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日本人が培ってきた感情 [宗教]

文学における個性の発露とか、感情表現のことを考えているうちに、
日本人特有の、体質に合った感情表現があるのではと思うようになった。
(またしても、コムヅカシイ話になるかもしれない・・・)

古くさい日本映画やドラマのことを思い浮かべている。
たとえば水戸黄門シリーズのラストのシーン。

悪人どもを懲らしめて一件落着、
心も晴れ晴れ、ご一行様は再び旅立つ。
空は日本晴れで、またとない良い天気。
松並木の街道を一行は手を振りながら旅を続ける。

若い頃は、なぜこんな古臭いシーンを入れるのだろう、と疑問に思った。
決まってこのパターン化したラストシーンが繰り返される。

でも今思う。
このシーンがあってはじめて、このドラマの完結があり、
日本人の感情は浄化され、納得していたのだと。

この葵のご紋が目に入らぬか・・・
という名せりふも同様だ。
これが無ければならない。
カタルシスに欠かせないのだ。

では、これらの表現で、個人や個人の感情が
なにか言われていただろうか。
ただ松並木があり、日本晴れがあり、
笑顔の一同様がいる。
感情は、どこにも具体的に表現されていない。

ただ「その」感情でみた外界の風景や
印籠があるだけなのだ。

寛一お宮の物語の名シーンでも、
月が泣いているという表現がある。
表現したい感情を直接表すのではなくて、
「その」感情で見た月がどのような顔を
しているだろうかという部分を描写する。

日本人はこのようにして感情をモノに託して、
表してきたということに気づく。

好きな芭蕉の句に、
荒海や 佐渡に横たふ 天河
というのがあるけれど、
こんなモノに託した優れた表現はないと感じている。
ここには、旅に疲れ果てた自分という個人名や、
ひなびた田舎の海に、輝く星空を見た
という行為の言及も無い。
ただ目の前にあるモノを介して
自己表現と感情表現をしている。

欧米人と向き合うときに、日本人は感情の表現力が
無いとか、下手とか言われるけれど、
どうもそういう問題の捉え方とは異なるのではないか、
とおもうのだ。日本人はそのような、個人を意識するとか
個人の感情を意識するように、言葉と文学を育ててこなかった。

日本語会話には、主語というものがあらわに言われることがない。
これも共通の土台があって理解されるのではないかと思う。

西欧流の哲学や思想には、こちら側には主観があり、
向こう側に対象となる客観がある、という根本構造がある。
これをベースに発展を遂げてきたと思われる。
また、キリスト教の根本を支えている原理でもある。
(逆に、キリスト教から派生しているとも言える)

ペトロは、「鶏が鳴く前に、あなたは三度私を知らないと言う」
というイエスの言葉を思い出し、外へ出て激しく泣いた。
                     (マタイ 26節75)

とても印象的な記述で、福音書というとすぐ思い浮かべる一節だが、
主語と行為が(英文法そのものに)明確に書かれている文章だ。
日本人はこのような表現はして来なかったと思う。

しかし、いまや日本人もこの思考のフレームを疑問なく受け入れている。
そのことで多少の混乱があるのではないかと思うけれど、
やがて優れた表現形式に到達できるだろうか。

(2014-05-15 SNS日記より)
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