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個性の発露 [文学]

T・S・エリオットの詩はむかしからよく読んだが、エリオットの詩学は難解で理解しやすいとはいえない。
それは内容が難解なためである。
(したがって、この日記も難解になる可能性大である)

しかし、エリオットの言わんとしていることは、個性の発露が詩という文学を成り立たせる要点なのではないということだ。逆に個性を消滅させることにより、自己をより価値あるものに服従させなければならない、という考えだ。

詩や文学は、個人の感情を表現し、個性を発露させるものであると考えるのが一般的だから、エリオットの考え方はたしかに理解しにくい。しかし、いつしか自分もエリオットに賛同するようになったということを白状しなければならない。

個人の感情など、ありふれていて、特別にたいしたものではないという諦念に似たものがある。しかし、感情を軽視するという姿勢とは少しちがう。よくよく振り返れば、さほどお前さんは独自で天才的な感情を抱いているわけではなかろう、ということだ。そんなに自分を特別視して、感情を発露したところで、それだけで文学が成り立つわけではないと気が付く。

同人誌の詩などには、この個性主義の自己の感情に溺れきって書いたという作品が並んでいることが多い。でもそれは他人の眼から見れば、ありきたりで特別なものなど感じない感情表現だなと思う。その作品を否定する気はないけれども、文学の核心は別のところにあると感じる。

何が文学や詩を成立させるのかという大テーマになってしまうが、やはりエリオットはうまいことを言っていると思う。

自己流に解釈してしまえば、価値ある普遍的なものへの通路を開けるのが個人の役割ということだ。亡くなった故人とのコミュニケーションを行う巫女さんのような役割だ。亡くなった人の考えを訊くことが大切なのであって、巫女さんが出身がどこでどのような人格かなどは問題視されない。死の世界との通路を開けてあげる役割こそ本質だ。

このことは芸術一般にも通じていて、たとえば絵画の世界でも同じだなと感じることが多い。画家の個性が注目されるのではなく、画家の個性を通じて、どれだけ風景の真実や花の真実に迫っているかが問われる。花はこれほど美しかったのかと気が付かせてくれるもの、あるいは風景の美とはこういうものなのだと納得させてくれるもの、それが普遍的な価値あるもので、そのガイド役として画家が介在し立ち会っている。画家に個性はあるけれども、その個性がテーマではないということだ。

逆説的に、自分固有の表現などに悩む必要はないともいえる。むしろ普遍的な価値あるものへの没入の度合い(深さ)やその世界を描ききっているのか、その点に悩むべきだろう。

(2014-05-13 SNS日記より)
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