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くりかえされる問い [いのち]

まったく忙しい日々となってしまいました。
定例のお店主催の絵画教室があり、
おまけに公民館の絵画教室も今週は重なって、
さらに頼まれた塾の講師の仕事も週2回あり、
昼間は画材店の営業をしている・・・

つまり昼も夜も間断なく仕事に追いまくられています。
おまけに受験生のための冬季集中講座の企画が
あって、正月休みに駆り出される予定です。
スキーなどやっていられるのか・・・
という勢いとなってきました。

ところで昨晩、久しぶりに鈴木大拙の禅の本を
本棚から取り出してぱらぱらと読みました。
そこで目に留まったのは、
釈迦は形而上学的な問いにはお答えにならなかった、
という一節です。

そこに仏教の核心があると信じていますが、
普通の感覚では、それは見過ごされていることがらでは
ないでしょうか。

人生の悩みや苦しみの大きな部分は、
この形而上学的なものに分類されると思います。
わけのわからない禅問答、ちんぷんかんぷんな
答えも、このことと関連していると感じますね。
別の言い方をすると、ほとんどが無益な問い
ということになります。

死後われわれはどうなるのか?
人生の意味はあるのか?
霊魂の存在ははたしてあるのか?
この人の目が見えないのは、
なにか祟りがあったのか?
このような不幸なことがらは、
犯した罪の報いが来たのか?

この無益な問い、と切り捨ててしまっていますが
この疑問は、ときにつらいときや苦しいときに、
心に浮かんできます。
そしてわれわれの手の届きようのない
このような問いに絡め捕られて、
しだいに雁字搦めになります。

いくどなく繰り返され、苦しめられる問いです。

釈迦はこのような問いに答えなかった。
しかし後世の仏教の発展においては、
この問いに対する答えがしだいに用意されていった
と見えることもあります。
しかし元をたどると、
お釈迦さまは問いを退けられました。

その理由は何か。
死後の世界はあるのか?
どこかの誰かがその答えを用意したとすると、
つぎに、そこはどうなっているのか?
安楽なのか?
と問いは続きます。
その安楽な場所に自分は行くのか?
どのようにすればそこへ行けるのか?
・・・
問いかけは已むことはありません。

そこへあなたは確実にいけますよ、
安心してください、間違いないですよ、
と言われて、大安心しました!となるでしょうか?
その保証はどうなっていますか?
それを保証してください・・・
問いかけは、つぎつぎと先へ先へと進みます。
自分自身はいまのままで、問いだけが進みます。

その中で、己の姿が浮き彫りになってきます。
要するに、いまのまま楽にしてほしい、
このままでずっと安楽な生活を続けたい、
死んでもずっと楽に、苦しみのない生活が
続いてほしい、
いまのこの現状を手放したくない、
握りしめたものを捨てたくない、
諦めたくない・・・

そんな己の姿がぼんやりと見えてくることで、
この問いの構造が見えてきます。
自我がほしいものを握り締めている姿です。
そして満足のいく答えは、どうもありえないな・・・
というふうに気がつくのです。

(2015-12-12 SNS日記より)

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