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ほぼ禅問答になる [禅]

先日の宗教に関する読書会で、すこし議論のあった話題です。
ある方の述壊から始まりました。

「自分は若いころから禅に興味があって、
その悟りの境地というものを知りたくて、
これまでお寺で座禅を組んだりしてきた。
悟りを得ているとされる有名な住職さんを見つけては、
その悟りの境地を教えてほしいと願った。
しかし、だれひとりそれを教えてくれる人はいなかった。
ただ冷暖自知(自ら冷たい暖かいを体験)しなければならないとか、
不立文字とかいう言葉をいわれるばかりだった。
振り返ると禅のお坊さんというものは、不誠実で不親切だと思う。
民衆を救おうという気持ちを持った人はいないのではないか。」

こんなお話でした。

そういう側面が、今の仏教界にあるのかもしれませんが、
としながらも、自分は、体験は言葉とは違うという
というコメントをしました。
話し出すと長くなると思い、それ以上話しませんでした。

しかし、ここには重要な内容があると思っています。
ひとつは、体験というものと言語とはかけ離れたものだということ。
それに、体験を正直に語ろうとしても、
それは言葉として理解不能になるだろうということです。

たとえば釈尊の悟った内容を、体験者として言葉にしたとします。
じっさい弟子たちが釈尊の語った内容を記録しておこう
という時代がありました。それらが経典として今に伝えられています。

しかしわれわれは、その言葉が理解できないのです。
それが現状です。
たとえば、縁起の法則。諸行無常の法則、などなど・・・
どこがありがたいのか・・・
真髄が語られていながら、なぜ理解できないのか、
そこに言語の限界という溝があると思うのです。

悟りの内容を教えてほしいといわれて、
その境地を正直に真剣に答えたとします。
たとえば、趙州禅師が僧に問われて、
達磨禅師がインドから中国にやってきて仏教を伝えたその心は何か、
というものです。つまり何を伝えたくてはるばるやってきたのか、
仏教の本質とはいったい何かという質問です。
そのとき趙州禅師は、庭に植えられている柏樹と答えました。
(前のコラムに書いた内容です)

そんなことで答えとしないでほしいと僧は言います。
趙州禅師は、はぐらかして答えたのではないと返答します。
自分は趙州禅師はふざけることなく真剣に、問いに答えたと思います。
仏教の教えの真髄は、日常の生活のあちこちに
明々白々として顕在していると見ます。

しかし人生の問いや仏教の核心を考えて悩むことを、
なにか特別な高尚な事柄をしているというのだという
蒙昧なところに埋没してしまっている頭には、この答えは響きません。
もっとすごい深遠な答えがあるのではないか、
高等な開示がなされるのではないか・・・

僧の受け取り方はせいぜい、そんなものですか?
と不服な顔をすることぐらい。

逆に、
ほんとうにその通りですね!
ああその意味が自分にはビンビン分かる!
やはりそうでしたか!
と受け取る僧は、悟りを体得しているのです。
したがって、そのそもそんな質問をするはずがないのです。

分かっている人は問わない。
分からない人が問う。
そして分からない人は、
やっぱり分からなんだということを知る、
というような構造です。

庭の柏樹だという答え。
冷暖自知すべしという答え。
そこにあるとても親切な答え。

(2016-06-30 SNS コラム記事より)

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