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信じるということ [宗教]

宗教に関することがらを勉強しようという趣旨で、月1回集まりをもっています。
7月からは歎異抄を通読してみるという試みがスタートしました。

第1条の有名な文章は、歎異抄全体をまとめたように感じます。
とくに、信じるということがらが、ポイントであるように思います。

普通の意味で「信じる」という言葉で了解されている内容とは、
かなり異なると思われます。
異なるというよりも、ガラッとちがうことを指しています。

普通の意味で言われている信じるという内容は、
こんな風ではないでしょうか。
まず「自分」がいて、つぎに「神」や「阿弥陀仏」が向こう側にいると仮定して、
次にそれが本当にいることを信じるという順番です。

信心がないならば神という存在は在り得ないということになります。
神がいないということになれば、自分しかいませんね。
宇宙の中の孤独のような・・・

自分の信心があれば神が出現します。こちらの信心しだいで、
出たり隠れたりします。まことに忙しいことです。
神の存在の決定権は、この自分の信心しだいと言うわけです。
この中で貫かれている考えは、「自分はいつもいる」という前提です。

ところが信仰とは、まず自分が先にあってそこから始まるという順番ではないのだ、
ということをはっきりさせなければならないのです。

自分があろうがなかろうが、その世界は厳然としてあったであろうと
考えるのがすじです。自分の存在は、100年前には無かったし、
100年後も無いでしょう。具体的には、
物心ついたときから始まり、死んで意識を失うまでの、
たかだか100年弱の儚い存在です。
そんな自分という存在が、神の出没を決められるわけが無いのです。

むしろ神のような世界の側から、自分はいろいろな縁をもらい生まれ出てきた、
というべきでしょう。それが本当の偽らざる事実です。

すると、信じるということは何を意味するのか、再検討しなければなりません。

それは、神の支配している世界から自分が何かの機会に
生まれ出てきたことを前提に考えるならば、
信じるとはこの世界の真実を気づかされることを意味します。
自分の置かれた位置や、成り立ちを自覚することになります。

別の見方をすると、それは真実の世界の呼びかけに、
初めて気がつくということです。神が在るとか無いとかは空論であった、
頭の中の空想であった、と夢から覚めることです。

歎異抄の第1条には、
「念仏申さんとおもひたつこころのおこるとき、
すなわち摂取不捨の利益にあづけしめたまふなり」
と書かれています。

この念仏申さんとおもいたつこころがおきるとは、
まさに真実の世界の呼びかけに気がつき、
おのれの位置が明確になった瞬間です。

そしてそのときに、ある意味で全て解決してしまう、
そんなふうに読み解きます。信じたのちに、
やがて何かいいこと(ご利益)が起きるというのではないのです。
難しい部分ではありますが、これが出発点であると思いますね。

(2016-07-19 SNS コラム記事より)

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