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前日記への感想に対して [キリスト教]

前日記のボクの語り口に対して、ある方が感想を寄せられました。
(それは日記へのコメントに書かれてはいません。)

その内容とは、日記の記述がペトロに対して可哀想だというものでした。
酷といってもいいくらい、ペトロや弟子たちの行動を追った文章を読み、
そのように感じられたのかもしれません。
日記に記した内容は、すべてマタイ福音書、ルカ福音書の記述に
したがっているものです。(フランシスコ会聖書研究所訳注)

そのように感じられるだろうというリスクは、うすうす感じていました。
克明に事実として何が起きたのかを冷静に記述することは、
科学技術の職業に長年籍を置いていた自分としては自然なことです。

しかし、おそらくそうではない方々には、
なぜそこまでするのかという反応があるのは予想されることでした。
つまりは冷静に起きた事実を見つめる行為の前、
あるいは見つめていく過程で、
可哀想だとかいう情緒に流されてしまう反応です。

でも、まずわかる限りの事実を明らかにしなければ、
福音書に記述されたドラマを理解することはできないと考えます。

そして情緒的な反応について言えば、
ほんとうに可哀想だったのはイエス自身であるという気持ちが
まず浮かび上がります。同情すべきなのは、
捕らえられ無実の罪を着せられ処刑されたイエスの方でした。

ペトロや弟子たちはイエスを捨て逃げてしまうことで、
身の安全を確保しました。イエスの仲間だった事実を、
ウソをついてまで否定して自分の身を守りました。

ではペトロたちを、お前は非難するのかと言われそうですが、
ボク自身もやはりペトロだったろうと感じています。
人間は弱い。身に危険が迫れば、その弱さを露呈してしまいます。
悲しいまでの弱さです。それが人間の現実であり、
いくら誓いを立てていても場面によっては
守ることができないという現実があります。

さるべき業縁のもよほさば、いかなるふるまひもすべし
(人間は誰でも、目に見えぬ業のちからがはたらけば、
どんなことでもなしうるものなのだ)
『歎異抄 十三条』
という親鸞の言葉も思い浮かべます。

しかしペトロたちは逃げてしまい、
身にふりかかる危険を回避することはできましたが、
こころの安寧を完全に失っただろうと思われます。
どんなことでも、弱さゆえにしてしまうものだと、
魂の深いレベルで自覚したことだろうと想像するのです。

ヨハネ福音書には、姦淫の現場に引きずり出された女に、
石うちの刑をおこなう場面が出てきます。
モーセの律法ではこのような女は石打ちの刑で殺さねばならない。
さあどうするのかと迫る律法学者やパリサイ人に対して、
イエスが発した言葉は、あなたがたのうちで、
罪を犯したことの無い人が、この女に石を投げなさいと言います。

人間は弱い。そして罪を犯す。
その弱さを、あなた方は自覚しているのかと、
イエスは問いかけています。
人を裁いたりする罪の自覚、
何でもしてしまう弱い自分への自覚、
イエスの言葉は、つねにその部分に問いかけています。

(2015-11-29 SNS日記より)

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