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気になる言葉、そして誤解 [キリスト教]

ルカの福音書7章に、罪深い女をゆるすという話が出てきます。
イエスがファイサイ人の家に滞在し、食卓についたとき、町では有名な罪深い女がつかつかとイエスのもとに現れます。香油の入った小瓶を抱えて、泣きながらイエスの後ろから足元に近寄り、涙でイエスの足をぬらし、自分の髪の毛で拭き、そして足に接吻して香油を塗ったという話です。

周りの人々はこれは罪深い女なのだと非難するような視線を向けています。イエスはこの雰囲気を感じ取って、弟子のシモンに言うのです。

「あなたに言う。彼女が多くの罪がゆるされたのは、彼女が多くを愛したことでわかる。少しだけゆるされる者は少ししか愛さない。」
イエスは女に向かって、
「あなたの罪はゆるされている」
「あなたの信仰があなたを救ったのだ。安心して行きなさい。」

人々は、罪をゆるすこの人は、いったい何者だろうと、心の中でつぶやいた。

(以上 ルカ福音書7章 フランシスコ会聖書研究所訳注より)

気になるのは、周囲の人はイエスが罪をゆるしたと見ているわけですが、イエスはそのようなことはいっさい言っていない、ということです。
イエスが語ったのは、「罪がゆるされている」という宣言であって、その女をゆるすとはひとことも言っていないことです。

このフランシスコ会の訳では、この節の表題に「イエズス、罪深い女をゆるされる」と付いていますが、これも誤りです。残念なことですが誤訳で、イエスは罪をゆるすとは語っていません。(注)

この部分はとても重要なポイントと感じますが、大多数の人はこれを誤解しているのではないかと思われます。

その違いですが、新約聖書を通じてイエスは罪深い人に対してそれをゆるすという言葉を、はたして投げかけているのだろうかと疑念を抱いています。もしそうならば、イエスはその力があるということになり、神に等しい立場にいるということになります。

イエスによる救いとか、ゆるしということが、よく語られているのを見聞きしますが、それはイエスを神に同一視する見方です。イエスのパワーにそのような力があって、それが作用したのだという見方になります。

しかし、イエスがこの食卓の前で語ったのは、その人の深い信仰がその人を救っているのだということ、多くの愛を示したことが、罪がゆるされていることに示した、という表明です。つまり本人の信仰によるものであって、イエスはそれを認定した形です。

それはどのような時間的な経過になるのでしょうか。
イエスが語っているのは、深い信仰や愛をもちえたときに、すでに罪はほどけてゆるされているという時間的な順番です。

けっして最初に罪深い女が、ゆるしてくださいという嘆願をイエスに向かってしたわけではないということ、そのお願いの見返りにイエスがゆるしたという訳ではないのです。女は深い信仰を示しただけです。

このルカ書のこの部分の記述は、信仰の本質を示していると思われます。

(注)2011年4月24日刊行の「聖書 原文校訂による口語訳 フランシスコ会聖書研究所訳注」では、以下の表題に改定された。
「罪深い女の赦し」

(2016-08-09 SNS日記より)

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