という
意味にとらえる。

なお正法眼蔵にも、同意の言葉がある。
こちらは有名な言葉。
「自己をはこびて万法を修証するを迷とす。
万法すすみて自己を修証するはさとりなり」
         正法眼蔵 現成公案 より

(2015-10-12 SNS日記より)

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