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庭の柏樹 [禅]

中国唐代の禅僧に趙州禅師という方がいた。
趙州禅師は十八歳で悟りを得たのち、南泉禅師のもとで修行を重ね、
師匠が遷化したとき趙州は五十七歳。
三年の喪に服したのちに、六十歳から一介の禅僧として行脚の旅にでた。
二十年の更なる修行を各地で積み、八十歳になってようやく
観音寺というお寺の住職となった。四十年の弟子たちの教化に努め、
百二十歳で座ったまま遷化したといわれている。

ふつう禅の修業においては、弟子の教化に際に、
喝と叫んだり、棒でたたいたり、罵倒したりというやり方が、
とかく目立つのだが、趙州禅師はこういう激しいことは
いっさいしなかったらしい。
真をついた短い言葉の問答がほとんどで、
その唇に光を放つとさえ言われている。

これは有名な公案のはなし。
あるとき趙州禅師に、修行僧が問いかけた。
「禅の究極の目的、真髄はいかなるものですか」
趙州は短く、
「庭にある柏樹」
と答えた。
修行僧はその答えに納得がいかず、意外でもあったのだろう、
「そんな外界にある樹を持ってきて答えないでほしい」
と注文をつけた。つまり、いい加減なことを言わないでほしい、
こちらはまじめに禅の真髄のことを質問しているのだと。

すると趙州は、
「いやわしはまじめに答えている。
外界のもので答えたわけではないよ。」
そこで修行僧はもう一度、気を取り直して訊く。
「禅の究極の目的、真髄はいかなるものですか」
趙州は応じる。
「庭にある柏樹」

こういう問答があったことが『無門関』という禅書に
掲載されている。
まったくチンプンカンプンなことを禅問答というけれど、
まさしくその典型的な応答だ。

趙州はぞんざいに答えたのだろうか。
たまたま庭の柏樹のすがたが眼に入ったので、
それを答えたのだろうか。
いやいや、そうではない自分はマジメに答えているのだと
禅師自身が言っている。

禅の本質とは何かという、抽象的で高等な質問に対して、
具体的な庭にあるありふれたもので答えた。
禅の本質という高等な議題にたいして、
日常に接する樹木みたいなものは釣り合わない。
禅の議論のほうが、はるかに高級な話なのだと
修行僧は思っているにちがいない。

こういう思い込みはよくある。
人生への問いや、人生の意味を考えることは、
とても高級で知性の高い人間のみがなしうる質問であると。
若い頃はボク自身がそう思い込んでいた。
しかし、これは本当なのだろうか。

いまこんなふうにボクは感じている。
人生の意味などへの問いという、きわめて観念的な
疑問というものを抱いている脳髄は、何が支えているのだろう。
言うまでもなくこの肉体であり、その肉体を生かしめている
食べ物や、地球の環境であったり、
また生んでくれた父母、教育であったりする。

おかしな感覚ではあるのだが、
人生の意味や禅の本質を考えることよりも、はるかに広く、
はるかに多種多様なものごとが、その脳髄を支えている。
だとすれば脳髄の発する質問は、すごく小さい。
そして単一で単純だ。
ボクたちを生かしめているもろもろのことがらの方が、
はるかに広くて複雑で見通せない。

人生の意味や禅の本質を考えるというと、
普遍的で広大な範囲のことがらを
思考の対象としているかのように錯覚する。
すごいことを考えているのだと妄想する。

しかし、本当のところはちがうかもしれない。
言葉のもてあそびに陥っているのかもしれない。
現実世界は、その錯覚している脳髄をすっぽりと包み、
その肉体を生かしめている関係にある。
その錯覚を目覚めさせる一撃の答えが、
趙州禅師の庭の柏樹だったのかもしれないなと。

(2016-06-18 SNS コラム記事より)

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枯木倚寒巌(こぼくかんがんによる) [禅]

冬の厳しい岩場に、枯れた木のように私は立っている、
という意味である。このあとに、三冬暖気無し、と続く。
だから、私のこころにはまるで暖かいものはないのだ、
というような意味である。

これはある修行僧が若い女に抱きつかれたときに発した言葉で、
禅の有名な公案のなかの物語だ。この公案は、なかでも透過するのが
むつかしいとされてきた。

このお話には前後があって、そもそも若い娘にそんな行動をとらせたのは、
お婆のさしがねだった。お婆は、まだ若き修行僧に見込みがあるとみて、
庵を建て、そこで何十年と修行をさせてきたのだ。
そして身のまわりの世話を若い娘にさせていたというわけなのである。

で、あるときお婆は、そろそろ修行の成果を試してみようと思った。
むすめに言い含めて、僧侶に抱きつくようにさせたというしだい。
そしてみごとに(?)修行僧の反応は、私は何の暖気も感じない、
修行してきて、自分はそういうものとは無縁の境地になったのだ
と言い放った。

