SSブログ

寂寥 [文学]

むかしから愛読する詩人に、辻征夫さんがいる。
いつも傍らに詩集を置いていて、パラパラと読む。
次の詩は、『鶯』という詩集に収められている。

++++++++++++++++++++++++++++++

裏庭
         辻征夫

梅の木が
裏庭にあるはずだ

裏庭にはゆかぬから
しばらく見ぬが
たしかに
あるはずだ

(五歳のとき
いちばんたかい枝に
おおきな鳥がきて啼いていたが)

爺 あの鳥は
どこへいったのであろう

++++++++++++++++++++++++++++++

ボクは寂寥という感情を覚えるけれど、
最近はこのような感情を
あまり話題にしないものだ。

過去への愛惜や、
どうしようもない過ぎたことがらを
いとおしむ感情。

それはなぜなのだろう。

そして、詩はこの寂寥というものを
背景にうたわれる文学のひとつだと
思っている。

現代の生活は、それらの気持ちを排除することで
成り立っているのだろうか。
それを見つめないまま生きていけると
考えているのだろうか。
それが可能だと考えているのだろうか。
人生から寂寥を排除することなどできるのだろうか。

思うようにならない人生を
そのまま見つめることだって
あっていいと思う。

ところが成功哲学とか
ポジティブ思考とか
いつも太陽の日が射しているような
明るいところで生き続けられるかのような
考え方が一般化してしまい、
負の部分や、陰の部分に目が行かなくなった。
光の中に居続ける強迫観念に
囚われるようになった気がする。

負の部分があって、正の部分も光るのに、
望ましくない部分を排除してしまえば、
正の部分も輝きを失う。
光を描こうとすれば、暗黒を描かなければいけない。
暗黒を消してしまうと光も輝きを無くす。

光と陰など、
対立概念は、片側だけでは存在できない。
人生の喜びも、寂寥とセットになっている。

(2014-03-27 SNS日記より)
nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 

nice! 0

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

トラックバック 0

結婚記念日10年という目安 ブログトップ

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。