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悟りについて (自分のためのメモ) [禅]

ひとから悟りとは何なのですかと問われることがある。
ずばり、あなたは悟ったのですかと訊かれることもある。

悟りを言葉で説明するのは難しいです、と答える。
それに自分は悟りなんか得ていないし。

でも悟りにあこがれる気持ちはよくわかる。
若い頃よりその悟りに憧れ、禅の書などを
あれこれと読み、その心境の秘密を探ろうとしてきた。

ここに良寛さんの文章がある。
ちょっと長いが引用してみる。

「もし人が自分の力で悟り終われば、
釈迦は何も述べる必要がない。
そこで執着から離れることのできる人は、
仏教の中心の意味を理解し、
すぐに悟りうる人になる。
しかし執着から逃れられない人は、
ことさら執着にしばられて自由が奪われ、
経文の言葉にこだわりその言葉が
道に遠いか近いかを勝ってにきめ、
さらには他の人の解説書に没頭して、
日夜心をすりへらしている。
悟りを得ようとすれば、
かえってその悟りにとらわれて迷い、
迷いをよく理解すれば、
迷いはかえって悟りになる。」

 良寛 『草堂集』 七九

これはとっても明快な説明だ。
悟りへの執着にとらわれてしまうことへの警告である。
悟りを強く求めるほど、迷いになるよと言っている。
その迷っている自分のこころの状態が、
すとんと自覚できたときに悟ったと言われる。

おなじことがらを、道元禅師も簡潔な詩的言葉で
述べている。

「迷を大悟するは諸仏なり、
悟に大迷なるは衆生なり。
(迷いを迷いと知るのが悟った人であり、
悟りに執するのが悟っていない人である。)」

  道元 『正法眼蔵』 現成公案

ドイツ人僧侶のネルケ無方さんも、
こんなことを書いておられる。

「松陰の 暗きは月の 光かな」
これは道元禅師のものではなくて、浄土真宗で
よく詠まれる句だそうですが、迷いと悟りの関係を
まさによく表現しています。
松陰、それはわたしの暗い部分でしょう。
月という悟りに照らされてこそ、
この陰が見えてくるのです。
月が明るくないときは、
自分の欠点もぼんやりしてしまいますが、
悟れば悟るほど、自からの迷いがはっきりしてきます。

 ネルケ無方 『読むだけ禅修業』

悟りの量が増えるほど、迷いの量が減り、
理想の修行が成し遂げられる、
と言うのではないと否定されている。
悟りと迷いは、正反対の概念ではないよ、
ということだ。

迷いが深いほど悟りも明快であるという
悟りと迷いはセットになっていると言うことである。

このことは有名な親鸞さんの言葉、

「善人なおもつて往生をとぐ、
いはんや悪人をや」

の真意とぴったりだ。
おのれの悪人ぶりを深く自覚すればするほど救われる。
自分を善人であると自負する者ですら
(迷いのない人間だと誇るものですら)
最終的には救われているのだから。

この逆説的な関係に執着すると、
これがまた迷いのもとなのであるけれどね・・・

良寛さんの言葉にこんなものがあり、
これは実に平易な言葉だ。
しかし易しくはない。

「たとえ、万巻の書を読んだとしても、
悟りにつながるひとつの言葉を保つことに
かなうものはない。
では悟りに至る言葉とは何かと尋ねられたら、
ありのままに自分自身の心を知ることだと
答えたい。」

  良寛 『全詩集』 四三六

(2016-04-08 SNS日記より)

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