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慕う気持ちになる人 [禅]

三十年余りずっと持ち続けている書があります。
本の題名は『信心銘』という禅書の解説書。
昔の製本だから紙は黄ばみ、閉じ部分もバラバラに
なってきたので綴じ直して補修しました。

信心銘を著したのは中国禅の第三祖、僧燦
(そうさん、正しくは燦の火へんが王へん)という方。
この僧燦という方に、昔からなぜか親しみを
覚えて仕方ありません。

この僧燦;は西暦540年ころに、第二祖の慧可にあい
出家しました。慧可に出会ったとき、僧燦は42歳だったと
言われています。かなり遅く中年オヤジになってから出家したわけです。
しかし、この方がいなかったら中国の禅の広まりはありませんでした。

そもそも僧燦;が慧可に教えを乞うたのは、
次のような事情だったといわれてます。
「私は体中業病にまとわれています。
どうか和尚、罪を清めてください。」
この業病とはライ病だったという話があります。

慧可は言います。
「その罪をここに持って来い。
そうしたら祓い清めてやろう。」
しばし無言の後、
「罪をつかまえられません」
慧可は、
「お前は自分に罪はないと本当にわかったのだな。
これでお前の罪を祓い清めたことになる。
これからは仏法僧の三宝に帰依して
生活しなさい。」

仏法僧とは何ですか、という質問に対し、
慧可は教えます。そして、
「この業病の原因と思っていた罪性は、
内にも外にも中間にもない。不可得の空で、
心の本体も同じく空である。」
このような説法で、僧燦は悟ってしまったとのこと。

このとき慧可は喜んで、
「深くこれを器とす。
これ我が宝なり、
よろしく僧燦と名づくべし。」

燦とは、美しい玉の意味で、
玉の光りかがやくさまを燦々とも言います。
いかに慧可が喜んだかということが伝わります。

この僧燦は110歳あまりで、大樹のもとで
立ったまま合掌して亡くなったとあります。

信心銘の書き出しは、あまりにも有名な句です。
「至道は無難、ただ揀択を嫌う」

この意味は、宗教的な真理を体得することは
わけもないことだ。それを妨げるのは、
選り好みをするという相対観を持つことだ。
(ちなみに白隠禅師の師匠の師匠は至道無難という方。)

このような対句が73出てきますが、一貫して
この分別心による差別や区別、蒙昧の見方、あり方を
指摘します。

そういう意味では極めてシンプルな教え。
しかし体得は難しいです。


(SNS日記より 2016年8月31日)
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夜にうつらうつらと想う [思想]

夜、書斎に上がって、本を読むでもなく、何かをするでもなく、
ただ何時間も何ごとかを考え詰めている、という時間を過ごすことが多い。

先程から、どこかの本で読んだ文章が気になって、
ふたたびその文章を読みたいと思うのだが、
どの本であったか思い出そうとしても出典がわからない。

うろ覚えの文章とは、こんな内容だった。
ハイデッガー(ドイツの哲学者)が、死を前にしてか不明だが、
禅仏教のことを知り、とても残念がって、もし若い頃に禅を知っていれば
自分の哲学はかなり変わっていたことだろう。
そんな述懐が記されていたのだ。

若いころに、ハイデッガーを理解しようとして苦闘した記憶がある。
当時、キルケゴールという哲学者の著作をかなり読んでいて、
ハイデッガーはその後継者とみなされていたので、どのような
つながりがあるのだろうという関心があった。
それにハイデッガーの主著『存在と時間』があるが、
哲学の根本問題に真正面に取り組む姿勢が魅惑的だった。

しかしハイデッガーの著作には、ドイツ語ならではの造語に似た
新しい用語が使われていて、ドイツ語で読まないと本来の意味が
見出せないことがなんとなく感じられて、理解を断念してしまった。

思い出せないある本の文章によると、実存哲学の最後の巨人と
言われているハイデッガーが、禅で述べている哲学と言うか思想に
収束しようとするものを直感したとするならば、
ハイデッガーが追い求めたものは、意外に自分にとっても親しみやすいもの
だったのかもしれないと思えてくる。

ハイデッガーの試みはこうだ。
存在というものの秘密を解く鍵は、人間にある。
そこで人間存在の本質を追求することで、存在の秘密が明らかになる。
「ある」ということはなにを意味するのか、
その通路として人間の在り方を調べていくという手法なのだ。

では人間の存在とはなにか。それを端的に表現する言葉として、
「現存在」といういい方をするのだが、まあ実存という言い方の方が親しみやすい。
そして現存在の本質とは何かと問うわけなのだけれど、
ハイデッガーは、投げられた存在なのだという。
この投げられた存在という言葉が、若い頃はどのような背景から
出てくるのかわからなかった。

しかし今思えばそれは、人間は「自分の力で」生きている存在ではなく、
「なにものかにより」生かされていることだ、という意味ではなかったかと気づく。
もちろん人間は、おのれの将来を決めるべく将来像を作って
それに向かって努力するということがあるだろう。
しかしなんといっても人間の存在の始まりは、投げ出された存在、
気がついたらそこにあった、という存在形態なのではないか。

主著『存在と時間』は完成を見ないまま、前半部分で終わっていて、
後半に当たる部分は、講演会などで語られているようだ。
禅を知っていればといった後悔の念というのは、
この語りの中に出てきたものかもしれない。

自分という存在が投げ出されたものと規定するのならば、
その投げ出したものは何か、投げ出される場所とな何かと
問われないければならない。
それはまさに禅が追求していく自分自身というものと
無縁ではありえないと思われる。


(SNS日記より 2016年8月29日)
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