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言葉と体験、そのあいだに横たわる溝 [思想]

昨年から、お付き合いいただくようになった元大学教授の瀬田さん(仮名)
という方がおられる。
瀬田さんは若い頃より人生の問題、とりわけ死の問題について
宗教を訪ね、また臨死体験などの調査を重ねられて、
どうしたら死の克服という課題に、解決が得られるのかを
真摯に追求されてきた。

先日、瀬田さんとお話する機会があって、その場で、
いまの仏教のあり方に対して批判的な見解を語られていた。
それはこのようなことだった。

瀬田さんは、禅仏教で言う悟りの状態が会得できるならば、
死を前にして泰然自若とした態度が取れるにちがいない
という想定を立てて、禅寺の住職さんを訪ねては、
悟りとは何かを問い続けてきたそうである。
また坐禅会にも若い頃より足を運んだそうである。
それこそ何十年と追求を続けたそうだ。

しかしながら、悟りについて、その内容を住職さんたちは
明かしてくれないし、概念的にも説明すらしてくれない、
そして、ただそれは言葉にはできない、と言われるだけである。
また僧侶の著した書を読めとか、そのコピーを送ってくるだけだ
と語られた。

こちらの問いに対して、語ろうとしない態度はきわめて不誠実なものだ、
というご批判だった。そして、ついには矛先はこちらにも向いてきて、
OASIMさんも、やはり言葉ではいえないといって、
少しも語ってくれないですねと、なんだか不満を述べられた。

そこで・・・
自分は悟ったわけではありませんが、とまず断わった上で、
こんな例をお話した。

『蒸し暑い日、かんかん照りの道を歩いて、
喉がカラカラになったけれど、しかし周りに水らしいものがない、
そんな状態で半日ほどすごしたとしましょう。

この喉が渇いたつらい体験を人にどのように伝えますか?
またさいわいお水を手に入れて、喉の渇きを癒したときに
「ああ、うまい!」という感覚を言葉で表現できますか?

言葉で伝えられる範囲は、つまりこういうことではないでしょうか。
自分は喉が渇いている、そしてようやく水が飲めたときに、
水とはこんなにうまいものだとは思わなかった、
という概念的なことがら(つまり情報)ではないでしょうか。

つまりその話を聴いた人が、ああそうなんですねと、
他人事として聴いたきりで、話は終わってしまいませんか。
言葉を聴いた人が、喉の渇きを体験してくれるわけでは無いし、
ましてその水のうまさを実感してくれるわけではないです。

もし、その聴いた人が深く共感してくれるとすれば、
その人にも同様な体験があり、水がこんなにもうまかったのだと、
感じる体験をした場合ではないでしょうか。』


なんとなくはぐらかしたような答えではある。
しかし言葉は、その体験につけた符号のような呼び名であるために、
体験を共有できていない人には、言葉の概念しか伝わらない。

悟りについても同様で、悟りを理解した人同士ならば、
少しのヒントや言葉で互いに体験を理解でき、共感できる。
しかし悟っていない人に、どれだけ説明してもその人が悟りを
得るわけではない。

よくあるたとえ話であるが・・・
あのきれいな月を見てと指差したら、
相手は月を見ないで、指の方ばかり見ている。
月が見えていない人にとっては、見ろと言われた先には指の姿しかない。
だからいくら言葉を費やして説明しても、月のことは伝わらない。

月が見えるようになった時、
初めて指差した先の月に気づくことができ、
その月の美しさに感動できる。

悟りを、幸福というものに置き換えても同じだ。
いまある生活が恵まれており、生きていられるだけで幸せなんですよ、
救われているじゃないですか、そのことを味わい喜びましょう、
と言っても、その幸せがいまの生活に見い出せない人には、
何のことかわからない。へんなことを言う奴だなと、
訝しがられるだけである。

宗教者がついには、学問や書を捨てて、
修行に打ち込んだという話は多い。
いつまでも、概念の世界で格闘していても、
救いはやってこないのだと絶望するのだろう。

(2016-05-30 SNS コラム記事より)

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