その顛末を娘から聞いたお婆は、なんと、なまくら坊主め!と
激怒の末に修行僧を追い出し、庵まで焼き払ったという話である。
婆子焼庵という名前のついた公案で、さあお前だったらどうするかという
問いなのである。

若い頃からこの公案のことは知っていて、自分だったらどうするのだろうと、
答えの無いまま、何十年と宙ぶらりんな気分。
もし誘惑に負けて、若い娘を抱いてしまったら破戒僧となって、
庵から追い出されてしまう。
そんな誘惑には乗らないと突っぱねれば、これも庵から追い出される。
さあ、お婆のお眼鏡にかなう対応とは何なのだと、問いかけている。
しかしどちらにしても正解が無い。ホント困ってしまう。

道元禅師のもとで修行をしていた弟子が、この公案の解答として、
私だったら抱いてしまいます、と答えたらすぐ破門されたのは有名である。
潔癖な道元禅師は、その弟子が座っていた床まで剥ぎ取ってしまったという。

どっちに転んでも、いい答えが無いというのが公案たるゆえん。
似た話にこのようなものがある。
高い竿のうえで口だけで体を支えている男に、仏教の真髄を言え
というものもある。それを語れば男は落下してしまう。
しかし答えないわけにはいかない。
そういうジレンマに追い込んでおいて、それを突破させるというのが
公案禅である。

婆子焼庵の話の答えが得られないまま、いい歳になってしまったが、
なんとなく問題の所在、その論点が見えてきた気分にはなった。

この修行僧は、自分の保身とか、見栄とかしか頭になかった。
周りの人間を救っていこう、人の苦を和らげていこうという、
菩薩心ともいうべきものがまったく芽生えていなかった。
修行とはそもそも何であるのか、まったく思い至っていなかった。
お一人様の自慢傲慢坊主になっていた。
それが、何十年と世話をしてきたお婆をひどく失望させ、怒りを買った。

(2016-0611 SNS コラム記事より)

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小さな気づき (自分のためのメモ) [禅]

白隠禅師の坐禅和讃の教えは、原田祖岳老師の著で、
わかい頃より知っていた。

でもその述べられている意味が、分かっていたとは、
到底いえない。
なんだか古臭くて、調子よく言葉を並べている印象ばかり
めだってしまい、その指差している意味にまで、
頭がめぐっていない感じだった。

総体的に言って、ここは自分の弱点である。
表面にばかり眼が行って、その指し示していることがらに
眼を向けない。じつに愚かしい。

月を指差す、その指の形の方に気が捕われてしまい、
月そのものを自分の眼で見ようとしない愚か者。

白隠禅師の坐禅和讃のなかに、こんな文言が出てくる。

「闇路に闇路を踏みそえて
いつか生死を離るべき」

この生死を離れるとはなんなのだろう?
そんなことがありうるのだろうか。
人間である以上、いつかは死ななければならない。
それが生死を離れられるかのような言い方を
するとは、いったいどういうことなのだろう?
そんな魔法のようなことがありうるのか?

これは長年の疑問だった。
そしてこれは白隠禅師が、言葉を誇張して
大げさに言ったに違いないというふうな理解に
とどまっていた。

ああそんなものかい・・・といって終わっていた。

で、それから何十年。
あるときふと思ったのだ。

生死の問題が生ずるのは、自分がそれにこだわっているからだと。
生に執着し死を厭う気持ちがあるかぎり、生死の問題は消えることはない。

しかし、動物たちのような、生に執着して死を厭うということがない生き物たちは、
死ぬべき機運になれば死ぬだけで、そこには生死の問題はないのだと。

死が到来することを自然と受け入れて生きている人には、
生死の問題は生じていない。
そこにこだわりが断ち切れない人にとって、生死の問題は
大きな苦しみとして襲ってくる。

心の持ちようといえばそのとおりだのだが、
生死を離るるとは、こころの執着を離れることを
意味していた。

生まれたものは死ぬ。
死んだもののなかからまた生まれてくる。
これを何億年と繰り返してきた。
大きな生死のドラマの中に自分が浮かんでいる。

そこに気づくことができるか、
そして死は自然なものであり、死ぬ縁になれば
死ぬだけなのだと腹の底から理解したとき、
死の問題がもう自分を苦しめることはない。
死んだらどうなるか、死後の世界はあるのか、
霊魂は不滅なのかとかの問題は、関心事でなくなる。

これらのことがらは、じつは釈尊の教えのなかに
繰り返し、繰り返し語られていることがらなのだと、
のちになってわかった。
しかし受け取ることができないときには、
どんな貴重な言葉も、看過してしまうものなのだよね。

(2016-05-05 SNS日記より)

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