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孤独について [人生]

日本の社会で、孤立した人間の姿が目立つようになったと感じる。
その背景として、西欧的な思考を自己のものとして取り入れて、
人生を考えるようになったことが関係していると自分は考えている。

いつの頃からか、日本人は西洋的思考の枠組みの中で
ものごとや人生を考えるようになった。
以前はそうではなかったはずだ。

西洋思考の本質は、個の自立であり、これを前提に構築される。
個人は周囲のしがらみとか因習から独立した自由な存在であるべきだと考える。
またみな平等でなければならない、平等であるべきだという考えがある。

私見では、この考え方のさらに根底にあるのは、神に対峙する人間、
神と契約を結ぶ人間の姿がある。神の前で、
個人の自由意志により信仰を選び取り、神の前ではだれもが平等なのだ。

ところが日本人の内側には、このような神と対峙する人間という構造が
しっかりと構築されているとはいえない。

神なしで、あるいは古来の八百万の神の中で、自由意志と平等の意識が専行している。

その結果、人間の存在が、拠って立つ根拠が不明瞭なまま、ふらふらと浮遊している。
その帰結として深い孤独の中に自らが置かれていることに気がつくようになる。

神との対峙構造を持たない、自由で平等な存在とは、
いったいどのようなものだろう。
自らが神となる超人思想に陥るのか、
あるいは浮遊した幽霊的な存在としての人間なのだろうか。

また孤独に対してどのようにして耐えようとするのか、
その方法を持たない人間の姿を思い浮かべる。

なぜ生きるのですか?と問いかけたときに、
明確に答えうる日本人がいかに少ないことか・・・

古来、日本人は大乗仏教を基礎にした生きる規範を持っていたと思う。
大乗仏教の根本には、自己の存在には実体がなく、
ただ縁起の結び合いでさまざまなことが生起していると見る。
自分の存在は、さまざまな縁起のおかげでここにあると見る。

自己の存在は孤立してありえない。まして自分の意志で自分を創ったわけではない。
おかげさまで自分がここにいられるという感覚が当たり前のことだった。

縁起により自分が形づくられ、縁起の結び目が解ければ、自分は解体される。
キリスト教の神のような存在は意識されないが、
山川草木すべては自己と別ものではないと考える。
その中の一部が因果応報で自分になったと見る。

自由と平等という西欧流の思想を受け継ぎながら、
感覚的にはそれとは背反する大乗仏教的なものを自然なものとしている。

まことに日本人は、若いころはある意味で分裂しているのだが、
中高年を境にして思考の混乱がおき、そしてどこへ向かうのか分からないが、
ふらふらしている老人が多いと感じてしまう。

ちなみに自分自身は、この古来の思想に回帰してしまった感がある。
もうニーチェなどは読まない。

(2014-05-27 SNS日記より)
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